2008年3月18日
海南新聞
1895(明治28)年
2月2日
老馬新聞

1895(明治28)年2月2日

●朝鮮私信 1

((前略))昨年十一月三日
午前四時 宿町(具体的地名は不明 後備歩兵第十九大隊が編成された広島であろう)出発
仝八時宇治川丸に乗船 
十時出発 
此日は天気晴朗にして海上静に玄界灘を打過ぎ候 

四日
午前一時とも覚しき頃微かに対州(※対馬)を右に望で進み 
仝日午後三時頃より少し風起の模様相見 
午后四時朝鮮領内処安島(※莞島の南)に於て碇泊す (中略) 

<五日>
午前八時十五分同島を出発す 行くこと六時間位にして浪烈しく船転覆せんとすること再三 (※中略) 午後六時仁川港に着す 

(※以下翌七日の仁川見物 仁川の不潔を述べるが省略)


 1895(明治28)年2月3日

●朝鮮私信 2 (承前)

翌八日午前八時同国出発 京城に向ふ 
京城に向ふ道に九硯山の険あり 
五龍廓を過ぎ漢江を渡る 漢江は誠に広川にして広さ二里もあらんか
午后五時五竜山(※竜山であろう)に着す 竜山に兵站部あり この日は武装の儘行軍 行程九里 実に困難なりし

翌 九日 
竜山に滞在し京城見物に到る (※京城の不潔を述べるが省略)

翌十日
滞在

十一日
一二三中隊各々分て東徒撃退の進軍を為す(※ここでこの部隊が後備歩兵第十九大隊であることが判明する) 我第一小隊は軍路実測隊護衛として中路を進む可き命を受け

十四日午后一時過京畿道果川(京城南隣)に向て出発す 同日異状なし 併し行軍中若き女子は一人も目に触れず 四五十の老女のみ 依て朝鮮国には若き女子は無(なき)国かと疑はしむ 即ち通弁に就(よつ)て其の理由を尋ぬるに 当国は総て若き女子は他国人に見せず 若し見ることあるも遁走し去るの習俗なりと

翌十五日午前八時出発 竜仁(※水原東南東)に向ふ (途中の食堂の不潔など述べるが省略) 午後五時着 此日の行程九里

翌十六日午前八時三十分出発揚智(陽智か 陽智は龍仁のすぐ東)に向ふ 異状なし (※中略)

翌十七日(※中略)午前八時五十分出発 忠清道竹山(安城北東)に向ふ 田野広闊 我国に於いて此の如く広闊平坦なる地を見ず 而して当時に到るまで鶴(たず)を見受けざりしが此日より数千の群鶴を屡々見受けぬ 小生等再三之れを射撃(うちし)も一羽も得ず 残念残念 雁鴨の如きは見るも面倒なる程棲息す 同日実測隊は一発にして鴨十二羽を得たり 見るのみにして食(くらう)に飽く程なり 当地方の人民は之を猟せざるものと見へ 人の僅々十間斗(ばかり)の処に近付も逃去することなし 当日是等の為め知らず識らず道を進みし故八九里の行程も午后三時五十分頃竹山に着す 同地には第三中隊(※後備歩兵第十九大隊第三中隊である)及び名古屋十七連隊の兵一小隊程 韓兵二百人 我国巡査三名程居れり 而して后(のち)同地に東徒の屍体二三あり 犬鳥の餌食となり居りし(未完)


※(メモ)東学農民軍弾圧に編成された部隊は後備歩兵第十九大隊のほか次の通り
後備歩兵第一八大隊第一中隊(広島)
後備歩兵第一○連隊第四中隊(広島・愛媛・徳島)
後備歩兵第六連隊第四中隊・第六中隊・第七中隊・第八中隊(愛知・岐阜・三重・福井・富山 第二大隊長飯森少佐)
合計約二〇〇〇名
うち後備歩兵第十九大隊は六六三名
他に朝鮮政府軍二八〇〇名

1895(明治28)年2月7日
●朝鮮私信 3

十八日仝地(※竹山)滞在我兵一名の東徒を捕ふ 余は異状なし 

十九日午前八時出発鎮川(※清州北)に向ふ途次文義(※清州南)に東徒数万群集すとの報あり 第三中隊より一小隊の斥候を出す 午后六時四十分頃鎮川に着す 

此夜実に美観なりしは鎮川に着する前一里程の処より韓民の篝火(さいくわ)を燃して軍隊を迎ふ宛然長蛇の如きにてありき

廿日滞在 此処(※鎮川)に東徒二三を殺す

廿一日午前出発清州に向ふ 途中異状なし 道二里前より土民皆篝火を燃やして軍隊を迎ふ 

滞在三日 府使の罪人を取調ぶるを様を見るに実に我くい幕府時代の演劇よりも面白し

廿五日文義に向ふて発す 文義に於ては 廿三日第三中隊東徒と戦ふて之を走らす 正午文義に着す 東徒乱暴甚しく家屋を破り財産を奪い人民を脅迫して皆東徒の組に入れたる由 此地に於東徒七人を殺す

