2008年3月18日
海南新聞
1895(明治28)年
1月9日・10日
老馬新聞

1895(明治28)年1月9日 
●兵卒の憐れなる最後
北宇和郡丸穂村の山本長太郎氏は身、後備砲兵一等卒の軍籍にあるを以て 去る頃 後備の召集に応じ軍に従ひて渡韓し屡々各所の戦争にも従ひたるが 元来神経質の性にて 去年十二月廿五日召集を解除せられ郷里丸穂村に帰りて療養中なりしが病益々重く ついに発狂して毎日毎夜戦争の浮言のみいいつ丶ありし位にて 到底全治の見込みもなかりしが 遂に去月二十八日ゴウエンとして黄泉の旅路に就きたりと

1895(明治28)年1月10日
●朝鮮の宣告式 八日午后六時五分東京特電(輻輳延着)
昨七日京城発の電報に曰く 大廟誓告式は執行せられたり 誓告の箇条は十四にして其第一条第七条第八条に因るに「念慮を絶ち自主独立の基を立つる事」と云ふの意を明かにせり。」

報雑
●広島特報(一月八日発) 真鍋俊雄報
全羅道の東学党
○掲大二百五十六号
去る十二月三十一日 午后釜山出港 翌一月一日午前左水営へ入港 左水営節度使金激圭 本艦へ来訪に付 去る三十日釜山より我陸兵一中隊順天へ向け進発の事件を通牒し 尚順天攻撃 東徒鎮定の方法等を協議せり 
その結果に依り今2日午前左水営より 中軍申椀 及 中領将郭景換(火偏)、韓兵百名を指揮して海路河東に向かって発向す 我が陸兵を出迎し 且つ明三日中に領官李周会(李量栄又は南州とも号す)韓兵六百人を指揮して陸路順天街道新城浦に向け出発 来る六日まで我が陸軍へ結合し順天城攻撃の筈に候
※「左水営」は麗水にある

目下東徒首領は専ら順天城に屯集して十二邑の東徒を集合中に有之候間 未だ順天城より左水営等へ進撃の運びに至らず 
※順天城は左水営北方


従来全羅道中五十三管の内 五十管は東徒の占領する所となり 残り三管 左水営羅州及雲岸は東徒に与せず 依て目下東徒の名簿に列するものは百万人余にも相成可申候間 東徒の首領らは格別 其他下等の愚民に対して可成帰順反正の方法を開設せざるを得ざる場合と相成候に付 文明国の例に準じ 昨一月一日左水営節度使は囚獄にありし東徒二十人の内三名の婦人を宣誓の上解放し斬罪を免じたり 殊に日本の朝鮮に対する厚意 及我が筑波艦の東学徒に対する仁愛の趣旨を説明して後東徒中へ放逐せり

本艦は来る六日頃 順天攻撃の結果を認め 竹林浦を経て釜山へ廻航の見込み 尤も竹林浦へは測量員の外 大尉一名少尉二名下士以下二十余名を残し置候 依て此旨報告す
廿八年一月二日
                         左水営港先任官
                              筑波艦長 黒岡帯刀
大本営宛

東学党巨魁殺さる
○掲第二百五十七号 電報 一月七日午前八時三十分釜山発 八時四十五分着
本月初め順天府光陽県に村の役人及び人民より東学党の巨魁金ジンバイ、柳カトク、鄭リョケイ以下を殺して左水営に降伏し謝罪を乞ふ 筑波の分遣隊は五日光陽に上陸し 金ジンバイ、柳カトクの首級を実見せり 右水営の韓兵五百順天府に赴けり 目下東学党首領を失ひ四方に散乱せり
一月七日                        筑波艦長