日朝連帯の先駆者 

上甲米太郎書簡を発掘 その1


このたび国立公文書館が所蔵している歴史資料の中から、上甲米太郎さんと彼の仲間たちの間に交わされた書簡10通を発掘しました。

朝鮮慶尚南道昆明(コンミョン)普通学校校長・訓導であり、かつ共産主義啓蒙家であった上甲米太郎さんは1930(昭和5)115日、30歳のとき、治安維持法違反容疑で特高に逮捕されますが、今回発掘した書簡は逮捕の直前のもので、中には逮捕前日に送られたものもあります。

書簡は特高が裁判の証拠品として押収したもので、翌年ソウルで開かれた第1審裁判に提出されました。日本帝国崩壊の15年前のことです。

最初に出てくる趙判出(チョ・パンチュル)さんは上甲米太郎の教え子で、当時19歳、京城師範学校学生として京城師範学校寄宿舎で、学友たちに社会主義思想を広める活動を進めていましたが、この年11月末米太郎より数日早くやはり治安維持法違反容疑で逮捕されました。

山下徳治さんは鹿児島市出身、東京の自由学院教師。ドイツ遊学、さらにソヴェットロシアの教育事情を視察し、1929(昭和4)年帰国後「プロレタリア科学研究所」、全日本教員組合準備会に入り委員となって活躍。1930(昭和5)819日仲間たちと「新興教育研究所」を設立、月刊誌「新興教育」を発刊。米太郎と同時に東京で逮捕されました。この年39歳、共産主義教育運動の指導者でした。

関係者は東京在住者も含めて、朝鮮・京城市の西大門刑務所に勾留され裁判にかけられ、翌年第一審判決が下されます。

第一審判決主文は次のようになっています。

被告人山下徳治、上甲米太郎を各懲役二年に処す

被告人西村節三、菊池輝郎、趙判出を各懲役一年に処す

被告人全部(五名)に付 未決拘留日数中五十日を各本刑に算入す

但し、被告人西村節三、菊池輝郎、趙判出に対し書く四年間、右刑の執行を猶予す


今回はまず5通を紹介します。注は尾上がつけました。


1 趙判出から上甲米太郎へ

   1930(昭和5)年 解放15年前


原稿用紙がなくなつちゃつたんで、昔の(僕の三年の時の)用紙をトランクの底からほじくり出したんです。
今般遅くなりましたので、こんなセンチメンタルな用紙で甚だ失礼ですけれど御勘弁下され度御願申上候。
実は小生あの電報為替(銀行)は一つも経験がなかつたのであの電報の後に小切手か何か来るものとばかり思つて待つてゐたのです。ところがいくら待つても来ないんでしょう。聊か心配になつてとうとうお手紙を差上げた次第なんです。
当方にも歴とした商業の先生が御座るのに聞いたつててんで知らないんです。それで僕、今日の二回目の電報を受取つて早速商業の本を開いて見たらちやんとありましたよ。
今日は時間が遅れて駄目、明日取りに行きます、とに角理論をぬきにして僕は感謝し敬意を表します いろいろ考えてみましたが善を云ふものは文句をぬきにして善であつて絶対であります、
僕の電報の方がはやいでせう。
       ×   ×
過日 本町二丁目(注1)カフエーホワイトランチに中島君子さんを菊池君と二人で訪ねて勿論コーヒー一杯で話し込んで来た 同志と会つて語るのは実に愉快なものだ。
中島君子さんは九州博多の産、内地にゐて労農党を支持し大山郁夫氏立候補(今日大山は我々にも裏切るかの如く云はれてゐるが(注2) 我々は斯かること云はないで 少しでも強く団結がほしいものだ)した時には街頭で応援演説を<した>女闘士で仲々しつかりしたものだ 今でもスパイ奴がダニみたいにくつついて困るから御互に交際は文の上ですることにした。

なんでも今月一杯でカフエーは止めて保険の何かになるとのことでした。
僕の同志は(級内の)今四人です。僕に菊池 それから 呉聖俊、徳田明の四人だ この四人はとても団結しています。
卒業したら教員組合のためには皆人肌ぬぐ覚悟でゐます。

