08年09月15日 月曜日
糸満真壁
万華の塔


米軍の大軍を現沖縄県中頭郡西原町幸地に連隊本部を置いて抗戦していた第22連隊(愛媛県松山市)は幸地を支えきれず、首里弁が岳に後退した。米軍の攻撃はいよいよ激しく、5月下旬には沖縄線を戦う第32軍全体が南部に撤退する。第22連隊ももう連隊とは呼べない兵力になってしまっていたが、南部糸満真壁まで後退し、真壁集落近くにあるタージリガマー(このあたりたくさんある自然壕のひとつ)に最後の連隊本部を設置した。

今回の沖縄旅行の目的のひとつがこのガマの確認だった。玉城の琉舞常設館「うどぅい」を朝一番に訪れたところ、この日の公演は午後のみとのこと、急遽予定を変えて真壁のタージリガマーを先に訪問することにした。狭い沖縄南部のことたいした距離ではあるまい。

カーナビたよりに真壁に向かってはしっていると、途中に「万華の塔 すぐそこ」という看板が目に入った。「なにかわからんけど袖触れ合うも他生の縁、入ってみよう」と入ってみたのが大成功だった。

枝道に入って暫らくすると左側に緑豊かな慰霊施設が見えてきた。ここが「万華(まんげ)の塔}であった。」


「万華の塔」の由来がしたためてある。
「万華廟記 当地方は昭和二十年六月 沖縄戦最後の決戦場で 喜屋武 摩文仁 真壁 三村が全滅した決戦場で 日米両軍 陸海空の玉砕部隊等 寸土を争って怒涛の如く折り重なって玉砕された聖地であります 因て茲に遺骨を収集△△△△本廟を建立し感謝の誠を捧げるものであります 八紘一宇安保
昭和二十年八月十五日」

この辺一帯は、無数の日本兵、米兵の骸骨が重なり合っていた場所だそうである。地元の方の話では、兵士の身元の確認のできるような状態ではなく、日本兵、米兵の区別なく死体を収容し埋葬したそうである。

この「山3474部隊」こそ第22連隊の通称である。もと満州88部隊とある。第22連隊は満州から沖縄へ派遣されたのである。

右奥にあるこの慰霊碑が第22連隊の慰霊碑である。この日はもと、これからたずねる「タージリガマー」(私有地)に設置されていたのだがここへ移されたのだそうだ。「永代供養のため」移転したと刻まれているが、あるいは私有地ゆえの問題があったのかもしれない。

いずれにせよ、タージリガマーに行く前にここで慰霊碑に会えたのは、ありがたい偶然であった。この後のわれわれの経過からすると、ここで慰霊碑にあえていたなかったらあわずじまいになるところであった。お線香を手向けて合掌した。「片手に数珠、片手にカメラ」の沖縄旅行である。