金 秀 姫 (日本語訳 尾上 守)
目次
序言
1。 朝鮮近海漁場への魚島漁民の進出
(1) タイ漁場魚島
(2) 魚島漁民の朝鮮近海漁場への進出
2。 巨済島旧助羅への小
(1) 朝鮮時代旧助羅住民の生活
(2)巨済島旧助羅への「小
(3)小
3。植民時期の旧助羅カタクチ煮干漁業
(1)開港期のカタクチ煮干漁業
(2)植民時期のカタクチ煮干漁業
結 論
序言
本論文は、朝鮮開港後、巨済島一運面旧助羅でカタクチイワシ煮干漁をしながら移住漁村を形成した「小
解放(終戦)後、韓国人は日本人が残していった漁場で煮干漁を継続し、日本人が始めた漁法を継承してしている。現在でもこの地の特産物であるカタクチイワシは色がきれいで品質が優秀だと韓国全域で高値で取引きされている。
現在、韓国では日本人移住漁村研究はあまりなされていないままになっている。それらの研究も日本人移住漁村建設と日本政府の奨励、即ち日本政府の植民地政策に従って移住してきた日本人を強調した研究が大部分である。このような研究は日本人移住漁村がともすれば日本政府の補助と特恵で発展してきたもののように認識され、植民時期の漁業の実状を具体的に示されていない。
ここでは日本政府の計画の下で建設された移住漁村ではなく、日本人漁民が自ら漁場を探し求めその地に移住漁村を建設した例について考察してみたい。即ち、(1)どのような動機で旧助羅に進出したのか。移住漁村形成の社会的背景は何だったのか、(2)旧助羅漁業後、日本人漁民達はどのように社会組織を形成して生活したのか、そして旧助羅はどのように変容したのか、(3)移住後日本人たちはどのような漁業をし、漁業活動はどのような形態で維持されたのか、について考察していく。このような論点を分析することによって植民時期のかたくち煮干漁業像、煮干漁民達の社会像を知ることができると考える。
1。 朝鮮近海漁場への魚島漁民の進出朝
(1) タイ漁場魚島
文政から天保年間(1818〜1844)魚島には大林三郎、大林礒吉(井上ノ組)、善蔵(兵部組)、下兵屋利ヱ門(大林頼一組)、上兵屋善作(大林喜久一組)、戎屋善三兵衛(奥平ノ組)、泉屋久米七(横井仙松ノ組)、中村屋、西主屋(横井コンノ組)、の9軒の網元があった。)この、当時これらの網元はどのような漁法をどのように薦めていたのか詳細にはわからないが、W鯛舟曳葛網でその漁獲物は泉州堺の魚市場へ生ものとして輸送したWとある所を見るとタイ地曳網である葛網(かずらあみ)漁即ち、地漕網漁を営んだものと思われる。日本でこの漁法が何時から始まったのかは明らかではないが、景行天皇時代に日本武尊の王子讃留霊王が讃岐香西浦で初めて葛(かずら)を使ってタイ網を作らせたと伝えられている。また『香川県水産要覧』には明徳年間(1390〜1394)に讃岐香西裏で初めてタイ地漕網が使用されたといい、広島県福山市鞆の浦歴史民俗資料館も明徳年間に塩館でタイ地漕網が使用されたと伝える。少なくともこの時期以後から瀬戸内海でタイ網漁がなされていたと見ることが出来よう。
魚島でも遅くとも江戸時代後期からタイ網が活発に操業されたものと思われる。葛網は振縄という威嚇具を付けた葛を海底で曳いて海中のタイの魚群を驚かして前に仕掛けてある網の中へ追い込む漁法である。一方、地漕網は振縄の背後に引き網を引き回しておき、振縄を使って深いところにいるタイを沿岸に移動させ沿岸に集まった魚群を網を曳いて捕らえる。
地漕網は葛網に40名程度が約800尋程度の麻製の綱に日本語でブリキと呼ぶ幅3寸、長さ2尺程度の細板を数百枚結び付けておき5隻の舟で漁場の海底をかき回して細板がぶつかり合う音で威かし逃げようとするタイ魚群を捕まえたという。
1908(明治41)年魚島の総漁獲高は45,806円でタイ地漕網で漁獲したタイは全漁獲高の33%、タイ飼付漁(尾上注一定の地点に大量の餌を撒き集まったタイを釣り上げる漁法)は22%、縛網は19%を占めていた。総漁獲量の中でタイは全体の70%以上を占めていた。また、漁具もタイ地漕網7組、タイ飼付漁1組、縛網1組があり、依然としてタイの主要漁具は地漕網である。しかし、タイ漁場の枯渇で1919(大正8)年にはタイ地漕網が3統、1926(昭和1)年には1統に減少し結局地漕網は廃業した。この理由はタイの減少につれて桝網の発達でタイの魚道が鎖されてしまったからだという。現在の魚島のタイ漁業は桝網で命脈を保っているのみである。
