●清韓講師の密談 昨二十四日清国公使は朝鮮公使館を訪問し密談ありたり 雑報 ●釜山特報 (六月十八日) ▲肥後丸釜山に着す 郵船会社汽船肥後丸は 広島鎮台歩兵○○(二字伏字)を載せ六月十七日午後五時当港に着したり (以下略) ▲兵乱の原因 這般の兵乱の起因は 全州古阜の一村にありて 租税怠納の事より 郡司の村民を責むる甚だしく 一老人村民に代て哀願数回せしも聞き入ざるのみならず 不法にも郡吏老人を捕へて獄に投ぜり 此処に於て村民激昂し 囚人を助け出さんとて郡衙に迫る 郡吏之を見て倉皇(※あたふたと)家を棄てて逃ぐ 然れども村民の挙動は固より韓廷の大罪なれば 全羅道の監司は兵を出して之を鎮撫せんとしたるに 近村の者之を伝へ聞き大に怒り 且つ平生の不平を一時に発し郡司の不法を攻むる者到る所蜂起するに至れり 而して東学党は兼て斯の如きことあらんと期したる事なれば 幸機投ず可しとなし 直に竹槍座旗を押立て丶暴民の中に加はり 之を煽動し之に助勢したれば 其勢甚だ熾(さか)んにして遂に暴徒全道に跋扈するに至りたるが 此事早くも韓廷に聞へたりと見へ 政府は直ちに兵を送り之れを鎮撫せんとしたるも 中々に鎮まらざりし 但し此官兵と云ふは平素俸給全からざる者のみなれば 各自皆曰く 官の為めに戦ふて一命を損ずるは愚の至りと 陸続兵器を棄て官衣を脱して遁れ退くに至り 従つて益々暴徒の勢ひを得るに至れり 而して当今世上に往々東軍鎮撫したりなど伝ふる者あれども実際は中々左る事なし ▲東軍の根拠固し 全州近傍は皆東軍の根拠地となりしことは已に世人の知る所なるが 就中其の根拠とも云ふ可きは 報恩 忠州の両なり 左れば今日風説の如く果して牙山の清兵運動を始めしとせば 蓋し東徒の跡と追ふの形勢となるなり 但し韓廷に於て若し全羅忠清両道の東徒を鎮撫するとせば 一には其の根拠地たる報恩を撃ち 二には万項より海に沿ふて務安を衝き 三には全州より長城を襲ふより外なし 然るに韓廷の兵 未だ此三者を行ひしを見ず 東学党の根拠の固きを知る可きのみ ▲東学党の大軍師(※本文の全明叔は全琫準の別名である) 今度東学党の大将と呼ばる丶者に付ては 浮説紛々たりと雖も 其の大軍師は 古阜の産にして全明叔と謂ひ 四十余の人物にして 頗る再起胆略に富み 中々侮る可らざる英雄なり 又其の総督は尚州の人にして崔時亨(※法軒と号す)と云ひ 六十七歳の老翁なれども 是亦非常に大志と人望とを負へる尤物なり 又東道の大将軍は朝鮮の讖言(しんげん) 即ち 李氏に代りて天下を取る者は鄭氏なり との讖言に従ひ 全州光陽府新営村の人にして今年十四歳の神童李道令(道令とは幼年にして妻なき者を云ふ)の姓を換へ鄭道令と呼び之を以て充てしとなり ▲東学党の懐中印符 慶尚道の東徒が懐中して居る陰符は十三字にして実に左の如し 為天柱造化定永世不忘万古知 ▲鶏林八道皆不平党 今回暴徒の起りしも畢竟人民不平の発したる者なる事は前段記せしが如し 而して尤も不平の精神を抱けるは 第一 総角(ちょんがる ママ)(貧にして妻を持つ能はざる者) 第二 猟師 第三 僧侶 第四 負商 等にして 是等は皆悲惨なる境遇に陥り居る者なれども 非常の時に於ては 孰れも屈強の兵士となる者のみ也 殊に最も注目す可きは 負商の総督は 