08年07月28日
海南新聞
老馬新聞

明治27年05月19日 雑報

●古阜の民乱 征討師出づ

朝鮮全羅道古阜以下 興徳 羅州 恭仁 高敞 扶安 等諸邑聯合して 大民乱起こり 曩に宣撫使を派して嘵諭(きょうゆ)退散せしめたれども 毫も服従の色なきのみか 此の一揆を煽起して之が操縦進退の柄を握るものは東学党の一派なるを以て その勢威は日増しに猖獗を加へ 遂に古阜の県官を捉へて之を火殺したる等 其凶△は既に極度に達したるを以て 政府も最早撫諭の効なきを認めて遂に出兵征討に決し 洪兵使(在義今は改めて△△と云ふ 昨年(※1893<明治26>年)東学党蜂起の節 兵を卒ひて忠州迄出張したる人)を 両南招討使と為し 新軍壮衛営の兵隊八百人を発送し 海路より進ましむる事に定め 洪兵使は右八百の兵を卒ひ 大砲二門を挽き 弾薬六十余万発を備へて 去る七日仁川を下り船中兵隊の食用として麺包(ぱん)二千斤を大仏亭に注文する等 進軍の用意全く了りて 翌八日を以て八百人の兵員を三分し 内三百人を支那軍艦平遠号に、四百人を転運署汽船蒼龍号に 二百人を漢陽号に積載し 同日午后三時頃 三艦相前後して仁川港を解纜し 忠清道さして進航したれば 同所より上陸進軍の手配りと見へたり

●忠清道の東学党

全羅道古阜の騒乱と同時に 忠清道に於ても亦た東学の一派蜂起し来たり 現に清州は渠等(かれら)の為に取り囲まれ 州の兵使は之を鎮撫せんと務むれども 制令毫も行はれず 此旨啓聞に達せしかば 早速先頃まで巨文島の僉使たりし趙義聞氏を抜擢し清州の営将に任ぜられ 氏は命を奉じ出発する由

●西学党も復た起る

西学党も復た忠清各所に勃興し 暗々平素抱負する所を逞しふせんとて勢ひ旺んなりとの報あり

●金海府の一揆

慶尚道金海府下の民 大凡八千 大挙して府城を襲ひ府使を追放し属吏を禁獄し 以て観察官の明判を請はんとす、古阜の民乱、忠清の西学党、而して茲に又該府の一揆、 南道の形勢 何ぞ一時に紛擾を極むる其れ斯くの如くなる歟(か) と言ふ者あり

●流伝紛々

交通便なきの地 虚か実か 素より判断に苦しまざるを得ずと雖も 古阜の民乱に関する流伝頗る紛々 その一二を示せば 曰く
木浦に寄集せる貢米の幾分は賊の為に掠奪されたりと曰く(以下 本文略)

●金玉均の足
(本文略)