18951203
 
明治28年
12月3日
 
●朝鮮守備隊の帰松

後備歩兵独立第十九大隊朝鮮守備隊の松本大尉以下九十六名は昨日午后五時敦賀丸にて三津ヶ浜に帰船 夫れより直ちに帰松せし筈なり(此事は昨日午前号外を発し松山市及び付近村の読者には予報せしものなり)

 19851204  明治28年
12月4日
●朝鮮守備隊の帰松

後備歩兵独立第十九大隊の朝鮮守備隊大尉松木正保氏以下九十六名帰松の事は前号に記せしが 尚其詳細を記さんに 一昨日午後七時汽船敦賀丸にて三津ヶ浜に上陸し 十時過汽車に乗り帰松 三津口停車場に下車し 松本大尉及び楠野少尉は魚町大岩方に投宿し 兵卒一同は大林寺に入れり 軍隊歓迎として三津ヶ浜に赴きしは 立見将軍以下将校、小牧知事、県属、県会議員、歓迎委員紳士紳商、諸会社役員、松山同郷会員、松山高等小学校四年生、松山河原町楽隊等なり 三津ヶ浜にては三津有志者より 軍隊の上陸中 煙火を打揚げたり 通ひ船は水上警察船伝馬船等にて 伝馬船よりは流星を放ちぬ 又三津口停車場まで歓迎せしは 本県尋常師範(学校及び尋常)中学校生徒 松山高等小学校男学生其他 各町有志数百名なりき 三津ケ浜町及び松山市にては一昨日昼は国旗 夜は提灯を掲げ これを歓迎し中々盛況なりき

●後備兵の賜金

今の制度に依れば現役三年の期満ち 予備に入りてより以後の四年間に於て 農工商業等自活の道に就き 一家を構ふるを以て 其後備に編入せられたる時は 已に人の夫となり父となり 妻子 弟妹 老親の如き 一に其戸主たる後備籍に在るもの丶給養を受くるを常とすれば 今回の戦役の如き 其本人に在りては 臣民の本務として奉公するも 召集中の給与は現役者よりは更に小額なれば 其家族なるものは 卒然一家生計の道を失はざるを得ず 但し是等の事情の為めに  恤兵の法 備はらざるにあらず と雖ども 国家亦黙過すげからずとの議 其筋に起こりたるとは 夙に聞く所なるが 愈々 今回 後備兵一名に付き一個月三円の割合を以て其服役の月数に准じ 臨時軍事費中より下賜せらる丶ことに内定したるやに取沙汰す 

●師範中学両校生徒の衝突

一昨日二日午后十時過の事なりとか 本県尋常師範学校及び尋常中学校の生徒は何れも後備第十九大隊朝鮮守備隊帰着に付き 歓迎として三津口停車場に赴き其帰途 萱町の入口に於て 如何なる原因にや 両校生徒が喧嘩を始め 田面の土地取りて投げ合い 容易ならぬ事に至らんとする有様なりしが 教員及び松山警察署長林公平氏巡査数名等之を取鎮めたりといふ
 19851211 明治28年
12月11日 
●朝鮮事件八拾余万円

昨年五月朝鮮東学党暴動事件は一変して日、韓、清三国の交渉事件となり 再転して 日清の大戦争となれり 此事起りし以来 我政府が朝鮮事件費として支出したる度数を既に二十回にして その金額は八拾参萬九百四拾七円拾四銭六厘なり 此金は軍事以外即ち日、韓、清三国の交渉事件及び該事件以来の朝鮮事件に要したる費途に支出したるものにして其内訳左の如し(略)

●朝鮮守備隊の帰営

朝鮮守備隊の後備歩兵独立第十九大隊長森戸少佐以下三百三十名 台△(湾?)丸に乗り昨日正午仁川発宇品を経て三津ヶ浜へ向け出帆する旨 其筋へ電報あり

 ●朝鮮守備隊の帰営

朝鮮守備隊なる歩兵第十九大隊森戸少佐以下三百十一名は昨日午后△時台△(湾?)丸にて三津ヶ浜に着 直ちに上陸し 仮営なる松山萱町、公会堂並に宮古町大林寺に入△る筈なり 其詳細の景況は次号に掲げん
 19851218 明治28年
12月18日 
●解隊兵士歓迎の模様

後備第十九大隊第一中隊は去る九日解隊されたるに付き 喜多郡奥山筋へ帰村するもの二名あり 一を五十崎村の中野道顕氏とし一を御祓(みそぎ)村の清水忠蔵氏とす 尚ほ明治廿四年入営せし近衛兵満穂(みつほ)村の山本藤蔵氏も東京に於て解隊され 其帰途松山に立ち寄る 

即ち右の三氏は九日歓迎委員岡田氏に迎へられ即日松山を出発せり 

仝日は中山に一泊せしが 歓迎者御祓村より十名 五十崎村及満穂村より各数十名此所に出迎へ居りたりと 

翌十日中山出発 立川には満穂村の歓迎者数十名あり 山本藤蔵氏は此より分袂(ぶんぺい)帰村す

内子町には五十崎村より百名 御祓村より五十名の出迎へあり 行く行く天神村等にて 又三百名程の歓迎人に迎へられ 各々目出度く帰宅せり

就いては同夜 御祓村々長季羽繁氏外五十余名発起となり 清水忠蔵氏の為めに慰労会を開き盛会を極めたりと


18951221   明治28年
12月21日
 ●凱旋軍人歓迎委員会

宇和島地方より出身せし軍人にして 朝鮮守備隊 又は台湾征討軍に従ひ居りし人々の不日同地方に向つて凱旋する者を盛大に歓迎せんため 去る十九日仝地の有志者及び曩に戦場より帰りし軍人を迎ふる際に選ばれ居たる委員一同は 丸の内公会堂に於て一昨日其歓迎方法に付協議したりと


08年07月20日 日曜日
海南新聞
1895(明治28)年
12月3~21日
老馬新聞