教員は割合に自覚(真の意味に於ける)の足りないものが多いんですから骨が折れますが 僕たちが出てから五年と経たない中には相当物になるだらうと思ひます。

先生は一つ今からおおいにやつておいてください。僕も五年は無事でしたらみつちり勉強でもして其間教員組合でもやつてーーそれから階級闘争の第一線に立たうと思ひます。

我々の社会は必ず来る、今や山から石がころげ落ちつつある。これが谷底に到るのは必然だ。

いくらブルジョアが必死になつて頑張つても、もうどうすることも出来ない。しかしこの石が谷底に到る時間を早めるのは我々の務めだ、三十分を十分に、否五分に、或る先覚者は私に云ふた、「我々の社会は三十年中には必ず到る」(注3)と。

ブルジョアも昔から正義が勝つと教えてゐる。
勝味我に九十パーセントあり。

南鮮旅行(注4)は十九日よりですが 晋州着は何日になるか知りませんが折つて御知らせ致します。
電報でも打ちませう。

      ×   ×

新興教育の十月号の読者欄に「朝鮮桜井××」としてあるのがどうも先生らしいと菊池君と二人で云つてゐるんですがさうじゃないでせうか。

僕もこれに未熟な者ながら十二月号までには是非何か一つ書かうと思つてゐますが 何事も旅行がすんでから。

     ×   ×

大山さん(注5)は今東京に行つてゐられます 何事か知りませんが今明日皈(かえ)つてくるでしやうーー


またお便り致します
では

                                                一同志より

同志
上甲先生へ


1:京城市本町は当時の日本公使館の近く、泥峴<韓国語でチンコゲ=ぬかるんだ岡>すなわち今の明洞のあたり

2:大山郁夫氏が労農党から立候補したのは1928(昭和3)年の第16回衆議院総選挙。このときは落選。1930(昭和5)年の総選挙で新労農党から立候補して当選。このとき合法政党無用論の共産党が大山氏を「大山師」と批判したらしく、「今日大山は我々にも裏切るかの如く云はれてゐる」はそのことをさしているのだろう。日本の政治状況は植民地朝鮮にすぐに伝わつていたようだ。この手紙も1930(昭和5)年のものであろう。

3:「30年中」はまさか「今年中」ではないと思うが・・・。「30年以内」だろうか、「1930年代中」だろうか。どちらにしろ日本帝国は1945年に崩壊した。「30年以内」だとすると15年早く、「1930年代」とすれば5年遅れて。いずれにしろ、「先覚者」の予見に間違いはなかつたわけだ。

注4:1931(昭和6)年11月21日下された京城地方法院第1審判決文に、1930(昭和5)年「10月28日同被告両名<菊池輝郎・趙判出>が京城師範学校修学旅行隊に加はり慶尚南道晋州郡晋州面に到るや被告人上甲米太郎は之を途中郡北駅に迎へて 三名は右修学旅行隊と離れ 別に同面旭旅館に同宿し同夜被告人上甲米太郎、菊池輝郎は互いに共産主義を信奉するに到りたる・・・」とある。釜山方面から西へ鉄道(慶全線)でいくと、三浪津→馬山駅→中里駅→山仁駅→咸安駅→郡北駅→院北駅→坪村駅→班城駅→文山駅→開陽駅→晋州駅となる。

注5:大山は不明。あるいは朝鮮人か。



2 趙判出から上甲米太郎へ

1930(昭和5)年11月11日付け 

趙判出逮捕20日前(注1 米太郎逮捕25日前 

解放15年前


急に寒気に見舞はれ当惑致し候
当地は初雪はすでに一週間も前にあつたし 今日は零下五度と云ふ寒さ、洵(まこと)に縮こまる程に候

菊池、徳田両君壮健、小生亦壮健お喜び下され度候

今一つお喜び下され度候、それは我々の同志を獲得したる事に候

我々の室にて度々議論を致し左右伯仲して論戦いたし候 その度毎に我々は常に勝利を占め 右翼の連中を何時も顔色なからしめ居り候。

今にては我室にて社会主義に対して疑惑を抱くもの一人もこれなく皆自己の誤れるを悟り、或る者は現実逃避を意識的に行ふを宣言し 或る者は「結局俺は勇気がないわけだ」と云ふて自覚し諦め居り候。

