歴 史 と 現 代 16 参謀本部『日清戦史』の改竄

【「正史」は信用できない】「官」が編纂した歴史を「正史」というが、「正史」は、史官が朝廷の命令によって作る。しかし、時の朝廷に都合が悪い記述は採用されないのが普通であり、事実を書こうとして処刑された史官もいる。{正史}ほど信用できないものはないのである。

【参謀本部編「日清戦史」の草稿】日清戦争については、参謀本部が編纂した「日清戦史」が、公式の歴史であった。しかし事実をそのまま書こう、場合によったら現地調査して書こうとする担当者と、軍上層部が対立したらしい。担当者たちは転属され、原稿は書きかえられたが、膨大な草稿はひそかに保存され、持ち主を転々とした。現在福島県立図書館佐藤文庫に収められている。

【周到に準備された日清戦争】日清戦争は、不意に起こったかのように、一般には叙述されている。故司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』もそうだ。しかし、人足や食糧・銃砲の運搬計画を見ると、かなり前から周到に準備されていたことが分かる。最初の豊島沖海戦は、従来は最初に清国側発砲とされてきたが、現在では日本側の発砲によることは、防衛大学校の研究者も認めるに至っている。

【消された朝鮮王宮占領】「日清戦史」の草稿と刊本の最大の相違は、戦争の最初に日本軍が朝鮮王宮を占領し、国王を「擒」(草稿の表現)にしたことを赤裸々に書いていることである。日本軍は、清国からの朝鮮の独立を支援する名目で出兵した筈なのが、実際は、日清開戦前の七月二十三日、抵抗する朝鮮護衛兵を排除して王宮を占領した。そして国王を軍の制圧下に置き、国王と対立していた父の大院君を担ぎ出して、日本軍への出兵要請を出させ、さらにさまざまな内政改革を強要した。

【新聞と検閲】当初日本の新聞は、朝鮮軍の突然の攻撃により、日本軍が応戦し、国王を保護したように報道していた。これは真っ赤の嘘であった。しかも途中から軍が報道検閲をするようになり、真実の報道はされなくなった。現地の新聞記者自身が、ジャ―ナリストとしての職務を忘れ興奮状態になり、軍の義兵鎮圧行動に銃剣を携えて同行していた形跡もある。「ニュ―ヨ―クタイムズ」は、日本にはなかった。

【中塚明氏の研究】『日清戦争の研究』(青木書店 一九六八)の著のある中塚明氏(奈良女子大学名誉教授)は、このほど佐藤文庫の草稿を調査され、この書を発表された。草稿の分析は緻密で、刊行されたものと厳密に比較されている。生涯をかけて日清戦争を研究してこられた学識の所産である。

【司馬遼太郎氏の誤魔化し】もともと中塚氏は、諸史料から日本軍の朝鮮王宮占領があったのではないかと推定しておられたのだが、他の研究者もその点は気付いていたようだ。しかし司馬遼太郎氏の名作といわれる『坂の上の雲』(現在産経新聞に再連載中)は、完全に参謀本部の「日清戦史」によりかかり、事実史料を無視して、朝鮮王宮占領の事実を消しており、冷静で理性的な日本側と、暗愚でおろおろする朝鮮側というように描いている。(司馬遼太郎『坂の上の雲』の日露戦争についての記述の誤りは、拙著『新編・日本史をみなおす』2戦争と近代(青木書店 一九九七)で随所に指摘)

南方作戦の構想】「日清戦争」草稿によると、この時日本軍は、台湾占領を計画していた。また香港を擁するイギリスに対抗するため、澎湖諸島の占領も構想している。こういう南方作戦の存在も日清戦争が防衛的戦争であったという論議を否定することになる。それだけではない。将来欧米と対抗するためには、ルソン(フィリピン)が東西交通の要衝であり、この占領は必要であると考えていた。フィリピンは、当時、スペインの植民地であった。

【義兵の発生】従来日本軍へ抵抗する朝鮮軍民の義兵は、一八九六年の閔妃虐殺事件あたりから発生していたようにいわれていたが、実はこの王宮占領事件直後から発生しており、日本軍はこれをすべて「東学党の乱」として、弾圧していた。これも重大な事柄である。

【北大の人類学教室】最近北海道大学において、人類学教室管理の古河講堂の旧標本庫から、六つの頭骨が見つかった。そのなかに「韓国東学党」という張り札のものもあった。日本軍の「殺戮」「殲滅」「剿滅」「滅燼」「殄滅」(いずれも日本軍の公式文書の表現)の対象となった「義兵」の兵士であろう。これは一九九六年韓国へ返還された。

 総じて日清戦争は、美術品略奪作戦(中塚明前掲『日清戦争の研究』一九六八年、で詳述)、旅順の虐殺(テキスト参照)とあいまって、汚い戦争であった。