2008年1月6日
海南新聞
1909(明治42)年
3月18日

伊藤博文、道後公園に於ける演説のなかで自分の先祖が伊予の出身、村上氏の末流であることを語る


1909年3月18日

伊藤統監の演説
16日道後公園歓迎会の席上演説要領

※コピー作成が不適正で読み取れない部分がある。後日補筆する予定である。( )内は推定。ー忘暮楼ー


 ○○、此頃小閑を偸み微恙を療せんと欲し○○道後の温泉に浴する為め当地へ参りたる処 図らざりき 本県有志諸君が斯の如き(盛)大なる歓迎の宴を催され温情一身に溢る(るが)如きの厚意を呈せられたるに対しては(諸)君に謝するの言辞を発見する能はず 

 殊に○今は本官を歓迎せらる丶に一篇の大文章(を)以てせられたるに就ては咄嗟の間充分に(諸)君の厚意に感謝する能はざるも予が胸中にては満腔の熱血を以て御礼申す次第な(り) 

 蓋し其文中に於て本官が国家に対し微力を致したる事を御賞賛を蒙りたるも自ら量(る)に此賛辞に対しては敢て当らざる所なり ○より本官が国事に就て奔走したる幼年の○○の事にして 本年にて既に五十年○○に達せり 

 此間に於ける種々なり変遷は(定)めし諸君の熟知せらる丶所なれば詳しく(茲)に述ぶるの必要なし 人生世に処する必ず功過二字あり 予は自ら其過あることも決して之を掩はざる考へなり 然るに諸君の寛仁○篤なる 其過を論ぜずして其功を録せらる(る)は 顧みて慙愧の至りに堪えず

 目下は職を(奉)じて韓国にあり 自ら顧みるに既に老朽重(責)に堪えざるの身を以て 僅に○葵(の)誠を尽くすに過ぎざるが故に 或は木に縁て(魚)を求むるの讒りを免れざるげきも 唯君命の在る所を服膺して 以て僅に今日を補ふに過ぎず 韓国の事情は時間の許さ丶゛る所なるを以て爰に陳述を省くべし

 予の祖先は当国より出でたる者にて 伊予には予と同じく河野氏の末流多しと存ずるが 予の祖先は三百年以前に於て戦敗の結果 河野一族の滅亡と共に中国へ移りたる者は
通起と称し慶長十六年に死没したるが故に 明年にて恰も三百年に相当す 彼は林淡路守通起と称し予は其れより十一代目に当れり 
 
 通起は戦敗の余毛利氏に依頼したるも 毛利氏も当時敗軍に属し頗る艱難を極めたる時なるが故に 遂に村落に埋没落魄して 真に僻遠なる寒村に居住し 其子孫此処に存続していまや一族六十余軒を算するに至れり 予も即ち其一人にして 明年を以て七十に達するが故に 恰も周防に移りたる通起の死後二百三十年に出生したるものなり 

 予が父母に擁せられて萩の城下に出でたるは僅に八歳の時にして 爾来幾多の変遷を経て今日に及べり 近来家系のことについて当国の諸君が頗る調査に尽力せられたる結果 周防移住以前の事績大に明確となりたれば 明年は周防において親族を集め 通起の為めに三百回忌を営む心算なり 

 今次当地に於ては諸君が頗る厚意を以て来遊を歓迎せられたるは右の縁故に基くものとして予は殊更に諸君に対して感謝の意を表する次第なり

 顧ふに古来成敗の跡に就て考ふれば 予が祖先は当国より出でたるものなれば 当国は即ち祖先の故郷なり いまや祖先の故郷に来りて斯くの如く熱誠なる諸君の歓迎を受く 胸中万感を惹かざるを得ず 加之
(シカノミナラズ)今日は諸君が我過失を論ぜずして唯々微功を録せられたるに至ては深く諸君の厚意を心に銘して忘却せず

 古人の言に 錦衣帰郷 の語あり 予は錦を衣て当地に帰りたつには非ず 当地に来て諸君より予が一身に錦を衣せられたるが如き感あり 茲に満腔の熱誠を以て一言お礼を申上ぐ <<拍手喝采>>


雑報
〜〜〜〜
●統監滞在彙報
 ▲諸星道後に集る・・・・
 ▲三島宮司来る
 ▲淀艦去る・・・
 ▲大三島行決定・・・二十一日出発と決定・・・
 ▲重要物産供覧・・・
 ▲歓迎運動会・・・
 ▲十七日の公・・・
 ▲公と霊の湯の温度・・・
 ▲古谷綱紀氏

統監の艦艇眼・・・

老馬新聞