(尾上注:桝網についてはhttp://www.agri.pref.kanagawa.jp/suisoken/sagami/teitimokei/masu.htmに詳しい)
(2)魚島漁民の朝鮮近海漁場への進出
魚島では耕地というのは山の傾斜地を切り開いて作った階段式の畑が大部分でさくもつはマメとサツマイモしか作れない痩せた土地柄である。その上、傾斜が急な階段式の畑は肥料や収穫物の運搬に牛や馬を利用することができず、一々女性たちが頭に載せて運搬した。魚島の第一産業は漁業で島民の大部分は漁業に従事していた。1880(明治13)年総戸数176戸のうち半農半漁の戸数は165戸で漁業ができない店舗経営を除いては全部が農業と漁業を兼業していた。
<表1>は魚島の人口推移である。1678年〜1885年間の人口増加は緩慢な自然増加であるが、1885年〜1910年の間では2倍以上の急激な増加傾向が見られる。
ここへ流入する人口は大型漁業や小型漁船漁業に従事する人々であった。これを魚島の漁業発達過程から見ると、タイ漁場を代表した吉田礒での縛網とタイ餌付漁(12)は1880(明治13)年〜90年の間に行われたが、打瀬網も1887(明治20)年から始まり、1892(明治25)年になると現在と同様の帆が使用され漁民が増加し始めたという。延縄漁従事者も明治初期には数名しかいなかったが1920(大正9)年になると全盛期を迎えた。
明治以後魚島で漁業が発達したもう一つの理由は市場経済の発達で魚類消費が増加し、交通手段の発達で都市と遠く離れた魚島が優れた漁場として知られ始めてからである。以来他県の漁民達は魚島漁場に集まり魚島の人口が増加したのである(13)。
注(12タイ餌付漁)1891(明治24)年頃から始まった漁法で赤土と米ぬかを混合して煮たものを俵100俵程度に詰め込みこれを吉田礒漁場に沈め餌を求め集まったタイを捕らえる漁法である。ここはタイ免許漁場であり10年間の貸与料が五千円に達した。
注(13他県からの流入)魚島と近い広島県漁民達も1869(明治2)年はじめ魚島へ出漁するようになったのだが魚島ではタイがよく獲れることを知りますますここへ出漁する漁船が増えたという。進藤松司『瀬戸内海西部の漁と暮らし』平凡社、p347
明治後期の魚島漁業発達状況を<表2>にみると大まかな発展像を知ることが出来る。1880(明治13)年〜1910(明治43)年の30年間に漁業生産量は80倍程度増加し漁船も約3倍近く増加している。
明治後期におけるこのような魚島漁業の転換は韓国漁場への進出によってもたらされたのであった。魚島漁民が韓国漁場進出を計画した1890(明治23)年代は先述したように魚島周辺海域に小型漁船が増加し吉田磯でのタイ飼付漁を考案したのだが、その一方で韓国漁場を計画したのであった。
360日(資料のままー註金)日中幾多の習性と嗜好を考え、漁労の海を変転して漁利を上ぐるに汲汲たりと雖、限りある内海漁業、特に酷捕濫獲の極に達したる瀬戸内海魚族の減滅離散は自然の数にしてこれか大勢は業にすでに傾きつつあり、これに反して漁民層は濤濤として廃止するところを知らずざれば、今にしてこれが救済の策を講せずんば、塗炭の苦境に陷らんことは日常の絶叫するところなり。
ちょうどその頃W朝鮮漁場にカタクチイワシが湧いているWという情報があり、1891(明治24)年魚島の網主出身の横井庄平たちはカタクチイワシ網を持って朝鮮近海へ出漁した。その後、このような朝鮮漁場へ季節的に出漁する漁業は「通漁」という名目で行われて、魚島島内の青少年の大部分が朝鮮での漁民生活を経験した。こうして1910(明治43)年、魚島の総漁業生産量の約70%が韓国漁場で生産されたもので魚島漁業は韓国漁場を基盤として発展するようになった。現在も魚島では旧助羅に向かって漕ぎ出した時、Wいやな朝鮮今朝よりまいて、ばんにやたい洲の船こしてWといった趣旨の唄が伝えられている。
2。 巨済島旧助羅への小
(1) 朝鮮時代旧助羅住民の生活
朝鮮時代の村落は郡県制に編入され守令の支配を受けていた。中央から派遣された守令は村落を部制の最小単位として支配したがこれらの村落を直接管理したものは村落の里任でありこれが里(マウル)を代表しすべてのを業務を処理した。旧助羅は1620年ころ入植した光山盧氏と1650年ころに入植した晋州姜氏が支配的な同族マウルでこの二つの姓が植民時期まで里任、洞長を歴任した。
