海南新聞
1894(明治27)年
12月20日
老馬新聞

1895(明治27)年12月20日

●広島特報 十二月十六日発 真鍋俊雄報

賊徒撃破(一)


大本営掲示第二百三十六号
電報 十二月十七日午後七時十五分仁川発 仝仝仝八時十分釜山発 仝仝仝九時十五分着

仁川より応援として派遣の中隊(※七百名弱)は公州(洪州かー※ママ=洪城)に在り 海美(徳山道立公園西)方面に逃れたる賊の両挙(※再挙)を計るを知り去る五日支隊を進め 賊数百名を捉え五十余名を殪(たお)す この支隊は九日公州(洪州か)に帰り暫らく此地に滞在せしめ付近の急に応ぜしむ 

○中隊は十日公州(洪州か)を発し 海美
 瑞山(※そさん=海美北西)を経て泰安(※瑞山の西)に至り 該地方の義勇兵を使用し 賊を半島に押し込め 数百名を捉らへ三十余名を殪す 首魁は悉く縛に就き或は斃す 故に将来此方面の賊は再び興るの憂なかるべし 

○泰安より海美に至る地方は官民共に我軍隊を労ひ天幕を張り小屋を設け酒肴を供え 庶民自ら荷物の運搬に従事し 是を名誉とするもの丶如し 大に我軍の威徳に感ぜり

右十四日徳山発山村中隊長の報告 只今達せり
                                     仁川 伊藤兵站司令官
川上兵站総監


賊徒撃破(一)

大本営掲示第二百三十七号
電報 十二月十七日午後十一時仁川発 仝仝午前二時三十分釜山発 仝仝仝五時十分着

軍路調査隊の一行及護衛として派遣せる桑村少尉の小隊は 一日洛東(尚州南東)を発し京城に向て帰る途次 六日青山(尚州西)に達したるに 付近に若干の暴徒あり 之を撃退す 

八日文平義(※文義か)を発し清州に着す 十日同地発の筆記報告に依れば 八日の夜文平義の方向より 数万の賊 清州に向て進み来るとの報に接し 応戦の準備を為し 九日午前愈々彼の前進を聞き 清州付近の要地に拠り 之を撃破す 俗の死者二十余名 負傷者無数 我兵死傷なし 又大砲二門 火縄銃四十余 其他弾薬 鎗等を分捕す 賊は南方に向て退却せり 此報告に依て考ふれば 中路にありし南少佐(※後備歩兵第十九大隊長)及其部下は公州の方位に進み 西路の隊と合したるもの丶如し

                          仁川 伊藤兵站司令官
川上兵站総監