最も重大な面白く愉快なる出来事は我室にて最も反対者と目されたるものを完全に説伏 小生静かなる所に誘ひ 遂に我等の門に降ることを云はしめし事に候。昨夜菊池君も一緒に誘ひ三人して大に語り 小生の所持せる書物を与へて 今熱心に読み居り候、追って紹介致すべく候。

この外三人を完全に説伏せしめ候

一人は観念論の陣営内に煩悶し居りしものを 菊池君と二人してとうとうその非を悟らしめ、是又新興教育(注2)を読み居り、もう一人は絵画(鮮展も入選せし腕前に候)をやるものにて新境地を開き、今はプロレタリアの立場より更正せりと喜び居り候。

もう一人は普通科四年生にて後継者として選定いたし候 まだ初歩にて我々の導き方によるべく候。

一週に一度以上は必ず集合して懇談いたす心算に候。

貧乏物語に河上氏も曰く

如何に大衆的闘争が激発されても そして又 大衆はかかる闘争を通じて次第に教育され啓発されてゆくとしても、それは自然発生的傾向に放任してすてては 必ずブルジョア的イデオロギーに捉われるに決まってゐる。

と放任は危険に候。

今のところ志を同じうするもの八人 困れば先生とも連絡を保つべく候
仲々に面白く愉快に候


馬鹿に非ざるものは話せば分かるものに候、
追って状況を報告いたすべく候

読書会とでもして会を持ちたく存じ候、菊池君は仲々に編輯には長けて居り 申分これなく候。
表面には表れることこれなければ御安心くだされ度候

先生も原稿(田舎の状況、統計、所感等の研究)を御送り下され度候。

四五日中には具体案を作り御送り致し ご批判を願ひ度存じ候。

揃って慶南にでも赴任致せばと存じ申候。

大山氏は一週間も前また東京に行かれ二十日ころにならざればお皈りになるまじく候。
用件の内容は存ぜず候へども二回に亘る東上何かある事を予想され候
労農党に関係せるものの如く候

近況お知らせ下され度候
同志達鶴首して待ち居り候

                                                               同志 卞并来(注3)より

同志 上甲先生へ




注1:趙判出の逮捕は「11月末」としか分かっていないので、かりに11月30日として計算しておく。

2:趙判出のペンネームらしい。


3 趙判出から上甲米太郎へ 

1930(昭和5)年11月21日   趙判出逮捕の10日前  米太郎逮捕の15日前 

御手紙拝見致しました。

未来の同志が生まれたそうで我々一同御祝ひ申し上げます
その後健全にお育ちのことと思ひます
早く大きくなったらいいなあと皆云っています
同志でしたら一人でも増えたほうが我々には是と強いんですから 未来に属しますがちっぱな闘士になる事を祈ります
伊利一 ―― これも賛成です(注1)

大山さんはまだ皈ってこられません

新興教育の十一月号は手に入れました。本屋に堂々と出て十日以上も経って発禁とは如何に彼らのやり方がルーズかの一証拠ですね。

日本に於ける教育労働者組合に就いての一考察の渡辺氏(注2)の論文読みました。最後の組織のところは大いに我々の仕事に参考になると思ひます。

「教員組合が出来たら次は巡査組合だ」と云はれるやうに 教員はあくまで超階級的神聖な存在として 醒<めざ>めることの遅いのがしりから二番目であるだけに 現在の我々の仕事は仲々花々しくはないかも知れません。

実際僕と一緒の鮮人生徒にしたつて、みんな完全なブルジョアの代弁者となってゐます。全くあきれる程です。又我々は花々しい結果を予想するのは性質から間違ってゐます 蔭からじりじりと彼らの堅城を侵略してやるんですね。

我々のグループ今のところ異状ありません。そして研究会と云ふやうな形をもつと云ふことはどうしても必要ではないかと思ひます。折角その気持ちになっても、弱いために環境に支配されてついブルジョア・イデオロギー溺れて仕舞うんですから

我々は最初はどうしてもアジプロ(注3)で行き 次に信念を持たすことは研究会を通じて意見の疎通をはかることによって可能ではないかと思ひます。

「第一線」と云ふパンフレットを出して自己の位置を自覚せしめやうと思ひまして 今月中に一回だすことにしました。月に三回くらい出して各自のノート代わりにもなるやうにしやうといふ意見です。