廿六日 第三中隊は(※文義より)公州に向ひ 小生等の第一小隊は懐仁(報恩西)に向ふて発し 午后五時帰着す 異状なし

廿七日出発 報恩、化寧、尚州をて経て

三十日 洛東兵站部(※尚州東)に着 一日滞在

十二月二日 また折返して尚州に向ふ 訪渓を経て

四日 青山(※報恩南)に至る 此日東徒六名を捕ふ 青山に着くや 兼て南一里 文岩に東徒の首魁 法軒(※崔時亨=法軒)なるもの潜伏し居る事を関知したれば 桑原少尉二分隊を率ひて之に向ふ 彼等已に我隊の青山に来るを知り逃走を企て居りたれば 之を追撃して文書類二行李 牛馬十頭をぶん取り 其の夜又踏み文岩を夜襲したれど 東徒一人も居らず 依りて 火を放ちて之を灰燼とし 当方の山中を捜索して財物等を隠匿せるを発見し 之を引き出し見るに 白絹類百反余 上等の織物類等夥しく 之を引き出して分取り 他は皆焼き払へり 

翌六日 沃川(大田東)に向ふ 仝地は東徒の根拠地なりしを以て はなはだ不穏なりしも 其儘打ち過ぎたり 府使死去し居りしを以てなり

七日 文義に向ふ 此日清州に着するや 東徒此地を襲はんと欲して 新灘津(※文義西南西)の方向より来るとの風説あり 仝夜十二時頃 東徒已に里余の処に来りたりとの報あり 且人民恐怖して騒擾す 

翌日(※八日) 午前三時頃 半里程の処に数万の東徒 数千の旗を翻して進み来る 韓兵正面に当たり 我兵三分隊を以て側面より射撃す 東徒等韓兵のみと思ひきや 日軍側面に見(あら)はれ 射撃迅速なるに驚き 軍勢乱れて潰散してモランボン山に退却す 此日我兵韓兵と共に死傷なく 東徒二十余名を倒す 仝日午后 引き上げて 清州に帰る 分取り品山のごとく 砲二門 弾薬銃剣鎗弓夥し 
 
翌九日 小生等命を受けてモランボン山方向に向て斥候す 敵兵知りて公州方面に退却す

翌十日 出発 文義に折返し 是れより増若(※大田東)、沃川(※大田東)、永同(※大田・金泉中間)、黄【三ずいに間】(※ 秋風嶺西 )を経て善山(洛東兵站司令部南)に達し六日間滞在

廿四日(善山より) 三本軍曹は兵十三名を率ひて 全州に 小生は兵七名を率ひて南原に防寒衣護送の命を受く 道は東徒の巣窟なれば十分の警戒を加へ 知礼に至るころより 寒威甚しく 河海皆氷結し 口髭鼻息の 為めに氷りて銀線となり 背に負ふ行李の弁当 凍りて食むべからず 

廿九日 安義に着す 此辺いったい 東徒の疑ひある処にして 時に我に向て発砲するものあり 人民皆鎗銃を携へ 不穏の景状あり 処々の番小屋を構え 数百人之に居る 途中最も疑問なしは 処々の岩石に萬暦何年さ倭兵討伐云々と彫刻せるものあり 字古くしてコケを生じ見え兼る程なり 察するに豊公征韓の時劇戦の跡ならんか

三十一日 南原に着せし徒党に南原の兵已に谷城(※南原南南東)にを出発せし後なりしにより 

翌明治二十八年一月一日谷城に着し 護送の防寒衣を渡す この日韓人の手にて十八名を殺す 或は打殺 或は火殺 其残酷さ見に忍びず

翌日 出発

九日 金山に於て我一小隊に帰着 東徒報恩付近に勢力を張り居るに付 我小隊 洛東兵站部 大卯兵站部兵 会併して之に向ひ居りしに依り 小生等 直に之に追付き 鐘谷に於て劇戦 賊魁 鄭大視 準圭皋二名を殺し 東兵六十余名を殺す 我兵死傷なし 此戦は実に十三日(一月十三日即ち発信の前日)なりし                           (完)