戦後の終焉と冷戦後責任 

── 歴史認識とアイデンティティー ──

川島高峰

明治大学『政経論叢』第68巻 第2・3号 別刷(1999年12月刊)
以下は本論文中の「4. 『語り』のあり方─批判的継承の展望─ (3)戦争と文化」の全文である。楢本神社の関行男慰霊碑の歴史的意味の理解のために、著者のお許しを得てここに転載する。
(2000年4月8日忘暮楼記)

(3)戦争と文化

 私はここで「殺し方」は明らかに一つの文化であるということを強調しておきたい。

 昨今の世界の紛争地の報道から、戦争になれば残虐さはどこの民族も同じであるということが、「お茶の間のブラウン管」を通じて明らかになりつつある。その結果、なぜ日本の過去の加害行為やその残虐さばかりが問題とされるのかという素朴な疑問が増えてきた。私が民族性と残虐さを結びつけて戦争責任を考えるのは、そこに戦争と文化の問題があり、その文化の継承性において過去と現在の関わりがより明確となるからである。

 勿論、特定の民族が他と比べて特に残虐であることはあり得ない。単にこの点にだけ限定して考えるのであれば、残虐さを民族性と結びつけて考える必要はなく、それは戦争が人間にもたらす悲劇的で不可避的な現象と説明すればよい。従来の戦後責任、戦争責任の議論もこれと同様の論理に立脚し、残虐行為における民族性を話題にすることは一つのタブーであった。しかし、いみじくも陸軍パンフレットがその冒頭で宣言したように「たたかひは創造の父、文化の母」なのである。当時においても戦争行為が、総体として日本文化の表現であるとの認識は、明瞭に自覚されていたと考えるべきである。

 ここで、神風特別攻撃隊に対する日本人の理解を取り上げたい。特攻に対する理解には戦争認識に関する「日本的な」特質が強く現れており、ことこの点については左右を問わず、その意識は当時から今日に至るまで持続しているからである。

 愛媛県西条市に楢本神社という小さな神社がある。この神社では毎年10月25日に、神風特攻隊の「第一号」敷島隊の五軍神を奉賛する慰霊祭が盛大に行われる。「盛大」というのは何しろ、当日は自衛隊の各航空隊による慰霊飛行、護衛艦の西条港入港、呉音楽隊の派遣と全く靖国の公式参拝の是非を越えて行われているからである。一体、何故、この小さな神社でかくも盛大に慰霊祭が行われるのか、ことの発端は先代神主の石川梅蔵氏(本江田島海兵学校教官)にある。

 石川(以下、敬称略)は敷島隊の隊長関行男を幼少の頃から知っており、楢本神社は関の故郷にある神社であった。関の母サカエは、敗戦後、赤貧の内に生活していたが、愛息であった関の墓石を建立することの悲願として生き抜いたのである。しかし、1953年逝去し関家は断絶となった。石川は当時、席の慰霊碑を建立しようと各方面に懸命に強力を求めたが、独立講和直後とはいえ、戦争の記憶への否定的感情の強い当時の日本において実現できるはずもなかった。

 かくして約20年ばかりを経た頃、どう言うわけか1974年5月7日、フィリピンのマバラカットにカミカゼ記念協会会長ダニエル・H・ディゾン(フィリピン歴史会会員)により「カミカゼ特攻戦没者」(大文字筆者)が建立されたことを知った。石川はこれに驚嘆し、「日本国民として恥ずかしい思い」をしたという。かくしてその翌年3月には神社社頭に関行男の慰霊碑が立ったのである。

 この楢本神社の隣に(正確には、隣に西条神社、そして西条出身の力士の記念碑、忠霊塔の順)、西条市長の肝煎りで建立したという忠霊塔がある。その西条市民の遺族から、「何故に関さん許り斯くの如くに盛大に追悼式をやるのであらうか。あれは関さんが中佐であるからだ」といった批判があった。石川はこの批判を「雲散させるには特攻の先陣第1号の敷島隊の五軍神を奉斉」する事を思い立つ。遺族の中で合斎に応じない家があったため、その説得に3年を要し、1981年4月、五軍神の碑を建立することになったのである。

 この話の異様さには興味が引かれる点が多い。被害国フィリピンの碑が「特攻全戦没者の碑」であるのに対し、楢本神社のは関個人の碑として建立された。石川のためにも断っておくが、これは石川が関を幼少の頃から知っており、その特別な死と母サカエの敗戦後の生活苦を目の当たりにしていたからである。その関を石川は特別に慰霊したかったのであろう。ところが、西条市の忠霊塔の遺族から批判が出ると今度は「五軍神」へと入れの対象が拡大する。しかし、こうなるとなぜ特攻のなかでも最初の部隊だけがまつられるのかということになる。同じ戦争のために倒れた者であるならば死なばみな平等ではないかということになる。

 ところが石川にとって、慰霊の対象はあくまで最初の特攻の「軍神」でなければならなかったのである。そのことは、関の碑文の後ろに立てられた五つの碑石が、特攻当時の250キロ爆弾と同形同重量の石材であり、突入時を模して垂直に立てられていることからもわかる。

 関の慰霊碑の碑文(源田実)は「人類6千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。『壮烈鬼心を哭かしむ』とはまさにこのことである」で始まる。つまり、ここに慰霊されているのは戦死者だけではなく、特攻という必死の攻撃方法が、日本国民の固有性として奉賛されているのである。(8)