先生と一著に仕様と思ひますが そちらの原稿をまとめて送って下されば出版はこちらで引き受けます。
この雑誌の発行については是非先生の意見をうかがひたいのです これは押入の中でやるんですから バレることは絶対にありません。
この点御安心を願ひます。くれぐれも御安心の程を

エス語(注4)講座の第一巻はおわりました。
先生がお取りにならなかったら送ってあげてもいいです。
中々おもしろいものですね。やたらに使ってみたくて仕方がありません。
でも六ヶ月もしないと、ものになりさうもないです。

僕が京城にずっとおるのでしたらロシア語もやりたいんですが (幸ひロシア人がおりますから)―― 二、三ヶ月の生かじりぢや どちらもものになりませんからね。

経済学(ブルジョア)のことですが、これは予備的には知っておく必要がありそうです――勿論丸く主義経済学が絶対正しいものですが――どう云ふ順序で行ってよいか僕たちも全然見当がつきません。

唯 僕たちは学校で教科書として使った経済学と土田杏村(反動の親玉)の信用経済しかやってゐません。
我々はまづ概論位でいいんぢやないでせうか。

勿論微細なところまで行き届かないと彼是云へないですけれど 僕たちは一に実践二に理論で行かなくちゃうそと思ひます。

それからシンパサイダーのことですが

同情者と訳す。社会運動の方面では 積極的に運動には投じないが 運動に対して理解と同情を持ち 間接に支持応援をする人の事を云ふのである。時にはこう云ふ優柔不断嘲って「あいは単なるシンパサイダーだ」などと云ふこともある

ついで御参考までにオルガナイザーは

組織者と訳す。或る一つの組織体、例へば労働組合や政党を作る場合 それに参加すべき人を汎(ひろ)く、真先に立つてその結成に尽力し 又一度一つの組織が結成された場合には その組織を引き締め これが拡大に努力する人の事を指して云ふ。

とプロレタリア文芸辞典にあります。(注5)

十二月の休暇には大抵皈(かえ)らないやうです。ゆつくりお話でも致しませう。
宿の心配もいたしませう。

そちらの同志を固めてください。
云はばそちらが現役軍ですから――

同志一同
そちらの同志一同(若き未来の同志もいれますよ)のご健康を祈ります。

                                                         卞并来

同志
  上甲先生へ


注1:1930(昭和5)年長男伊利一(いりいち)が誕生。いうまでもなく、イリイッチ・レーニンのファーストネームである。

横川輝雄さんの文章によれば米太郎が「検挙される22日前に」誕生だそうなので11月13日ころか。上甲伊利一は「1965年設立の東京西部市民生協の創立時からのリーダーで、東都生協の専務を務め」たという

注2: 新興教育の十一月号は手に入れました。・・・日本に於ける教育労働者組合に就いての一考察渡辺氏の論文読みました。最後の組織のところは大いに我々の仕事に参考になると思ひます。」とある「渡辺氏の論文」は『新興教育』193011月号に発表された渡辺良雄さんの個人論文『日本における教育労働者組合運動に就いての一考察』(以下「一考察」)です。(「日本の教育2 民主教育の運動と遺産」(新日本出版社1975)所載の論文「教育労働者の闘争―『教労・新教』の教育運動」―139ページ)(以下「同論文」)。

同論文によれば「教労(日本教育労働者組合)」と「新教(新興教育研究所)」は「帝国主義の時代の教育労働者に課せられた階級的、社会的責務に全面的に真正面から取り組んだ教育の領域における階級闘争という性格を基本として」いました。このような性格をもって、1930(昭和5)年八月、非公然の組織として「教労(日本教育労働者組合)」準備会が結成され、合法的文化団体として「新教(新興教育研究所)」が創立されたわけです。

 「この運動はプロレタリア国際主義の精神を堅持し、日本帝国主義の侵略戦争に断固として反対し、植民地・被抑圧民族の解放と連帯してたたかいつづけ」ました。
植民地下の要求としては・民族的差別撤廃・民族語使用の自由・植民地における帝国主義教育反対などが取り上げられるようになります。