旧助羅は朝鮮後期に各地で現れた契バン村の一つでありマウル自体、または2〜12の洞が連結された里契であった。里契は進上品の生産地域または賦役の賦課種類に従い多様に組織運営された。旧助羅では役所への共同納入のめに共同で銅銭を準備し、この納付金額を各戸に再割り当てするという方法を取った。マウル内での重要事案や貢物進上などはマウル全体で対応し住民たちの共同体意識は大変強かった。
先述のように旧助羅は同族マウルであって大部分は平民たちで構成されていた。彼らは射夫、防軍などの軍役と賦役、供物進上などの義務を負っていた。彼らが毎年進上する商品、供物品は貽貝を含む各種海産物、シイタケ、椿油(、各種板、牛皮など160余種類である。シイタケは山のふもとに住む人々が毎年315両を共同で調達し、貽貝は進上品を調達するためにマウルの共同漁場でみんなで育てて毎年20トゥン(貽貝を数える単位)を納めた。このような税金は帳簿に記録されるが、帳簿に記録されない負担も多い。たとえば、毎節季別に謝恩使を含む使臣の下向に監営、戸曹、守令を含む各官庁及び権勢家にも進上物を納めたし、そのほかにも各種軍役雑役に動員された。村民たちの生活は非常にひっ迫しておりその苦しみを訴える文書が旧助羅の古文書に細かく記されている。
朝鮮後期の旧助羅の人口を見てみると各時期別で人口数が一定しておらず正確な人口数を知ることができないが大略次のようになるだろう。1863年男141名女106名計247名、1884年男127名女84名計211名、1893年男83名女42名計125名、1909年では109戸500名と記録されている。
この地は穀物が育つ平地が大変狭く、住民たちは半農半漁で漁業とシイタケ採取で生計を維持していた。また彼らは海の巡邏を当番を決めて行い櫓軍などに従事することで船を操ることになれており海と関連する仕事にも従事していたを思われる。しかし記録上は住民たちの漁業像を知ることが出来る詳細な記録はなく、住民たちの漁業生活を知ることはできないが、国家の各種賦役に対して訴える古文書で見ると船舶新造時の徴発で時間がなく魚を取ることができないとの訴えがある。また、ここは朝鮮人が好むタラ、ニシン、タイ、エツ、ワカメ、コンブ、ナマコ、イガイの漁場であったので、かれらはこれらを漁獲、採取したはずである。イガイの場合、旧助羅漁場へ他のマウルの人々がこっそりと入ってきて採取しようとしたが発覚してしまい二度とイガイ漁場に侵入しないこととの誓約書まで書かせた例もある。1909(明治42)年に発行された『韓国水産史』には旧助羅総戸数109戸の中に漁業者戸数は5戸、漁船数5隻、大敷網2個、細網3個と記載されている。漁業者数が極めて少ないが、住民の大部分は船を持たない半農半魚の住民であり、船をもっている住民は漁村の資本家か、実力者であったと思われる。
(2)巨済島旧助羅への「小
多島海の最も東南側に位置している旧助羅は対馬とは約50kmの近さにあり、潮流の流れに乗ると簡単に対馬にわたることのできる場所である。。そして朝鮮時代には朝鮮通信使がここに泊まって海上の天気を見定めながら海を渡ったところである。このような地理的な利点によって1490年には巨済七鎮の一つを旧助羅におき旧助羅城も新築した。壬辰倭乱(秀吉の朝鮮侵略)が終わった後、宣祖37(1604)年玉浦鎮の横に移したが、このマウルが持っている倭を防衛する位置は変りはなかった。
一つの例を『古文書集成 旧助羅編』に見てみると、同文書には丙申年(1836)から丁亥年(1887(明治20)年)まで遭難した日本人たちが流れ着き彼らを接待した記録がある。ある文書には「倭船の漂着が朝に夕にある。彼らが来るとW飯曳之節と守護之方をしなければならないWと述べられていた。ここでは日本人達が漂着すると、その結果を万戸(鎮の武官)と鎮長が駐在していた玉浦、または、知世浦、統営まで人を送って報告していた。あるマウルで日本人漂着の折々に彼らに食事を提供し調査報告することは多くの費用がかかり苦労が多いので、日本人に対する防衛意識も他の地域より強かった。
