2008年3月18日
海南新聞
1895(明治28)年
4月5日(5244号)
老馬新聞

1895(明治28)年4月5日
●東徒討伐報告 三月三十一日午后八時八分発 同月同日同八時五十分釜山発 四月一日午前二時二十分着電報に曰く

昨三十日午前八時海州の西方康翕(こうきゅう)、瓮津(おうじん)の両所に屯在せる黄海道の残賊を海岸へ圧迫する目的を以て 予備隊の一部は 松禾(しょうか)、長淵より首部は文化、信川より 斉藤少尉は載寧、△倉、海州より攻撃するため各守備地を出発せしむ旨 熊谷中佐より報告ありしに 今三十一日同官の再報によれば 斉藤少尉は命令の進路を取り 本日十時ショクガムラを経て凡そ五六町前進せしに 散開せる東徒の射撃を受く 依て一分隊を右翼に廻し 本隊は本道を進む 賊は逐次退却して五ヶ所に別れ 高山に登り防御す 此地 険峻防御に適す故に攻撃を為すも頑固として動かず 依て尚ほ一分隊を左翼の山に廻し攻撃せしむ 漸々退却して右方の最高山に拠り防御す 茲に於て 全く賊の陣地を占領し遂に撃退 賊散乱して潰走す 我陣地と賊の最後の陣地の山谷に「ショウオンジ」と云ふ寺あり 即ち賊の本拠地にして之れに貯ふる米穀凡そ二百石あり 而して運搬困難のため悉皆焼き棄てたり 賊は凡そ千五百名許 死傷未詳なるも 約四十名なりと、
但し松禾、長淵及び文化、信川より進めし部隊は未だ報告なし

   仁川 高井兵站監
同乗兵站総監