2008年3月18日
海南新聞
1895(明治28)年
1月27日
老馬新聞

1895(明治28)年1月16日

●病死兵 北宇和郡明治村大字松丸の歩兵第2連隊陸軍歩兵二等卒谷口長太郎氏は朝鮮義州にて病気に罹り爾後同地の陸軍病院にて治療中なりしが去る二日病死したり 又た南宇和郡西外海村の歩兵2等卒猪野利三郎氏は京城にて病に犯され広島陸軍予備病院にて療養中此の程死亡したりと
●南北宇和郡に於ける死亡兵数 南北宇和郡内における海陸軍兵にして従軍中死亡せしものは一昨日までの総員二十二名なりと

1895(明治28)年1月27日
●東徒鎮圧公報
<釜>山に於ける兵站兼碇泊場司令官今橋少佐より全羅南部東徒鎮圧の報告至れり □後二通左に之を録す  


東徒鎮圧の報告 (第一)

去月三十日当釜山発全羅南部へ派遣し(たる)第四中隊長鈴木大尉より別紙の報告昨夜<到着>せり (二)別紙の報告は去る八日順天府を□□たるものなり

明治廿八年一月十四日釜山に於て
                            兵站権碇泊場司令官今橋少佐
川上兵站総監殿
(別紙)報 告
明治廿七年十二月三十日釜山平坦地を出<発>、昌原、鎮海を経て三邑谷に至るの<間、報>告すべき件なし

一月三日泥陽に着し 爰に始めて東徒の情<況を>を知ると得たり 曰く 東徒凡そ七百名'蟾湖右岸河東府の正西に屯集 今や特に河東府□□入せんとするの情あり 且同江の上流は求□に 下流は同江口高浦に至るの間猶数多の□ 散在せり 河東府は韓兵約一千名を駐在せ□ 其防禦の策を講じ 我が軍の到るを鶴首して<待て>りと云ふ

同四日 河東府に着し府使及び其他の人々□□親しく同地の状況を質せしに 彼れの曰く 凡そ廿日以前より 韓兵約四百名当府に屯集 東徒の来襲を防ぎつ丶在りしも未だ一戦を□□さず 然りと雖も進んで攻撃する勇気なく 荏□□過の折柄 日本軍即ち貴隊の当府に向はる<る>を聞き俄かに勢を得て昨三日蟾湖江を河東の□流四里に於て対岸に渡り今や山を焼き民家を払ひ同江に向ひ該徒掃攘に着手せり

□同月五日 藤坂少尉の率ゆる一小隊に韓兵□十名(我軍出迎として河東府に来りたる左<水>営)を付し 蟾湖江右岸の的を同湖高浦に□ひ撃退せしめ 他の二小隊は 本官之を率ゐ蟾<湖>駅に向かひたり 然るに抵抗する一漢なく午後□駅に着したり 

藤坂少尉は高浦付近に於て二□の東徒に出会したり 彼れ逸早く遁走せしを□て終に一弾をも発せずして蟾居駅へ帰着せ<り> 途中民家村落等は韓兵悉く之れに放火せ<り>(放火の件に就いては該朝鮮兵長官に対し厳<し>く忠告し 今後放火するもとあらば斬罪に処<す>べしとの令を出さしむるに至れり) 

蟾居駅<に>帰着するや 韓兵は近村の人民を召集し一々之を糾問し左の処刑をなしたり

一 都接主 金以甲 (斬首)
一 二十七名 (砲殺)
※「砲殺」は「銃殺」のことのようだ。たとえば「伊藤博文砲殺事件」などの用例あり。
http://100.empas.com/dicsearch/pentry.html?i=258890

之外 数十名の捕縛者あるも罪の有無未だ詳<つまびらかな>らず

(五)同月六日 韓兵と共に蟾居駅を発して光陽<に>向ひたり 其途 斐陽居を過ぐる際 該村民等は東徒第二の巨魁都執綱 丁洪燮を捕獲せりとて 之れを路上に荷へり 然るに打創刀創等を受け将に絶命に瀕し 軍にも施すに術なく 依て韓法に依り斬首せしむ 而して尚進んで高陽府に到れば 彼東徒は曩に我軍の向ふを聞き既に韓暦七日を以て解散せりと 而して府民は官吏と協力して残徒を捕へ 左の処刑をなせり

一 嶺湖大接主 王金溝(梟首)
一 嶺湖首接主順天 劉夏徳(梟首)
一 沙谷接主 韓君夾(砲殺)
一 玉龍接主 徐允若兄弟(砲殺)
一 仁徳接主 朴治西(仝上)
一 光陽順天首接主 金一植(仝上)
一 鳳岡接主(仝上)
一 仁徳接主 成石阿(仝上)
一 月浦接主 金明淑(仝上)
一 順天西面接主 金哥(仝上)
一 牛蔵徒党 李旦簾(仝上)
一 順天西面 黄在淑(仝上)
一 外七十八名(砲殺)

(六)七日左水営兵と共に光陽を発し順店に向ひしも 亦一漢の敵すべきものなく 午後該府に到着せり 当府屯集の東徒も光陽の東徒と同日を以て解散し その大部分は長興及興陽地陽に退却せしもの丶如し 当府民も亦官吏は協力し残とを捕へ左の処刑をなせり

一 嶺湖都執綱隻岩面 鄭慮炯 
一 省察権柄宅
以上 砲殺
一 四面接主 金永九
一 別良面接主 金友永
一 月登面接主 南正日
以上 梟首
名不知者打殺 九十七名
囚徒数十名

(七)第十九大隊は未だ当地方に来らず 其所在も亦分明ならず

(八)糧食、韓銭、人夫等はすべて好都合なり

(九)患者の景況は雇医の報告あると以て略す

右及報告<報告に及び>候
一月八日全羅道順天府に於て
中隊長陸軍歩兵大尉鈴木安民

【鈴木大尉が登場するサイト・・・かなり下の方です】
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/062/resi069.html
大隊長陸軍歩兵少佐今橋知勝殿


東徒鎮圧の報告   (第二)

全羅道南部派遣の第四中隊鈴木大尉より別紙の報告本日到着せり 此報告は去る九日楽安郡より発したるものなり

一月十六日釜山に於て
  兵站兼停泊場司令官今橋少佐
川上兵站総監殿

(別紙)報告
(一)昨八日日本軍人凡そ三百名光陽府に来れりとの報を得 直ちに斥候を派遣したるも 京城発韓兵の到りし誤聞なりしを知れり、而して同兵は
第十九大隊と全州府に於て別れたるもの(同隊は羅州に到り駐在の筈)にして尚ほ二三日を経るにあらざれば順天に来らざる模様なり
(二)本日午後楽安郡より順天府に達したる公文に拠れば 順天退却の東徒目下長興府に侵入し同府使夫婦及び僚族若干名を害し 頗る横行を極め居れり
(三)昨八日楽安郡より達したる公文其他の状況により本日順天府を発し午後楽安郡に到着の処 営郡は静穏なり、着後羅州府に向け
第十九大隊へ当隊の進軍を通報せり

明治廿八年一月九日全羅道楽安郡にて
 陸軍歩兵大尉鈴木安民
陸軍歩兵少佐今橋知勝殿