彼の有名なる大院君其の人なる事なり 是を以て閔氏は大に大院君を嫌悪し居ると雖も 未だ之に其の毒手を下す能はざるは 全くこの負商が全国に於ける勢力強きに因る ▲僧侶の勢力 (本文省略 梵魚寺の700人の僧侶、通度寺の1000人の僧侶 一朝事あるときは兵士となる、など) ▲釜山碇泊の日本軍艦 は鳥海号一あるのみにて 他は商船会社の白川丸のみ 又物価の変動等は至て少なし ▲京城 上海間の電信不通 京城上海間の電信は不通となれり 然れども是電信の断絶せしにはあらずして 支那の朝鮮が共謀して不通ならしめたるに因る 而して鶏林に於ける変乱の時は何時も斯くの如し ▲清兵の乱暴 (本文省略) ▲朝鮮人拘縛せらる 東学党の模様を邦人に通知したる朝鮮人四五百名は過般朝鮮地方官の為めに拘縛せられ京城に送らる ▲釜山居留の外国人 釜山に居留する日本人及外国人総数は左の如し 日本戸数 九百四十五戸 人口 四千五百八十五人 内 男 二千四百九十五人 女二千零八十五人 米人 二名 英人 九名 仏人 一名 清人 百〇八名 独人 二名 ▲釜山近傍の朝鮮人 (本文省略) ▲釜山の日本兵 釜山に上陸したる○○○○の日本兵は当分本営を当港に設けて居留民を警護し内地には進入せざることに決せりと云ふ 因に日本兵士の釜山に上陸したるは明治維新以来今次を以て嚆矢とす (※第22連隊第1大隊・第3大隊が釜山に入港したのは、19日後の8月15日。8月21日には仁川港に入港し、23日には竜山で第2大隊と合流し京城守備にあたる。第2大隊はすでに8月5日に元山に入港し陸路京城へ進んだ。) ▲我兵に対する朝鮮人の感情 (本文省略 自画自賛) ▲釜山に清兵の■影なし 東学党の根拠は今や全羅道全州 忠清道奉安の両地にあり 而して牙山に上陸したる清兵は容易に内地に進入できず 又釜山には一人の清兵も上陸したる者なし ▲釜山居留民の輿論 日本郵船会社事務員の語る処に依れば 朝鮮に上陸したる日本兵数は陸海軍併せて○○人以上に達せりと云ふ 而して釜山居留民の如きは今回の事変に対する日本政府の決心は果して那辺に在るやを疑ひ居る者の如し 釜山は露領浦塩(ウラジオストック)と仁川港との間にある咽喉の地にして 露国政府若し時機乗ずべしとなし 西比利亜(シベリア)艦隊を支那海に派遣して 英国の東洋艦隊と雄を争ふ場合には必ず第一に元山に根拠を占め 釜山に幾分の軍兵を駐(とど)め 以て縦横に策をめぐらすは蓋し必然の軍略たり 故に日本政府が他国に率先して陸兵を釜山に上陸せしめたるは居留民の頗る喜ぶ所なりと雖も 若し一朝事破れて清兵と戦う場合に当りては 政府飽く迄も強硬の政策を固執するの覚悟なくんば 却て居留民は後日清人の嘲罵を招くの憂あり 之れを要するに釜山の居留民の如きは 日清両国出兵の結果として 已にその衝突を予期せり(以下略) ▲電報禁止患ふるに足らず 支那政府は在清日本人の電報往復を禁じたりと云ふ 此一事 日本に取り最も不便の様なれども、患ふる足らず 軍用電信を布かば釜山京城の間一週日にして布設するを得べし 加ふるに開戦の暁、日本兵は支那の義州線を切断sるは容易なれば、電信の不便は却て支那政府にあらんと云ふ者あり |
08年08月31日 日曜日 |
海南新聞 明治27年 06月27日 全琫準 初出 |