08年10月29日 水曜日
海南新聞
1894(明治27)年
6月29日
老馬新聞

愛媛県歴史文化博物館編『歩兵第22連隊と日清戦争 年表』より引用

1894(明治27)年
2月 韓国で甲午農民戦争起こる
6月9日 清国軍牙山に上陸
6月10日 全州和約・東軍撤退 (武田幸男 『新版 世界各国史2 朝鮮史』 山川出版社、2000年、242頁。ISBN 978-4634413207。「農民軍は全州を包囲した政府軍と激戦を展開していたが、清日両国軍出兵の報を聞いて、六月十日、政府側と「全州和約」を結んで全州を撤退した。」)
6月12日 第5師団大島混成旅団 仁川上陸
6月中旬 大島旅団京城に集中 清国主力平壌に集中
6月10日  武田幸男 『新版 世界各国史2 朝鮮史』 山川出版社、2000年、242頁。ISBN 978-4634413207。「農民軍は全州を包囲した政府軍と激戦を展開していたが、清日両国軍出兵の報を聞いて、六月十日、政府側と「全州和約」を結んで全州を撤退した。」
6月13日 第10旅団動員下令(第22連隊富岡三造大佐)

7月25日 豊島沖で日本海軍、清国海軍を破る 
8月15日 第22連隊第二大隊京城着
8月23日 第22連隊第一大隊、第三大隊竜山で第二大隊と合流



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1894(明治27)年6月16日


雑報


●朝鮮戦報
(六月十六日京城発)

▲全州回復の事
官兵 全州を快復し 東徒金堤に退きたるは事実なれども 然れども此回復は官兵大戦大勝の結果にあらざることも事実の如し 元来征討使△△等が戦地の状況を報ずるや 征討軍の敗戦は成るだけ小さく之を報告し 東徒軍の敗戦即はち征討軍の勝利に関するものは大ゲサにすること常なれば 総て之れを信じ難し 今試みに本月九日(韓歴五月j六日征討使より発せし全州回復に関する電報を掲ぐる左の如し 事誇大に過ぐる勿論なれども以て当時の事情一斑を知るべし

機に従ひ応に変じ 先づ挙行せし後に報ぜよ との下教(国王の伝令)に依り報告す 初三日より大勝利を得、全州以下の各邑民人を鎮撫し安堵せしむ 賊徒は敗走せり とりこにせし賊の首領全明叔(※全?準)頻りに哀れんで生活せしめられんことを乞ふと雖ども 其情形信じ難し 昨日大に軍兵をねぎらひたり 云々
又た去る十一日(韓暦五月八日)、招討使の発せし電報は 全州恢復の事情を知るに足れり 其の報に曰く
官営(全州官営のこと)を復して之に入る賊徒已に初三日より 先鋒、壮士、将軍を斬獲せられしより頻りに降伏を乞ふもの多し 然れども情形測り難く 且つ 後軍未だ達せざるを以て軽視するを得ず

雲梯三百を以て城を越え 大砲一坐 回旋砲一坐と軍器弾薬を奪ふを得たり 賊徒逃遁の際 我軍の追撃を受け殺傷せらるるもの多し 人を完伯(全羅監司を云ふ 新監司は金鶴鎮にして公州に在り)及び 完使(全州府使)に遣はし 全州に来り会せしむ

目今の形勢にては 若し平安官営の兵丁及び中国兵(支那の援軍)にして進軍し来るあらば 人民其業に安んずる能はざるべし 方に牛猪鶏卵を送って清軍を稿(ねぎら)はんとす 巡辺使は未だ到らず
右の諸報に依て之を見れば 征討軍大勝を得たるごとくあれど 之れ皆居留民の誤殺なるべし 然ども 東軍逃れたる為め 征討軍の先陣已に全州監営に入りたるは疑ふ可からざるの事実なり 全州は京城を距(さ)る五十里 而して東学軍の屯在せる金堤は京城を距る五十三里なり