海南新聞韓国関係記事
2009年1月30日 金曜日
1909(明治42)年4月7日付海南新聞

※筆者注:
海南新聞は、この日「海外新領土の文運亦大に勃興せんとするの機に会しわが社は茲に見るところありて、本紙俳句欄の担任記者にして地方俳壇の驍将たる森田雷死久子を韓満の地に特派」するとの社告を出した。4月18日より「韓満膝栗毛 一〜五」「韓満俳行脚」「俳行脚旅袋」「朝鮮雑吟」などの俳文・俳句が掲載された。

森田雷死久参考サイト

4月18日付
●韓満膝栗毛 (一) 
(略 門司港の繁栄振り)

〜〜〜
韓国大邱より 十四日発 雷死久

(前略)小生等出立の際は御厚意有難奉感謝候 去る十三日午前九時釜山に付き 上陸後は或は徒歩 或は汽車にて本日漸く当地へ安着致候 貴説の如く韓国、殊に鉄道付近は到る処日本人移住せざるなく 随つて外国てふ感想は更に無之 唯僅かに白衣の韓人及亀甲の如き韓人の家屋を散見するのみに御座候 向後は奈何にや 尚御報可申上候(後略)

4月20日付
●韓満俳行脚 (第二信)  慶尚道金泉にて
「・・・この三浪津と密陽間は韓国農業の尤も発達したる地と聞て居たが、なる程 広漠たる土地は大陸的で一眸(いちぼう)際涯なく霞に包まれて 一畝の荒地なく麦作の盛んなること、遊惰の民の手よりなりたるものとは思はれぬ程である 規模の大なること日本の地に於て見ることができないと思ふた、密陽に着したるは一時半 駅にてパンを買ひ日本製の鮎の酢(すし)を喰ふ 三時半発の列車にて北行 大邱に達したる頃は既に点燈時 森や(松山の人)旅館に投宿す

●韓満膝栗毛 (二) 大邱にて 関釜船ボーイの向上
(略 韓釜船のボーイは上品で小奇麗 これも「統監政治の余波と見へる」 釜山上陸)

4月21日付
●韓満膝栗毛 (三) 大邱にて 内地米の可愛いて憎い仇敵(かたき)
釜山桟橋上陸後、間も無く一知己を訪問した、快談数次、軈(やが)て昼食の御馳走になった、チョイと一パイも戴く、其風味正に我がかちどき以上なり。飯の旨さ粘さ加減 是れ亦相徳、雄町以上なり。驚くべし 原料は皆朝鮮産米ならんとは。従来朝鮮米は其の農業幼稚にして疎放なりしため、生産額も少なければ品質も劣等で小石砂利の混合せしが特徴なりしといふも、農業知識の漸進と共に且つ周約に成り 産額、品質、市価 優に内国産米を凌駕圧倒するに至るは 識者を俟たずして炳(あきらか)である、内地米農者たるもの油断すべからず

4月22日
●韓満膝栗毛 (四) ハイカラ列車
京釜鉄道は諸君も御承知の通り 韓半島利源開拓 日韓連絡のため政治、軍事、実業的に我が政府たるもの我国民の忠愛心に訴へて迄其竣成を期したる縦貫鉄道である 右如何にも尤もな訳で聊か申分は無い 就ては其の設備の如き 時代的要求に伴ふた観るべき点も段々多い様だ 例へば軌道の広さ、客車の構造 迚も元の東海線や山鉄の類では無い 随分ハイカラなものだ、 が然し 肝心の物貨 旅客の量に至つては寂寂寥寥、恐らく石炭代も取れ兼ねるだろふ 況んや 近者 運賃値上げの結果 短距離を乗る韓民客と来たら全く零となり了つた。是れは例の世界的不景気の御仲間入の光栄を負ふた結果だらふが。然し 本来諸外国に向つて吾がエラサを衒(てら)ふ空威張のために資本入れが大仕掛け過ぎた不始末だろふ 散人曰く 咄(とつ)ハイカラ汽車

4月23日
俳行脚袋 
  平壌にて 雷死久

(略)大邱は慶尚道有数の農産物集散地にして観察使の居る所、四囲の城壁は既に取り去りて急激の発展をなして居る 二万に近き日本人は既に腰を据え 店頭盛んで新市を形つて居る、現今の地価一坪五円乃至六円の売買とは実に驚くの外はない、東門の市日は二の日 四の日(西門の市日は又別にあり)にして売買の活発なることは想像にも及ばない、某店石油の売れ高一日二千余円に下らずと云ふ (略)

4月24日付 朝鮮雑吟
(略)
    成歓駅古戦場
   (筆者注:日清戦争の戦場)
邱荒れて畑痩せて雲雀鳴(なか)ぬ成り
(略)