2007年8月2日
海南新聞
1909(明治42)年
3月16日

1909(明治42)年3月16日
雑報
伊藤統監来着余聞

▲統監風
 去三十九年伊藤公の高浜に入港するや折柄烈風吹き荒びて歓迎船を翻弄し軍艦と汽船との接触に多大の困難を感ぜしが今回も亦伊藤公の三津浜に来港するや折柄天気晴朗なるに不拘前回同様烈風吹き荒びて出迎へたる愛媛丸は殆んど潮を浴びるの困難を極めたり其れより誰云ふとなく之を統監風と称し畏る丶も亦愛嬌ならずや
▲統監晴 十三日以前は毎日打続き降雨にて頗る鬱陶敷天気なりしが十四日以来晴に晴れて恰好なる春日和となりたり松山童之を称して統監晴と云ふ
▲藤公の風采 頭に統監帽を頂身には黒羅紗の外套を纏ひマニラの葉巻を燻らして悠然迫らざる所頗る人意を強ふするが如し顎下の長髯は半黒にして殆んど前年と異ならざれ共頭髪の白きを加へたるは流石に其の労苦も偲ばる丶心地ぞすなる
▲三津駅の設備 三津浜町に於ては統監の休憩所に充てるべく三津駅の待合所には幔幕を張り仝プラットホームには玉川席玉子、西新○亭末吉の二妓を侍さしめ椅子、茶菓等の設けありたるが統監は腕車を下るや直に待設けたる貴賓車に乗り移りたれば之等設備の徒労に属したるは気の毒なり
▲一行と玉子 茶菓の給仕として三津駅に侍りし玉川席玉子(十六)は客年十月ごろ迄朝鮮京城晴霞亭に於て芸名玉子と名乗り這回の統監一行諸氏には殊の外愛顧を蒙りし者の由なり
▲茶菓贈呈 松山市の中野歌次郎、阪本虎吉の両氏は統監の旅情を慰する為め歌詞を贈呈せりと
▲新調桟橋 統監上陸の便を計り三津浜港内に新調せし仮桟橋は長サ七間幅一間にして伝馬船三艘を横並べと為し其上に架設する計画なりしも当日は折悪しく風波劇くして船と船とのつなぎ目折合あしかりし故伝馬船一層を竪着となして仮桟橋を架設せしも折柄干潮なりし為め第一愛媛丸渓流運稍や困難を来せりと
▲三津の消防夫 統監来着の当日十四日は午前中より仝待ち消防夫総掛りにて通行路筋及埠頭場の掃除に従事し午後は各所に配置して万一を警戒し居り
▲手荷物の運搬 統監上陸に先だちて同一行の小荷物運送船着するや埠頭場に待構へたる五十二銀行仲仕組は直ちに之を四輌の荷車に積み込み滞りなく三津駅へ迅速に運搬せしは一際、眼だちて見えたり而して其小荷物は総数五十七個にして中には多数の飲食物もある様なり
▲警察の警戒 三津、松山、道後の各警察署に於ては諸般の準備行届き居りし為め投函上陸の際並に汽車中、鮒屋投宿に到る迄一つの警察事故を見ざりしとの事
▲汽車中の統監 は多く語らず安藤知事、井上鉄道社長、古谷秘書官、村田少将、小山技師、山内中佐、西久保、脇田、竹井の各事務官等と室を同じうし絶えずマニラを吹かし居たるが古町駅に着するや師範学校男女生徒及び各学校長、有志等の生前として出迎へ居るを見るや頭を車窓外に出して一々挙手の答礼をなし居たり斯くて汽車木屋町駅付近を通過するの際左に山越山露国将卒の墳墓を眺め右に巍然たる勝山城を望みつ丶之を指して前年来遊の時のことなど打語れり
▲先ず一浴 統監は道後鮒屋に着するや先和服に着替えつ丶夕餐をも認めずして村田少将が只一人立出でしに続いて自分も一浴を試むべしと絣の綿入羽織に中折帽子を戴き左手にマニラ、右にステッキを持ち以前より知遇を受けし柿木原典獄と同道にて旅館を立出で霊の湯に入りしが当市の老妓お信が浴衣を携へて其後に従ひし外は誰も余り之を知らざるもの丶如かりし
▲鮒屋の設備 鮒屋旅館にては主人の苦心に成れる装飾、設備到らざる無く掛物、額、屏風、窓掛覆ひ、花電燈等善美を尽し殊に統監居室は床の間に狩野三楽作軸物をかけ左右花鳥の二幅を挟み中央布袋の画を配し額は小松宮彰仁殿下の御親筆を奉掲し又二叟六枚折の金屏風は見事はる珍品にて狩野法眼の薄墨山水景はりつぎに村田少将の居室は統監室の直下十畳敷に法橋光琳作三幅対懸り古谷秘書官室は裏二階八畳にて坐駒作富士山及び山桜の軸物又た長三州書屏風等観るべきもの多し其他の随員にも夫々室の配合ありて番号を以てこれを記せば左の如し
一号((統監居間))二号((控室))三号((統監寝室))四号((控室))五号((憲兵室))六号((小林、瀬戸両氏室))七号((古谷秘書官室))八号((小山技師室))九号((神保属室))十四号((村田少将室))外に数室((来客控室))


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