1891年、初めに漁場探索をしながら魚島漁民が旧助羅に現れた時、住民らは漁民をW夷狄Wと言いながら、暴言を吐き石を投げつけ村に近づいてくることを禁止した。魚島漁民が二三日停泊して許可を待っても住民たちの反応は何時までたっても激しいままなので彼らは夜間にこっそりと上陸して倉庫を建て漁業した。成績がよかったので、1896(明治29)W今年は一気に決着を付けようWと、それまでイワシ網1帖であったものを4帖に増やし一攫千金の夢を持って旧助羅に現れた。この時期は、日清戦争以後、朝鮮人の反日感情が激しくなっており義兵運動が起り、日本人と日本人への協力者を殺害する事件が続発していた。また朝鮮沿岸の各地では日本人の漁業に反対したり、上陸を拒否する積極的な運動が各地で起っていた。旧助羅でも例外でなく、上陸した日本人に激しく示威した。
次は強力に反対する旧助羅の住民たちを日本人漁民たちがW決着をつけるWために、どのようになだめすかしたかをを見せてくれる記録である。
砂浜に小屋掛けをなし、やや業端を開きて一意黽勉豫期に違わざる美果を結ばしことを期せしも、强硬なる彼ら土人は再び言を左右に託し、かつ府司の言なりとし、漁業は相互の條約の容るるところなるも、小屋掛けは絶對に認めざれば、これを撤去するあらざれば、火を放たんと300餘人の鮮民、竹槍、筵旗、捲土重來の勢をもって口戰を挑むも、衆寡敵すべくもあらざるより、淚を揮って諄々不當を說き、かたわら人を走らせ釜山領事館に至り告ぐるに情を以てす。
旧助羅に到着した領事は倉庫建設はただ漁業をするだけで他意はないと強圧的な態度で住民たちを説得した。しかし住民たちの反対は変らなかった。住民の中には日本人を擁護しようとした者もいたが,親日派だと非難され投獄されてしまった。このような対立が数ヶ月続いた。そのとき住民の中の四、五名が好奇心から浜に干してある煮干しに触った。それをみた日本人たちは直ちに窃盗犯として激しく責めたてその住民たちを捕縛して釜山の領事館へ押送した。この事件を契機に住民たちは日本人に平身低頭して謝り、今後二度と日本人の漁業に反対しないと約束するに至った。
以上のように旧助羅漁業では日本人領事が介入して住民を抑えつけ、日本人漁民が住民たちのちょっとした悪戯を口実に圧力を加え、二度を彼らの漁業を妨害したり反対したり出来ないようにするという強圧的で下品な方法でW決着Wを付けたのであった。以後、魚島漁民たちは毎年ここでイワシ漁を操業し、1902(明治35)年倉庫7棟と漁船35隻、漁業者210名が常住して煮干漁をした。
ところが、ちょうどそのごろコレラが流行した。旧助羅の日本人のなかで23名の患者が発生し13名が死亡する事故が起きた。旧助羅住民たちは疫病の蔓延を防ぐために日本人の出入する区域を全面的に統制したが、魚島漁民は昼夜に石油缶をたたき、ほら貝を吹き、念仏を唱え方法しかなかった。この知らせに接した領事坂田重次郎は医者、巡査、視察員、通訳で構成された防疫団を旧助羅へ急派し「巨済島旧助羅コレラ防疫心得」を発表し直ちに防疫部を設置させた。この結果患者23名中9名が全治し故郷へ帰ることが出来た。
このような度重なる苦難と試練を克服した魚島漁民は「小魚島移住漁村建設」と云うスローガンを掲げて本格的な移住漁村経営に取り掛かった。1906(明治39)年魚島は移住者の食糧供給、、資金貸与、漁場開拓などを目的とした「魚島信用組合」を設立して出征式を挙行した。
(3)小
日本人次官政治が始まった韓日新協約以後、1908(明治41)年旧助羅の日本人漁民たちは日本人会を結成した。かれらは旧助羅住民たちとの対立を解消するためにお互いに和睦することを約束する盟約を結んだ。この盟約は旧助羅の住民と
旧助羅の日本人集落には日本のほかの県出身の漁民も加わったが最初に定着したのは愛媛県魚島漁民であったので愛媛県民、中でも魚島漁民が一番多かった。
1915(大正4)年には総戸数34戸144人のなかで、愛媛県民が15戸59名、岡山県民が11戸61名であった。1920(大正9)年では愛媛県民30戸118名(男56名、女62名)、香川県民5戸20名(男8名、女12名)、長崎県民1戸4名(男2名、女2名)、福岡県民2戸3名(男1名、女2名)、広島県民2戸11名(男6名女5名)、岡山県民1戸4名(男1名、女2名)岐阜県民1戸4名(男2名、女2名)、総戸数は164戸に増加した。この間、岡山県出身者が多くここを離れ、その代わりに愛媛県出身者が増加した。職業別で見ると、愛媛県出身者は漁業主や漁民(24戸96名)、運送業、雑貨商、櫓屋、桶屋など主として漁業関連事業に従事しており、この他の県民たちは日本人漁村を維持するのに必要な商業、製菓店、飲食店、大工、教師、僧侶、警察などに従事していた。農業を専業とする人はいなかったが7戸が80反程度の畑を副業として耕しムギ、ジャガイモ、ダイコンを栽培した。
