海南新聞
1895(明治28)年
1月10日
老馬新聞

1895(明治28)年1月10日


雑報


●広島特報 1月8日発 真鍋俊雄報

全羅道の東学党
 


○掲第二百五十六号

去る十二月三十一午后釜山出港 翌一月一日午前左水営(※麗水)へ入港 左水軍節度使金激圭本艦へ来訪に付き 去る三十日釜山より我陸兵一中隊順天へ向け進発の事件を通牒し 尚順天攻撃 東徒鎮定の方法等を協議せり 其結果に依り 今二日午前 左水営より中軍申椀 及 中領将郭景煥、韓兵百名を指揮して海路河東に向て発向す 我陸兵を出迎し 且つ明三日中に領官李周会(李量栄または南州とも号す)韓兵六百名を指揮して陸路順天街道新城浦に向け出発 来る六日まで我陸軍へ結合し順天城攻撃の筈に候 目下東徒首領は専ら順天城に屯集して十二邑の東徒を集合中に有之候間 未だ順天城より左水営等へ進撃の運びに至らず 

一 従来全羅道中五十三管の内五十管は東徒の占領する所となり 残り三管左水営羅州及雲岸は東徒に与せず 依て目下東徒の名簿に列する者は百万人余にも相成可申候間 東徒の首領等は格別其他下等の愚民に対して 可成帰順反正の方法を開設せざるを得ざる場合と相成候に付き 文明国の例に準じ 昨一月一日左水営節度使は囚獄にありし東徒二十人の内三名の婦人を宣誓の上解放し斬罪を免じたり 殊に日本の朝鮮に対する厚意及我筑波艦の東学徒に対する仁愛の主旨を説明して後東徒中へ放逐せり

二 本艦は来る六日頃 順天攻撃の結果を認め竹林浦を経て釜山へ回航の見込 尤も竹林浦へは測量員の外大尉一名を少尉二名下士官二十余名を残し置候 依て此旨報告す

二十八年一月二日
                    左水営港先任官
                                筑波艦長 黒岡 帯刀

大本営宛


東学党巨魁殺さる
○掲二百五十七号
本月初め順天府光陽県に村の役人及び人民より東学党の巨魁金ジンバイ 柳カトク 鄭虞△以下を殺して左水営に降服し謝罪を乞ふ 筑波の分遣隊は五日光陽に上陸し金ジンバイ柳カトクの首級を実見せり 右水営の韓兵五百順天府に赴けり 目下東学党 首領を失ひ四方に散乱せり
                       一月七日     筑波艦長