海南新聞
1894(明治27)年
12月13日
老馬新聞

1895(明治27)年12月13日

●広島特報 十二月十日発 真鍋俊雄報

※(メモ)東学農民軍弾圧に編成された部隊は後備歩兵第十九大隊のほか次の通り
後備歩兵第一八大隊第一中隊(広島)
後備歩兵第一○連隊第四中隊(広島・愛媛・徳島)
後備歩兵第六連隊第四中隊・第六中隊・第七中隊・第八中隊(愛知・岐阜・三重・福井・富山 第二大隊長飯森少佐)
合計約二〇〇〇名
うち後備歩兵第十九大隊は六六三名
他に朝鮮政府軍二八〇〇名


慶尚道西南部 暴徒撃攘の報告


掲第二百二十三号

(一)河東付近の東学党撃退の為め 
遠田中尉に第三中隊の一ヶ小隊を 藤坂中尉に第四中隊の一ヶ小隊を引率せしめ 十月廿二日釜山港を発し 同日馬山浦より二区隊と為り 河東に向ひ前進す

【注】遠田中尉は四国四県出身後備兵によって松山で編成された後備歩兵第十連隊所属。下関守備隊当時大隊副官をしていた遠田喜代中尉。

【注】藤坂中尉は後備歩兵第十連隊の小隊長藤坂松太郎少尉(下関守備隊当時)。

(二)

藤坂少尉の小隊は二十七日河東に進み 東徒約七百人を広坪洞(※河東の南郊)に攻撃し 賊は退走して蟾湖江(そんここう※現・蟾津江か)を渡り船は悉く彼岸に繋留して退く 是(ここ)に於て内海軍曹は水中に飛び入り遊泳して江を渡り 走賊を追躡(ついじょう)するも 渡江の為め時刻を移したるを以て賊は已に遠く退走して踪跡を失ふ 賊の遺棄せし武器糧食若干を奪領す

(三)
遠田中尉河東村に達し藤坂少尉の部隊と相合して同地に宿営す

(四)
二十八日東徒約七百名蟾居駅(※現・津上=河東南)に在るの報を得 二分隊を派遣して捜査せしむ 賊は已に我兵の前進を知り 小数の人員を止め 大部分は退却中なりし 仍て直ちに之れを追撃し遂に賊は悉く左右の山頂を越へ退却す 此日武器等若干を収む

(五)
此の方面の賊は已に退走せしも 河東の付近所々に数千数百の暴徒集合するの報を得 更に此等を撃破する為一時比陽(※昆陽か=昆陽は昆明の南)に背進す

(六)
十一月二日右両部隊の指揮を執らしむるため第四中隊長
鈴木安民をして釜山を発し昆陽郡に至らしむ 同大尉は四日昆陽に達す

【注】鈴木安民は下関守備隊当時後備歩兵第十連隊第4中隊長・中尉

(七)
十一月七日
鈴木大尉は二ヶ小隊を率ひ安心洞の南方金鰲山(きんごうさん849m)に進み東徒約四百名の集合するに会し 一小隊を本通りより 一小隊を山南より前進せしめ挟撃之れを破る 賊の死体六、生擒二十七人 武器若干を収む 後に土民の言に依れば賊の死体七十人計り山間に集めありしと云ふ

(八)
仝十日 丹城県地方に群集の東徒昆陽を襲はんとするの状況を偵知し 翌十一日我より先んじて逆撃を施さんが為め 
鈴木大尉は全隊を率ひて晋州の西方に至る 果して東徒約五十人山野に充満するを見る時に 午前八時五分賊先づ銃を発して我を襲撃せんとす 我兵之に応じ漸漸賊に迫る 賊は二区隊と為り 一は山の北方に退保す 仍て我兵山上の賊に向ひ攻撃す 賊は山上に積み上げたる石塁に拠り防戦固ふして動く色なし 此際山北の賊兵再び前進し来り 我兵右側を突く 如此(かくのごとき)の動作 従来東徒の所為に似ず 頗る意外なりし 十時十五分藤坂少尉の一小隊は吶喊して山上の石塁内に突入し遂に賊を撃退す 此際上等兵高橋浅七 一等卒小野山丑松 同藤本源左衛門の三名負傷す 皆銃創なり 又吉川曹長の率ゐる一小隊は 我右側に襲来せる賊の右側に向ふ 山頂の賊退走するや竟に悉く潰乱 西北徳山地方に向け走る 是に於て我兵を収集す 干時(ときに)午前十一時なり 賊の死体は戦場に遺棄せるもの百八十六 傷者は数を詳(つまびらか)にせず 土人の説に 退走して途中に倒れたるもの数十名なりしと云ふ 生擒二名 賊は武器弾薬糧食品多数を捨て丶走る