しかし、1920(大正9)年代以後、旧助羅の人口は急激に減少した。その一例を旧助羅公立尋常小学校の児童数で見ると、1915(大正4)年は児童36名、教員2名であったのが1920(大正9)年になると児童15名、教員1名に減少している。1930(昭和5)年を見ると児童数は15名のままであるが、その半数以上は朝鮮人児童が占めるようになって、日本人は1920年以後減少していた他の例を挙げてみると、1930(昭和5)年代には遊郭施設もなくなっており、3軒ほどあった雑貨商も一軒だけになっていた。
このような旧助羅の人口減少は、旧助羅が周辺の漁村の発展から取り残されたことと日本人漁業の漁獲対象の変化によって漁場が東海岸へ移り当初の漁業根拠地の役割を失ったためと考えられる。実際、1930(昭和5)年代に入ると日本人漁業の主要魚種はカタクチイワシからサバ、イワシ、スケトウダラなどに変り、漁場も甘浦、九竜浦、方魚津、清津など東海岸に移り、多くの動力運搬船と動力漁船がここへ移動した。こうして旧助羅にはカタクチイワシ漁業をする漁民だけが残り、1930(昭和5)年代以後旧助羅は何人かの日本人がカタクチイワシ漁業する静かでのどかな漁村に変貌した。
さらに、旧助羅を根拠地して漁業をしていた漁民のなかから漁場拡大を企図しながら、周辺漁場へ移動したり大規模漁業経営へ転換する人も現れた。旧助羅でイワシ漁業をしていた大林金次郎はサバ漁業に転換しながら資本主義的漁業経営をする資本家となった。彼は旧助羅では2統のイワシ網を経営していたのだが、方魚津を漁業根拠地としていた1928(昭和3)年現在19トンの六漁丸2隻、17トンの魚島丸1隻、計3隻の発動機漁船サバ巾着網を営んだ。彼は最大のサバ漁業根拠地であった方魚津で五本の指に入る財力家と噂されほど財力があり、1936(昭和11)年には朝鮮サバ巾着網漁業組合設立際には理事に就任した。方魚津では多く魚島漁民が彼に従って方魚津へ移動したという。
次に旧助羅での日本人の土地所有を旧助羅の土地調査事業が終わった1925(大正14)年を基点に考察してみたい。土地調査事業の結果、旧助羅には畑80,062坪、田53,135坪、敷地(岱地)14,498坪、林野5,429坪、雑地・墓地5,945坪、計159,069坪があった。この中で日本人が所有するものは畑1747坪(2.2%)、田214坪(0.4%)、敷地10,157坪(70.1%)となっており、日本人は田畑はほとんど所有していない。一方、敷地は旧助羅の敷地の70.1%を所有していた。これは非常に特異な現象で、他の日本人移住村の場合、生活基盤の整備を優先し、田、林野などの購入に力を注いでいたが、旧助羅の日本人は敷地を確保したのみであった。その理由は彼らはカタクチイワシ漁場でカタクチイワシ漁業をするために自発的に移住してきた漁民であったので、カタクチイワシ漁業にひつような倉庫敷地のみ購入したのであった。そもそも定住するための移住ではなかったのである。彼らは各自の漁場で漁業をしそのための最小限の生活空間を確保すればよく、より広い空間を必要とする集団的な文化生活を営まなかったと思われる。そのためか筆者が旧助羅で聞き取り調査を実施したとき旧助羅住民たちは日本人漁民がどのような生活をし、どのような文化を持ち、彼らとの対立葛藤はどんなものだったかという質問に対してはほとんど知っていることはなかった。ただ日本人漁民がカタクチイワシ漁業をしたので住民の大部分はカタクチイワシの漁獲とイリコ製造にに従事し他の山間地域よりはるかにましな生活をしたと語っていた。日本文化や日本人に対して異質感はほとんどなかったと思われる。
旧助羅で漁業を営んだ日本人出身階層をみると、大林、横井、日吉などの姓が多い。1902(明治35)年に旧助羅で漁業を行った網主は、小泉和太郎、竹部音吉、横井辻松、大林善作、横井庄平の5名であったが、1909(明治42)年では大林善作、横井庄平、日吉重太郎、日吉辰次郎、日吉重吉、横井米治、大林新平、御手洗道徳の8名に増えた。
