海南新聞
1894(明治27)年
12月06日
老馬新聞

1895(明治27)年12月06日

●広島特報 十二月三日発 真鍋俊雄報


載寧地方の東学党


掲第二百十三号
電報 十一月廿九日午後九時漁隠洞発
    十二月一日 午後八時釜山発
    仝月仝日   午后十時着

黄州(※平壌南)より載寧(黄州南)地方に派遣せる半小隊(※一個中隊221名→一個小隊約70名ということで半小隊は35名程度か)は去る廿七日同地付近にて俗を撃破し 十五名を斃(たお)し究明を生捕り数多の武器弾薬を分捕り載寧を占領す 賊約六百名四方に散乱せり 我兵死傷なし 廿八日更に安岳方位に向はんとす
金州より派遣せる守備兵は 平山(※黄海道東南部)付近にありて専ら海州(※黄海道南岸)より来たる賊を警戒せしが 今日迄無事なるを以て一と先引き上げし旨報告あり


                           福原兵站監
川上兵站総監


東学党数千人を斃(たお)す

掲第二百十五号 
電報 十二月二日午后五時十分仁川発
    仝日     午后七時二十分釜山発
    仝日     午后九時二十五分着

東学党討伐隊(※主力は後備歩兵第十九大隊)応援の為め仁川より派遣したる中隊(※200余名か)は一日午前七時牙山付近貢湖に上陸 直ちに公州に向けて進みたり 牙山県の官吏並に土民より聞き得たる左の状況を報告し来る

十一月二十八九日東学党数万公州を襲撃 又我軍及朝鮮兵大凡千余人は之れを撃退し数千人を斃す 其巨魁李昌求 及びリンシー二人を殺したりと 而して目下此方面の賊は解散し 牙山より公州及び洪州間には賊の集合体なく 道路も亦毫も支障なきもの丶如し ○目下賊は京城に上るの景況更になし


                           江川 伊藤兵站司令官
川上兵站総監


●広島特報 (十二月四日初)
真鍋俊雄報
公州の東学党
掲第二百十六号
電報 十二月三日午後二時五分仁川発 仝 午後二時四十分釜山発 仝午後五時三十分着

十一月二十七日付 在公州森尾大尉の筆記報告に依れば 西道分進中隊は十一月廿一日公州に達し 其東南に在りし数万の賊徒と交戦し之れを撃退す 翌廿二日未明より彼れ再び攻撃し 我兵之れを拒(ふせ)ぎ 午後一時頃 終に之れを撃攘し 俗六名を斃し 砲一、小銃弾薬二千発分捕りす 仝日没に至り賊徒は 敬天 定山の方位に退却せり 而して此中には支那兵大凡四十名許りありと 又大隊(※後備歩兵第十九大隊)本部は二十七日公州に達すべき予定なるを以て 其到着を待ち其指揮に依りて更に攻撃を始めんとす ○仁川より派遣の中隊の情報と右報告とに依りて察すれば 俗は漸次全羅道に退去するもの丶如し

                           江川 伊藤兵站司令官
川上兵站総監



東学党三百名来襲す
掲第二百十七号
去る三十日午后二時平山(※現DPRK黄海道東南部)の北一里に於て 大角技手工事中 東学党三百余の襲来に遇い 舎員其他所持の物品 悉皆略奪せられ翌く一日朝 技手以下黄州より来着の守備兵八名を合し 平山に籠れる賊徒を攻撃し遂に十二名を斬殺し火器刀剣数多を分捕り 工夫一名負傷の旨 京城土屋中尉より報告す
右報告に及候也

                          軍輸通信長官寺内正毅
川上兵站総監