2007年8月2日
海南新聞
1909(明治42)年
3月16日

1909(明治42)年3月16日
論説
統監を歓迎す

 1909(明治42)年3月16日 論説 統監を歓迎す  統監伊藤博文公には十四日午後六時、道後に安着し当分此処に静養せらる丶こと丶なれり。統監は素と微賎より身を起したりと雖も維新の鴻業に参与して克く国運の発展を輔け、常に、陛下の股肱として内外重要の政務を全ふし、日清日露の両役を経て韓国の愈々吾が保護下に属するや公は則ち選ばれて統監の重職に就き、今や韓国皇太子殿下の大師となり殿下の尊号を允され火と呼んで公を韓国副王と称するに至る、位人臣を極め栄華余りありて而も、陛下の信任愈々益々加はるが如し、嗟吁、公も亦一世の快男児、否千古の英雄なる哉。  公、嚮(さき)に<<明治三十九年十二月>>一度、道後に来遊し温泉に入浴するや頗る其の身に適したるものあるを以て窃かに再遊の意ありと聞きしが果然今相の事実となりて現はれ、吾人は再び茲に伊藤統監を迎ふるの機会に接するを得たり、今日松山市が中心となりて近隣の郡村之に合併し文武官民を挙げて一同の下に統監歓迎会を開くは頗る吾人の意を得たる所にして公と吾々愛媛県民との因縁を結ぶこと浅からざるを寧ろ奇とすべし  

然れども吾々県民が公を歓迎するは決して顕門に媚びんが為めに非ず、又英雄崇拝の熱に浮きたるものにも非ず、吾人と雖も公の長短、得失、功罪等を批判する能力に於て敢て人後に落つるものに非ず、勿論人の長短得失は天性なりと雖も、而も其れ等の理屈を以て伊藤公を議せんとするは寧ろ児戯に類するの讒を免れず、仮令百の議論千の理屈ありとするも公の今回の来遊は愛媛県民として将に大いに歓迎し大いに感謝すべき理由あつて存す、吾読者諸君は恐らくは常識に於て之を首肯するに一人の異論者あらざるべし
 東洋の大宗教佛の本門は吾人に誨へて曰く『人は其の本能に於て本因たり佛は其の本能に於て本果たち而して其の融合帰一するものは本法たり』と、聞く統監は素と越智姓にして出にして其の元を訊せば伊予の人なりと、即ち統監、古谷直康秘書官、吾々共に与に同因同族たり、其因縁に於て当に本佛に融合し帰一同果すべきものなり、吾人は統監が本県に来遊するの偶然ならざるを想寧ろぶつの大法に従ひ此処に何物か
一生の大紀念を残されんことを希望し且つ切願するものなり。
統監閣下以て奈何と為す(誓月)