一方、旧助羅の住民たちは、かれらは自分自身を金持ちではなかったと語っており、それでも朝鮮でカタクチイワシ漁業ができたのは日本政府の奨励金と信用貸出などのおかげだと述べていたという。
日本人漁業者たちは漁場の横に倉庫と宿舎を建て、カタクチイワシ漁業期間中はここで寝食を共にした。個々人で居住地を持つことはなかった。大部分の漁民は単身でやってきた。後には一部に家族全員と一緒にやってくるものもいたが、依然として単身であるいは家族の一部だけ連れてやってくるのが普通であった。彼らは漁業期間(3月〜12月)が終われば漁具や漁船などを倉庫に入れ周囲を整備したあと故郷の魚島へ帰って行った。このような生活様式は日韓合邦以前と別段の変化もなかった。実際に他のカタクチイワシ漁場においても日本人の本格的移住は極めて低調で、カタクチイワシ漁場にある大部分の日本人移住漁村は漁期の間だけ集まってくる場合が多かった。日本人達のこのような生活は1945(昭和20)年の解放まで継続した。
3。植民時期の旧助羅のカタクチ煮干漁業
(1)開港期のカタクチ煮干漁業
日本は江戸時代からカタクチイワシを干して農作物の肥料として使用したり、イリコにして料理のダシを取ったりした。この需要は江戸末期に至り激増し朝鮮開港以後日本人商人、日本人漁民たちはカタクチイワシを求めて朝鮮に進出した。江原道付近や済州島では朝鮮人漁民が日本人の資本を借れて肥料用のイワシを生産し、日本人漁民は慶尚南道鎮海湾、巨済島付近に進出し直接カタクチイワシを製造した。
日本人が朝鮮漁場でカタクチイワシ漁業を始めたのは、1884(明治17)年
以後、権現網が増加し、1889(明治22)年7統、1898(明治31)年船数100隻(人員1,100人)、1899(明治32)年には400隻(2,340人)、1900(明治33)年には743隻(4,350人)増加した。魚島漁民も1891(明治24)年から権現網をはじめ、その出漁数は1898(明治31)年に35隻224人、1899(明治32)年には40隻259人、1900年には45隻288人、1907(明治40)年には48隻360人へと増えた。
このように朝鮮漁場で権現網漁業が盛んになると、巨済島と鎮海湾周辺のカタクチイワシ漁場には毎年次々と日本人漁民の倉庫が建設された。これらの不法的な土地使用は朝鮮人との紛争を引き起こすことにもなったが、カタクチイワシ漁業をのために、朝鮮人との親睦を企図し毎年3貫文〜13貫文の土地使用料を支払った。1903(明治36)年カタクチイワシ漁民と
潜水器漁民(鮑や海鼠を漁獲して加工する漁民)が朝鮮沿岸に建設した倉庫は計138棟であったが、その内の半分近くがカタクチイワシ漁民が建てたものであった。東海岸に建設された倉庫は潜水器漁民が建てたもので奥行き3.6メートル、間口1.8メートル程度である。南海岸の倉庫は大部分がカタクチイワシ漁民が建設したものであった。旧助羅のカタクチイワシ倉庫の場合間口は4.2メートル程度で簡単で小規模なものだった。
カタクチイワシ倉庫が建設されたところはよい漁場に面した浜や運搬交通が便利な場所であった。そこは1945(昭和20)年解放の前までカタクチイワシ漁業の中心地であった。カタクチイワシの中心地であった慶尚南道鎮海湾一帯には広島県漁民が広島県朝鮮海鰮(イワシ)網漁業組合を組織した。この組合は漁具100統を越えないこと、1924(大正13)年にはカタクチイワシ操業期間を7月1日〜11月30日までに制限するなどを定めていた、1935(昭和10)年は94統へと減っていた。1937(昭和12)年日中戦争が勃発して日本人漁業者の出征が続く中網数が次第に減少した。それにつれて鎮海湾周辺には朝鮮人の権現網漁業者が数十人現れた。
(2)植民時期の旧助羅カタクチ煮干漁業
旧助羅は深い湾の奥に位置している。湾の外では内島と外島が波と風を防いでいるので漁船を安全に停泊でき、たやすく船を着けることの出来る自然の良港である。海は深くなく水温が高く暖帯性の魚種とナマコ、ウニ、貽貝などの魚介類が棲息しており現在は見ることが出来ないけれど旧韓末にはクジラの群も回遊していたようである。『韓半島沿海捕鯨史』によると1920(大正9)年東洋捕鯨株式会社は旧助羅を根拠地としてノルウェー式ボート捕鯨をし陸地80坪、海面400坪の捕鯨基地を設置した。
