08年07月30日 水曜日
海南新聞
老馬新聞

明治27年05月27日
(つづき)
雑報

●東学党暴動詳報(承前)

◎礪山(※ヨサン 論山南)の戦況(官兵勝利)
旧四月二十八日は今回騒乱に於ける第一回の開戦日なるが 本回は何分最初のこと丶て別に謀計もなかりしものと見ゆれども 全州監営にては全来賊兵の猖獗甚しきを認め 態々親軍兵を要請して八百の衆を急派し貰う勢いなるを以て 注意警戒頗る怠りなく 負商(かつぎや)褓商(行商人)又た通文に因て寄集来援し之に備へある兵員を加へ礪山領内に於て東学派を衝き之を破り結局勝利に帰し 現に片腕を落とされ肩先を截(き)られ面部を傷けられ白衣は鮮血に浸染して哀れにも力無げに逃避するもの四拾人許を目撃して帰仁(仁川へ帰ること)したる者あり 而して斯く官兵の勝利を得たるは負商等の力与(あづか)つて八九分に在りと云ふ

白山の戦況(東学大勝) 
礪山県第一回開戦に於ける東学派の敗走は 大に彼を刺衝し大に彼を激動し大に彼の活気殺気を喚び起し 区々小敗却つて彼の戦鋒を鋭敏ならしめたらん 之に反して官兵の多衆は左なきだに往々人をして危ぶましめたるに 礪山の勝利多は褓商等の力に頼ると雖もしかも幾分か之を恃み自安の念なき能はざらん 斯る事例は古今東西の戦乱史乗(記録)に往々見受くる所、這回(こんかい)の事此類に出でたるや否やは知らざれども 旧四月二日(ママ)は第二回の開戦日にして 東学派は唯一の金城鉄壁たる白山(※古阜北:扶安郡白山面龍渓里に白山城がある)の深渓に拠守して 官兵は暗夜三更大挙して敵の要勝を突かんとせり は如何に勇気を損ねけん 又別の奇計を存じけん 官兵に逐(お)はるる儘に十数町を逃走せり 官兵の衆は機失ふべからずとて図に乗り追尾すること愈々急なるの時 東学派は果たして計策のありたるものと見え 左右及び後部の三方より吶喊蹶起 不意に進撃なし来たり 敗走の真似したる一隊亦た引き返し 官兵今は四方を囲繞せられ いかで周章狼狽せらるべき、いかで恐惶躊躇せざるべき、顔色宛(さなが)ら土の如く其状恰も嚢裏(のうり)の鼠の如く 如何とも詮術なく 敵の為に散々に切り立てられ 崩乱の余(あまり)か同士打ちなども少なからず 死傷実に二百数十人に及び 官兵の挫折、東学の勇気さこそと思ふ許(ばか)りなりしと云ふ (未完)