海南新聞韓国関係記事
2009年1月24日 土曜日
1894(明治27)年8月9日付 三面

●宿泊人数 去七月道後湯町宿屋へ宿泊せし旅人は他府県人男七百十一人女二百三十二人 県内人男四百〇二人女百三十三人

●道後色町の夏枯れ 米価の騰貴やら日清事件やらにて道後松ヶ枝町は夏枯れの姿にて去る七月中の登楼客は他府県人百五十四人 県人六百十一人なりと

●子を殺して従軍す 南予とのみにて其他はまったく聞き漏らしぬ 妻に死なれてまだ稚き男の子一人を貧しきうちに兎も角もして育つ丶 小作などして其の日々々を渡世する某ありけり 過る日後備兵召集の令を受けて早や出発の日も逼りたれど 如何にせん 一人の稚児託すべき親族もなきものから 兎そん角せんと唯だ心配に日を送る折柄 村の顔利きなる総代の某が入り来り 御身も今度は召集を受けたりと聞くに何時出発すべき心ぞ 早や期日にも間のなきものを遅々(ぐずぐず)して咎め受けん事 身の為なるまじ などたしなめられて 某は迷惑顔を為し お話の如くそれ某(それがし)も召集を受けたれば早々出発して男の一分た△べき筈なれども 旦那も御承知の通り私一人で育つる手足まとひの豚児見捨て丶行くに忍びず 如何せんかと今日までは日を送りぬ 此上とても 稚児を育つる人なければ出発せんに術を知らず 事情ひとえに御諒察を仰ぐのみ と涙を垂れて打ちしほる丶を聞く 総代は気の毒に思へど益々言葉を励まして声高く 夫れ従軍は公のことにして子の養育は私の事なり 山より高く海よりも深き皇恩を知るものは今日の国難に当り一私人の事情を放擲して義勇公に奉ずるの気を奮はざるべからず 思へば御同様に天下泰平国家安穏の幸福を受け 一家其の天命を全ふ(まっとう)するを得たるも皆な天恩の優渥(ゆうあく:恵みが行き届いていること)なるによるものを 今日の場合に立ちて遅々する事甚だ恐れ多きにあらずや と諄々として説き聞かすれば 某は殆ど感じ入つて見えたりしが 如何に思ひけん ツト起ちて奥の一間へ退きぬ ワット一声叫ぶ稚児の悶絶 こは何事ぞと総代は飛び込みて様子を見るに 早や息の根絶へたる稚児の屍(しがい)取り片寄せて立ち出づる某は
 涙をはらひつ丶総代に差し向ひ 今は心易し皇恩の高大なるを聞きては豚児の如き顧みるに遑(いとま)あらず イザ唯今より出発せんと死屍(しがい)を後園に仮埋めして 呆きるる総代の顔ヂロリと眺め悠々として松山の方へ出発せりとは 誰噂するとなく松山辺に云ひはやす処なり 愚直なる田舎人が極端より極端に走る性情 単純にして実に憐れむべきものあり

●子を棄て従軍す 松山市大字久保町三十九番戸加藤豊太郎は曩に離別したる女房に残し置かれたる三歳の稚児を男の手一ツで育て居りしが 原来(がんらい)貧困の身とて不自由勝なるを苦にし牛馬に等しき人力車夫となりて二人の口をカツカツ養ひ居りしに 今度予備召集令に預かりて遂に徴発せらる丶に至しかば 一人の稚児を如何とも詮方なく 己が屯営の近所に預け置きて 僅かばかりの渡り金に兎も角も養ひ居りぬ 然るに豊太郎は過日第二大隊に従ひ松山を出発せざるべからざるに至しかば今は愈々施すに策無くちぢに心をくだきし末 予て心易き近処の日雇稼ぎ人村上亀次郎方に預け置き心をあとに引く潮の波のまにまに四国の地を立ち去りぬ 然るに預けられたる村上亀次郎も其の日其の日の日稼人なるのみか己れの子さへ五人までありて日々の活計に窮し果てたる身の上なれば 今更預かりし他人の子を十分の養育なす訳にも行かず持てあまし居ると さるにても稚子はまだ東西もわきまえぬ子供心に一人の親を慕ひて まわらぬ口にチチ チチとたずねまわるを見るも気の毒のことなりと なん

*加藤豊太郎の子供に付ては後日談があって、8月18日付紙面に松山市榎町の材木商鈴木文吉氏がこの子供を養うとの申し出があり準備に入ったとの記事が出ている。