巨済島一帯では旧助羅を黄金漁場と呼ばれていた。現在カタクチイワシ漁場は1、2ヶ所しかないが植民時期には8ヶ所のカタクチイワシ漁場があった(図参照)。そして日本人漁民たちが敗戦により日本へ帰ることになった時までここでカタクチイワシ権現網漁業が続けられた。その間、朝鮮漁業では漁船の動力化、漁具の機械化などの飛躍的発展が続いていたが、ひとりカタクチイワシ権現網漁業のみは1890(明治23)年代の漁業水準のままであった。
カタクチイワシ漁業はすべて人力を利用した漁業のままであった。カタクチイワシ漁場は海岸のすぐ近くで形成されており、朝鮮人の安い人力を自由に使うことの出来るという利点があったが、これが動力化を遅らせる理由ともなったと推察される。もう一つの理由としてはカタクチイワシ価格が下落し動力する資本がなかったことがあげられる。1916(大正5)年カタクチイワシ1貫の価格が1円であったのが、1918(大正7)年では1円30銭〜40銭で上昇したのだが、1926(昭和1)年以後は60銭〜80銭に暴落した。1931(昭和6)年満州事変以後、すこし上昇したが長い間続いた赤字で漁民生活は疲弊し貸付金を償還することができない者やカタクチイワシ漁業を止める者が続出したという。1930(昭和5)年調査によると、カタクチイワシ権現網全体の半数程度が赤字経営をしており、権現網1統につき約200円程度の損失を出した。このようにカタクチイワシ価格の歩合相場と暴落でカタクチイワシ漁業への再投資が難しくなっていたことがうかがえる。
1920(大正9)年、旧助羅の漁業状況をみると、漁具はカタクチイワシ権現網、カタクチイワシ巾着網、サバ巾着網があった。カタクチイワシを漁獲する場合、権現網、巾着網の二種を使用していたが、権現網は昼間の操業で使用し、巾着網は夜間の操業で使用した。旧助羅、知世浦湾でカタクチイワシ漁業をする日本人は10名、サバ巾着網漁業をする人は2名であった。旧助羅にある漁具数はサバ巾着網2統、カタクチイワシ権現網10統、カタクチイワシ巾着網7統。漁船数はサバ漁業に14隻、カタクチイワシ漁業に50隻であった。漁に従事する漁民はそれぞれ115人、380人でこの中で日本人はそれぞれ10%体であり、残りは全部朝鮮人であった。漁民の雇用は日給制で日本人は日給80銭〜1円20銭で普通90銭であった。1年〜2年程度経つと1円30銭に上がったという。かれは、おもに魚島出身者で魚島にはタイ網以外には仕事がなくそれも1〜2ヶ月だけで終わってしまうので旧助羅で仕事をするほうが収入がよかったという。朝鮮人の場合は40銭〜1円で普通60銭を受け取った。朝鮮人漁民は旧助羅や巨済島付近の漁民であった。
しかし、1930(昭和5)年からは漁業経営者たちを除くと全部朝鮮人が占めるようになったという。長い間、日本人のしたで漁業技術を学んできた朝鮮人が漁労長となり、漁業の全過程を習得することができたためである。さらに日本人経営者も朝鮮人より日給が2倍以上かかる日本人漁民を雇用するより朝鮮人を雇用するほうが経済的であった。漁業の総責任者である漁労長の中には朝鮮人があって、かれは一般漁民の10倍程度の日給を手にしたという。さらに、毎年漁業期間が終わると漁業期間中に欠勤が少なく誠実に仕事をした人には賞与金を支給した。
旧助羅では権現網漁業をオゲトリ(沖取り)あるいは、ミョルチマン(イワシ網)と呼んだ。この漁法は網主を中心にして約30名以上の乗員を必要とする。その指揮体系も二重体系になっており、総責任者であるマンジェンギ(漁労長)が全体の指揮を執り、その下に船頭(責任者)は2隻の網船を指揮する。漁法を見てみてるとマンジェンギ(漁労長)が乗っている手船が魚群を発見するとすぐさま信号機で網船に合図を送る。すると網船を指揮する船頭が直ちに漁場に向かって船を出す。網船2隻にはそれぞれ10名ずつ乗り込む。左側を進む網船は船頭(サカミ)、右側を進む網船はマミと呼ばれる。網船はアバ櫓、アイ櫓、ワキ櫓、ドウ櫓、トモオシ櫓、カジキ櫓と呼ばれる6丁櫓で漕いだ。トモオシ櫓を漕ぐ人は船頭挌でサカミ、マミそれぞれの船頭の指揮下で網船を動かした。