 上甲米太郎が普通学校校長でありながら朝鮮語を使うことがあったそうですが、それはこのような運動のなかに位置づけるべきなのでしょう。

 
月刊誌「新興教育」が発刊されると「その読者は、樺太、北海道、沖縄をはじめ、植民地下の朝鮮、台湾にまでひろが」り、全国各地で「新興教育」読者会が自発的につくられた」そうです。(同論文)朝鮮にいた上甲米太郎は、「新教(新興教育研究所)」が八月に創立されるや、九月には「新興教育」を購読しこの運動に積極的に参加していきました。

 
「一考察」はこれら「教労(日本教育労働者組合)」及び「新教(新興教育研究所)」の活動のあり方についての包括的な提言であったようです。 趙判出さんが「参考になる」といった「最後の部分」は、当面の闘争目標のことのようです。

同論文によれば、そこでは「当面の闘争目標」が「経済的領域について」「兵役について」「教育の領域について」「児童の領域について」「政治的領域について」の五つの分野について、民主主義的権利意識・人権意識によって貫かれた、教育労働者の労働権・生活権の擁護、児童生徒の人格的敵尊厳の擁護のための
92
項目の闘争目標が掲げられていました(「その2」にこの92項目を掲げています)。

次の項目は翌年のある「新教」支部で取り組まれた闘争目標ですが、当時の自覚的教員たちの意識の高さが伝わってきます。

・級長をやめて自治会をつくること
・教師が児童をみだりに使用に使うことに反対
・体罰、一切の懲罰をやめること
・運道具や黒板などは児童にも使わせること
・体操服の強制着用反対
・操行席次を決めたり成績の公表反対
・学校に傘を備えること
・湯呑み所をつくること
・学習は材料を無料で支給すること
・学校で怪我をしたときは無料で校医がなおすこと
・遠足や卒業旅行には全部ゆけるようにすること
・教師は世の中のことをウソを教えないこと<

注3: アジテーションプロパガンダ。扇動的な宣伝。

注4: エスペラント語であろう。この年1930(昭和5)7月に日本プロレタリアエスペラント協会が結成された。

5:上甲は分からないことは弟子に調べてもらったりもしたようだ。


4 上甲米太郎から趙判出へ  
1930(
昭和5)1127日付け  趙判出逮捕の3日前 米太郎逮捕の8日前 

お便りありがたう

小さな同志はすこやかに育っている。よろこんでくれ

初めて鮮人教員の同志三名と語つた。これで慶南(注1)の鮮人間に知己を得たわけだ。内地人(注2)の方はなまぬるくて駄目だ。

新興教育研究所の組織部(注)と連絡がとれる様になつた。何れも様子が分からぬからその指令によつてやつて行きたいと思つてゐる。君たちのことは山下さん(注3)に知らせてある。。

僕はとにかく自分の立場を分明したくて苦心してゐる。
年だねー 大山さんに逢ふてゆつくり語りたいと思つてゐる 冬休みには何とかして出て行きたい。

雑誌は会員以外には配布せぬことだね、 多く出すほど発見される機会が多くなるからね。そして帳簿などは決してつくらぬこと、出すことにするなら、朝鮮に於ける機関紙とする積りで 将来のことも考へてやらう。何れ僕が上京して後の事にしては如何?

エス語講座は晋州で手に入れた。六七部今までに出たそうだ。とに角晋州の連中と手を握れたらボツボツ広くなつて行くだらうと思ふ。彼らは来る三月末出されるだらうと云つてゐる。出されたら散つて又別の同志を見出せるじやないかと云つてやつた。その方にも筆のもてるのがゐる様だから、本を出す事となつたら書いてくれようと思ふ。むろん僕が原稿はもつてから送つて 発行所は知らせぬが、  京城府内で同志は見付からんかね。

大山さんは君等の思想をまだまだ子供子供して居る様に思つてゐるだらうと思ふ。それだけに下から出て行けば指導してもらへる。卒業までにうんと勉強するんだね。そして今に僕などあとからついて行く様になるだらうよ。