 「死に方」とは、つまり「名誉の戦死」である。そこには歴然とした序列があった。一般に航空関係の戦死者は2階級特進する扱いが取られたが、1944年12月の海軍特殊任用令により、特攻攻撃により偉勲をたて、全軍布告の対象となったものについて、特に下士官については少尉に、兵は准士官に特別任用することとなった。この結果、「五軍神」の中で作戦時最も階級が低かった大黒繁男上等飛行兵は、五階級特進して飛行兵曹長となる。同様に永峰肇飛行兵長も4階級特進して飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は3階級特進して少尉となる。特攻で全軍布告になれば同じ死に対しても、軍人恩給等の扱いは格段の差が出てくる。この限りで比較すれば「普通の」戦死こそ「犬死」ではないか。

 実際、源田の碑文の指摘にもあるように、あのような戦闘方法を組織化し、常套手段化した軍隊は近代史上、ほとんど見ることができない。決死隊(死を覚悟する)というのはよく聞くが、必死隊(必ず死ぬ)というのは希有であり、この特殊性に日本的な性格を読み取ることができる。その突出した特殊性にある悲劇性を認めたからこそ、被侵略国フィリピンにおいてさえもそれは慰霊の対象なのである。

 もちろん、特攻の特殊性と他の非戦闘員に対する皇軍による加害行為─例えば、南京事件のような─を同一なものとみなすことはできない。具体的には、戦争行為における非戦闘員に対す加害行為が、焦点とされている。それは明確な作戦行為の一環ではないが故に、その「殺し方」によりいっそう、民族の文化が投影されるのである。この件について西尾幹二氏の一連の所論(9)は、逆説的に日本の国民性による加害行為を浮き彫りにするものである。同氏はユダヤ人に対する加害行為との比較から次のように主張する。

 ドイツのユダヤ人虐殺は戦争目的を超えた政策によるも明確な国家意志によっていたのに対し、日本の加害行為は政策に基づくものではなく一連の戦争行為の中で発生したものである。そして、ドイツの加害行為は通常の「人道に対する罪」などというものではなく、「文明の破壊」であり、ドイツと日本をその犯した罪の性格において同一視することはできない。特定の人種の抹殺を目的としたナチスのユダヤ政策と日本の加害行為とはその動機において全く異質なものであり、両者を混同し、日本もドイツのように戦争責任をとるべきだというのはおかしいというのが氏の主張である。

 確かに日本は特定民族の肉体的抹殺を政策として掲げたことはないまでも、創氏改名に代表される皇民化政策は、正に特定民族の民族文化抹殺を意図したものであり、これは「生き地獄」である。文明の破壊と文化の抹殺を、どちらはより悪質なのかとその程度を問うのであるならば、まずそのような問い事態が無為だろう。しかし、仮に西尾氏の枠組みで日本の加害行為を考えた場合、そこにのっぴきならない問題が生じる。

 それは加害行為の主体となった将兵の動機の問題である。ドイツの場合、ユダヤ人に対する加害行為は、国家意志であり、政策であり、ヒトラーの命令であったという「弁解」がなりたつ。しかし、日本の将兵の場合はどうなるであろうか。

 確かに日本の場合,特定人種の抹殺を国家政策に掲げたり、それを天皇が命令したりしたという事例はない。個々の部隊で捕虜の処分について命令があったことが確認されてはいるものの、むしろ、その種の命令は捜しても稀にしか見つからないのが実情である。むしろ、日本の戦争の大義名分は欧米支配からのアジアの解放だったのである。

 こうなると国家意志もなく、政策もなく、そのような命令もないにもかかわらず、南京事件に代表される虐殺行為がアジア全域で展開したということになる。命令や政策によるものでないとしたならば、一体、なぜ日本の将兵はあのような残虐な殺戮行為を繰り返したのであろうか。

 食料の現地調達主義、戦線拡大に伴う兵の士気の低下等、作戦上の問題もあろうが、この場合、やはり、残虐行為の主体性が追求されなければならないのではないか。新兵の度胸づけに行う捕虜刺殺などは典型であるが、「皇軍」ではそのような虐殺行為は、政策、命令という次元ではなく、「慣例」として行われていたという点に、日本の加害行為の重大性がある。

 ドイツのユダヤ人虐殺が、計画的な国家犯罪であるなら、日本のアジアにおける数々の残虐行為は、無計画、無統制な慣習による国民犯罪と言わざるを得ない。西尾氏の枠で考えたとすれば、日本の道義的責任はますます、逃れようのないものとなる。

 以上の考察から、私は、日本の過去について次のような結論に至ることを余儀なくされた。日本の過去を見つめれば見つめるほど、当時の日本の戦争行為における日本的な性格を見逃すことができない。日本の戦争犯罪には明らかに当時の国民性による加害行為があったと言うことを、戦争とは「殺し方」の文化であるという驚くべき事実を、私は「人間として」今後も語り継がねばならないと考える。


《注》
(8)この「五軍神」の慰霊碑建立の経緯については、神風特攻五軍神奉賛会『敷島隊五軍神の志るべ』(1990)、同会『会報敷島』(第1〜第9号)参考。なお、同神社への聞き取りも行った。
(9)
西尾幹二『異なる悲劇』文芸春秋(1994)。