海南新聞
1894(明治27)年
12月22日
老馬新聞

1895(明治27)年12月22日

●広島特報 十二月廿日発 真鍋俊雄報

東徒撃破報告


大本営掲示第二百四十号
電報 十二月十九日午后六時四十分仁川発 仝仝仝九時二十五分釜山発 仝仝仝十二時着

討伐隊(※主力は後備歩兵第十九大隊)応援として曩に仁川より洪州(※現・洪城)に派遣の中隊は一小隊を暫く同地に留め余は皆今日仁川へ
帰りたり 
去る十日 公州初森尾大尉の筆記報告に拠れば 中隊は去る五日、六日利仁(※公州南西)付近の賊を討ち 此賊は魯城(※公州の南、論山の北東)に向かって退けり 又珍山(※論山東方、大田南南西)錦山(※珍山南東)より清州に向はんとする賊に対し 去る九日一枝隊を文平義(※清州南の文義か)に向て出だせりと 別報に拠れば此賊は八日懐徳(※大田北)より清州に向ひたるもの丶如し 
一昨日電報せし軍路調査隊護衛の小隊が去る九日清州付近に於て撃破したるは此の賊なるべし 
去る十一日電報せし三縦隊(※後備歩兵第十九大隊の三中隊)に下したる命令は恩津県に於て伝達せりと洛東(※兵站司令部の一つ)より報告在り 之に依りて見れば目下我隊(※後備歩兵第十九大隊)は多分金州付近にあるもの丶如く察せらるる
 
                                     仁川 伊藤兵站司令官
川上兵站総監