マンジェンギ(漁労長)から合図を受けた網船は袋網から海に下ろし始め網船の進路を左右に分かれさせ、投網しながら陸地に向かって進み最後に引網を入れて陸地に到達する。網を揚げるときは各網船の外側にいるものが長い網の端に取り付けてある綱をグルグル回しながら水面をたたき魚の分散を防ぐ。その後で収網は手で引揚げ袋網に集められたカタクチイワシはすくい網でテンマ船(イワシ運搬船)に移し入れる。権現網一回の操業に1時間半から3時間程度かかり1日7〜8回操業した。
運搬船に移されたカタクチイワシはすぐさま煮干を製造する幕へ運ばれた。運搬船が入ってくるとカタクチイワシは大きなザルに分けられ何人かで持って幕に入り、全部を小さい箱に入れたという。横には竈が並びひさごでイワシをすくって釜に入れた。一つの竈には普通2〜3個の釜がかかっていた。一つの漁場には釜が8基程度あった。
カタクチイワシは白く変色する前に沸騰する湯に投入し煮あがるとすぐすくい網ですくい上げてムシロの上で干した。今はカタクチイワシを乾燥場で乾燥させているがこの当時は全部太陽熱で乾燥させた。夜採ったカタクチイワシは翌日には干しあがり万一雨が降って乾燥させることができなかった場合はそのまま捨ててしまったりもした。
出来上がったイリコは旧助羅へ定期的に入港する旅客船で釜山にある卸売り(釜山海産商組合」)に売られた。以前は日本での販売を引き受けていたイリコ仲買人が漁業資金貸与を条件にして漁民らが日本までもっていたが、釜山に委託販売する組合が出来るとここへ販売するようになった。
結 論
開港以後、朝鮮社会は外勢の<<圧力と干渉>>によって結局日本の植民地に転落してしまった。しかし、この過程で最も大きな変化を体験したところは日本に近くよい漁場に位置した漁村であった。これらの漁村には漁場探索を兼ねて朝鮮近海へ出漁する日本人漁民たちが何度も往来し勝手気ままに漁場を利用した。日本人漁民には現在のように外国の領土を侵害することの是非を考えるような意識はなく、ただ魚のいるところを探し魚のいるところで操業するといったことで日本人の嗜好にあう魚種をもとめて朝鮮全海域を勝手きままに走りまわった。日本の植民地となる以前に韓国の漁村のあちこちには日本人居住地域が発生していた。
本論で取りあげた巨済島旧助羅も例外ではなく、19世紀後半日本人の漁業基地となった。ここでは朝鮮時代から日本を往来する関門として、日本の侵入を防御する基地として機能してきたため他のどの場所よりも日本との関係が密接であった。ここの住民たちは定期的に海の見回り(巡邏)をし、海からイガイやアワビを採取しながら生計を維持した。そのためか日本人にたいしては敵対的感情が強くで日本人が上陸して倉庫を建てようとする企てには頑強に抵抗した。しかしカタクチイワシの良漁場を求める日本人漁民は日本政府の力を借りて住民たちの反対を押し切り<<その意気込みまでも押さえつけてしまった。---この部分の和訳は未確定--->>
日韓合邦以後、旧助羅はカタクチイワシ、サバ、クジラ漁の前進基地となり多くの日本人たちが入り込んできた。旧助羅はカタクチイワシ漁場として急成長を遂げ、1920(大正9)年には慶尚南道にあった24ヶ所の日本人移住漁村のなかで1戸当たり漁獲量、一隻当たりの漁獲高がもっとも多かった。しかし、カタクチイワシ価格の暴落とサバ、イワシ漁場などの開発で旧助羅の日本人人口は減少を続け、カタクチイワシ漁業はこれまで以上の高所得、高利益を保障する漁業となることは出来なかった。遠距離漁場が開拓されたため、漁船の動力化が進行したが、旧助羅のカタクチイワシ漁業は沿岸漁場で人力を利用した漁業を続けた。しかし、日本人漁民の中でカタクチイワシ漁業から動力船を利用する新漁法へと転換するものが続出した。旧助羅でもカタクチイワシ網漁業者が東海岸の方魚津へ移して、サバ巾着網で名声と財力を手に入れた者があった。このような例は特に例外的なものであるのかどうか分からないが、開港期、朝鮮漁業で成功して<<富を蓄積し>>中堅漁業者や資本家に成長した人たちもかなりいたことと思われる。
植民時期、旧助羅漁場を日本人に奪われた旧助羅住民たちは早くから日本人に雇用されカタクチイワシ漁業に従事した。漁業の全過程を習得し漁業の総責任者であるマンジェンギ(漁労長)職を務め日本人からその漁業技術を認められた。これらの人々の一部はイワシ漁場である咸鏡道新浦、清津で漁労長として就職し高所得を得て故郷で富裕な生活を送った人もいたという。