朝鮮に於ける教員には今のところ生活にも何にも不安がないのだ、だから組合と云ふても変なものになりそうだ 大山さんが僕に云ふシンパサイザー以上に出られる連中なのだ

せいぜいシンパサイザー程度のものを一人でも多く作り不自然な社会のカラクリの暴露をやることだ。

南鮮に於ける棉の買上げが各地で問題になつてゐる。
棉繰機やら、織物機までとりあげて、より安い(彼らの云ふ)大阪製の棉織物を買へと強いるのだ。

○○郡では八万斤を買上げるに千円もの奨励金をだしてゐる 誰の為に出すのだ

その賞金をめあてに、他面他郡より棉を斤に一銭も高く買ひに来て、自分の面の売り上げを多くしてゐる。
某面では出来てゐるのを全部持つて来いと強いるとか、某面ではお前の家には何斤ある筈だと(植付反別にでもよるのだらう)書付を先に出しそれだけ持参することを強いてゐる。

米は安いし(注3) 不景気で米が食へぬものは多くなるから ますます、米は余るぞ、此の田舎の何も分からぬ老人までが○○(注4)の起きることを期待してゐる、もつとうんと不景気になるがいい。

まとまつた土地(中農)は地価<時価、か?>で売買されたりしてゐる。地価とは 景気のよい時の地価の三分の一くらいだ 小金をもつてゐる連中はよろこんでゐるよ、そのことが奴等の生命をそれだけちぢめつつあることを知らないでホクホクしていやがる。

お互に慎重にやらうぜ

何れ同志一同宛に別に書く。

雑誌を各種別々に取つて、それを持ち集つて発表をやつては如何、月に二、三回はやれるよ。

会合の様子を知らせてほしい。
それと会合が何回とか 凡そ定つたら僕も出来るだけその日その日にまにあふ様に書くから。

ではみんなによろしく

                                              伊利一の父より

卞併来どの


注:責任者は西村節三さん
注1:慶尚南道

注2:日本から渡ってきた教員のことだろう。
注3:日本でも910日に米価が大暴落した(豊作飢饉)。925日には生糸暴落。昭和5年の失業者の実数は100万人。
注4:○○は革命であろう。

5上甲米太郎から山下徳治へ        

 『新興教育』11月号拝見

今まで眠つてゐた。力が知らず知らず励い起されて来さうです。赤いチョークの桜色のことだ。今に何の音沙汰ないのでバレないで・・たのでせう。

僕如何にあるべきかの見当がつきました。釜山、京城等をのぞいては ほんとうに各地方の学校は散在してゐるでせう、支局にしてもほんの取次ぎくらいのことしか出来ませんが 十二月号分十部ほど送つてください。

読めと云つただけではだめだ 自分が送つてやるつもりです、金は11月末に十二月分を送金します

尚 十一月号を六部だけ送ってください

明年卒業する同志を運動して 釜山に配置してもらい夫れを中心にし釜山へ中心を作りたいと思つてゐます

京城の在学生に頼んで教育してもらつてゐます。当分十名の誌友に刺激を与へることに最大の力を集注して見る積りでゐます

ご健康を祈る

上甲より

山下様

十二月号より十部づつ

注文 11月号六部、ソヴェット印象記一部

朝鮮に於ける教育状態 二部

マルクス主義と教育問題 一部

右代金は十一月下旬支払いで 代引きにてもよし


昭和6年京城地方法院

第一審 判決理由 第二         

(一)被告人上甲米太郎は 郷里愛媛県に於て県立大洲中学校を卒業の上 志を朝鮮に立て大正91920)年四月渡鮮して 京城府教員養成所に入り同所卒業後 兵役に服し其の満期除隊となるや 公立普通学校訓導(注1)と為り咸安<ハマン>公立普通学校、冶炉<ヤロ>公立普通学校等に奉職し 昭和21927)年転じて慶尚南道泗川<サチョン>郡昆明<コンミョン>公立普通学校長県訓導に任じ今日に及びたるが 夙に社会科学に興味を有し 現下の社会制度組織に不満を抱き 昭和2年頃一時クロポトキンの無政府主義思想に共鳴したることあり 其の後 現時の私有財産制度は不合理なれば革命により之を破壊し プロレタリア独裁の社会を建設すべく 現在の教育は資本主義的教育なるが故に之を排して 共産主義論に立つプロレタリアート教育を施すべしと為し 昭和五年九月前叙の雑誌『新興教育』を購読するに及んで直ちに之に共鳴し居りたるもの


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