(九)
同月十六日多数の賊兵鷹峙(※或は於峙か)及び三峰山に屯集するを見る 因て之れを攻撃せんとするも 河流 舟なく渡るを得ず 軍夫五名遊泳して対岸に至り小舟一隻を得て皈(かえ)る 此際軍夫一名溺死す 干時(ときに)退潮に際し 舟砂泥に膠して動かず 竟に日没に至り攻撃を果たさず

(十)
同月十七日午前広坪洞(河東南郊)に於て河を渡り二ヶ小隊を鷹峙に 一ヶ小隊を三峰山に向ひ進ましむ 而して賊は已に鷹峙に在らず 因て全中隊三峰山に向ひ 三方より進で撃退し 尚ほ一個小隊を蟾居駅に進めて残賊を破り午後五時河東府に還る

(十一)
同十九日午前七時河東を発し鷹峙に至る 賊兵数百旨朗洞付近に群集せるを診て仍て四方より包囲の目的を以て攻撃を為す 賊兵狼狽四散し 其大部分は蟾居の西方に向て退走す 後に聞く所に依れば 賊兵先の敗を聞き更に全羅道順天府方位より来援せしものなりと云ふ 此日賊の死亡七人 生擒五名  賊の遺棄せし武器其他雑品道路を覆ふ

(十二)
此日別に数多の賊兵は我背後に出て河東府に迫る 我残留の兵卒八名之れを防ぎ 先づ賊の旗を携ふる者一名を撃殺す 余賊見て忽ち退散せしと云ふ

(十三)
爾後 賊兵全羅道順天の方位に遁走し 近傍隻影を留めず 因て
鈴木大尉以下二十一日河東を発し廿七日釜山港に帰還す

(十四)
我兵帰途に就かんとするや 河東 昆陽などの土民数多集り来り 或は陳情書を出だし 或は口頭を以て尚ほ我兵の留陣を請ふもの再三 是れ土民凶徒の再び侵入せんことを恐れ 朝鮮兵の頼みなきに由り 切に我兵留陣を哀願せんためなり 然れども我兵兵站守備の任務に復さざる可からざるを以て 
鈴木大尉は懇々土民を慰撫して皈還(きかん)の徒に上れり 尚ほ警備の為め地方官に忠告し 晋州に百人 河東に百人の朝鮮兵を置き守備せしめたり
  明治廿七年十二月一日
    釜山港兵站司令部に於て
                     兵站県碇泊場司令官 今橋少佐

大本営
兵站総監川上操六殿


追て朝鮮官吏の手にて処分したる暴徒は左の通りなり

追捕使大邱府判官池錫永より通報の写(訳文)

一 晋門旧海倉に於て捕捉せし東徒廿一名中 魁首林碩俊は八日に梟首(きょうしゅ)ち 余の廿名は厳刑の上 十二名は放ち 八名は厳囚す

一 昆陽金鰲山の戦にて捕捉せし東徒廿名中 魁首崔学元は十三日に銃殺し 余二十名は厳刑の上釈放す

一 晋州に於て捕捉せし東徒五十八名中 魁首金高奎は十三日に梟首し 童蒙(どうもう=幼い子供)金巻順は同日銃殺し 余の五十六名は厳刑の上 廿七名は囚 二十九名は放つ

一 河東渇鹿峙(※峙の原意はまっすぐに立つ)接戦の際 銃殺十一名 同時生捕十七名は厳刑の上釈放す

一 日本兵にて捕捉せし三十四名の隊長金在僖は屡々釈放せしに尚ほ東徒に入り縛に就き 又金達得は東徒晋州に入るとき前導をなせしに依り 倀鬼(組長の意=ちょうき)金性大と共に十日河東舟橋場に於て銃殺す

   十二月一日                                  今橋少佐