08年07月24日
海南新聞
老馬新聞

明治27年01月12日 ●朝鮮通信(一月六日発)
在仁川 青山好恵報

◎開城府の不穏 
(開城府内六十余村の人民数千人の暴起を報じ)・・・何が故に不意にも東学党の暴挙にも尚ほ及ばざるの大暴挙に出でしや原因を探るに・・・(略)
明治27年02月18日  ●後備兵の招集
本年広島県に於て開く大演習のため 当第二十二連隊に於ては近日陸軍後備兵を召集する筈なりと 
明治27年2月23日   ●韓人 日本人を虐殺す
朝鮮開城府にて仁川より 貸金八百文計り取立ての為め赴き居りたる本県人赤瀬由吉(嘉永六年生)は 如何なる間違なりしか 去る十三日の夜 韓人等の為めに瓦石を以て無残に打ち殺され 同時に同所に行商をなし居りたる加来太蔵氏にも害を加へんとしたるを 辛くも京城に逃れ帰れりと ・・・・風説に依れば赤瀬は途中にて犬に吠えられ怒て刀を抜きて犬を追ふて在る人家に入りたるを 韓人がこれを止めんとするとき 誤て其者に創を付けたるにより事起こりたりと云ふ(略)
 明治27年3月31日 ●金玉均殺さる 
 明治27年3月31日 ●朝鮮通信(三月廿四日発)
在仁川 青山好恵報

◎黄州の大民乱
・・・全牧使某 非常の暴政を施したる為め民怨を招きて遂に其職を罷められ 代わりて来任せる新牧使某は定めて仁治を敷くならんと思ひの外 是も程なく虐政暴動を行ひたるにより 百姓遂に忍ぶこと能はずして 去る韓暦正月廿七日七八千党をなして 牧使の庁を襲ひ 或は感謝に火を放ち・・・(略)
 明治27年4月1日 ●朴永孝 亦殺されんとせり
( 略)
●金玉均氏
同氏が殺されしことは前号に記せしが・・・ (略)
明治27年4月3日  ●金朴暗殺事件
(一面を費やして詳細に報道 略)
 明治27年4月5日  ●朝鮮刺客 金朴事件
(詳細な続報 略)
 明治27年4月6日 ●朝鮮刺客事件
(続報 略) 
 明治27年4月7日  ●金玉均の遺文
(詳細な続報 略)
 明治27年4月8日 ●金玉均暗殺事件の確報
(詳細な続報 略) 
 明治27年4月10日 ●金玉均暗殺の詳報(北清毎日新聞抄訳承前) 
(略)
●金玉均の遺文(承前)
(略) 
 明治27年4月11日  ●金玉均の遺文(承前)
(略)
 明治27年4月15日 ●金玉均氏の遺体、洪鍾宇
去る十一日上海より或方へも電報に曰く 均玉均氏銃殺事件は当地にて裁判せず金氏の遺体並に凶手洪鍾宇とも清国軍艦にて朝鮮に護送せられたり
●又
(略 同様の記事)

●朝鮮近報(四月一日仁川特発)

金玉均氏の被害と韓廷
去月三十日金玉均氏同行者洪鍾宇の為め 上海旅舎に殺されたるの飛報達するや 閔家の面々喜悦斜めならず 早速洪を兵使の重官に取立つべしとの宣旨を申し下し (以下略)

韓人の内意外相
閔泳駿氏が幕下数十名を集めて三十日夜祝宴に徹夜したりしは如何に金氏の死を悦べるかを知るに足るなり (以下略)
 明治27年4月28日 ●玉均の屍体諸兄の真景(朝鮮通信)
金玉均の屍体及び洪鍾宇は孰れも楊花津より上陸し 洪鍾宇は南大門より直ちに入京し 洪並に趙義淵以下出迎の一行は 悉く龍山より上陸し 玉均の屍体のみ 去る十三日午后二時頃楊花津に於て汽船漢陽号より陸揚げし その翌十四日午後八時を合図として死体を六断(むつざき)の刑罰に処したり 左にその前後の真景を詳報せん
○当日の見物人 (本文略)
○警備厳重 (本文略)
○梟首の模様 (本文略)
○其屍体及付従品 屍体は既に十七八日を経過し殊に頃日来非常の暖気に際したる為めか 皮を剥ぎたる豚の如く全く膨張して灰色に変じ臭気鼻を撲ち堪ふべからず (以下の本文略)

●暗殺奨励
(釜山在住の日本人が洪鍾宇のために義捐金を募り 彼の暗殺の勲労報いようとする動きがあることを伝えているが 本文略)
明治27年4月29日   ●玉均の屍体処刑の真景(承前)

○処刑後の処分 (本文略)
○屍体処分の廟義 (本文略)
○帰後の洪鍾宇 (本文略)