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光州学生独立運動 岩城錦子
1929(昭和4)年11月3日から翌年3月にかけて植民地朝鮮で最大規模の独立運動が戦われました。この戦いに積極的に参加した一人の日本人女学生がいました。愛媛県人で父親は宇和島出身の岩城錦子さんがその人です。ちょうど上甲米太郎が慶尚南道で普通学校で教育の民主化、自由化にとりくみ、プロレタリア教育に情熱を注いでいたころ、すぐ近くの全羅南道光州でも一人の少女が朝鮮の学生たちと共に米太郎と同じ希望を抱いて戦っていたのでした。

光州学生独立運動の簡単な年表と岩城錦子さんに治安維持法違反で懲役1年の刑に処した光州地方法院の判決理由です


上甲米太郎
<昭和5年11月ころ、逮捕直前に交わされた上甲米太郎と仲間たちの書簡<特高に押収されたもの>
    その1 その2
教育労働組合事件予審判決(昭和六年)
<事件の経過>
1  2  3  4  5  6  7  8  9
<判決本文>
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12



※ご存知と思いますが、写真の文字が小さくて見えにくいときは、カーソルを写真の上にしばらくおいておくと右下に四つの矢印のあるアイコンが現れますのでそれをクリックすると大きい(大きすぎますけど・・・)写真に変わります。

新興教育研究所事件再審判決 (昭和七年十一月二十八日)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14

メモ 08年08月30日 土曜日  「昆明」の項に上甲米太郎の簡単な紹介あり



2009年5月9日 20:19:11   和訳  「1894年日本軍中路軍の弾圧策と東学農民革命軍農民軍の対応


忠清日報 連載記事



2009年5月7日 16:29:30    
忠清日報 채길순   東学農民革命の現場を訪ねて 24  総合編

2009年5月7日 16:29:30    
忠清日報 채길순   東学農民革命の現場を訪ねて 23  牙山・唐津(アサン・タンジン)

2009年5月7日 16:29:30    
忠清日報 채길순   東学農民革命の現場を訪ねて 22  鎮川(チンチョン)

2009年5月7日 16:29:30    
忠清日報 채길순   東学農民革命の現場を訪ねて 21  懷德(フェドク)・鎭岑(チンジャム)・燕岐(ヨンギ)

2009年5月7日 9:56:50    
忠清日報 채길순   東学農民革命の現場を訪ねて 20  扶余(プヨ)

2009年5月6日 20:57:39    
忠清日報 채길순   東学農民革命の現場を訪ねて 19  論山(ノンサン)

2009年5月6日 2:24:14     
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 18 舒川(ソチョン)

2009年5月3日 9:05:25     
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 17 懷仁(フェイン)・文義(ムヌィ)

2009年5月1日 12:06:19    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 16 公州(コンジュ)

2009年4月29日 13:35:25    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 15 錦山(クムサン)

2009年4月27日 12:12:05   
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 14 忠州(チュンジュ)
                       ↑後備歩兵第十九大隊 出動
2009年4月26日 5:50:52    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 13 堤川(チェトン)
                       
2009年4月24日 10:58:06   
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 12 永同・黃澗(ヨンドン・ファンガン)

2009年4月23日 13:24:22   
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 11 沃川(オクチョン) 
                       ↑後備歩兵第十九大隊がはじめて実名で登場する。
2009年4月22日 13:16:31   
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 10 報恩(ポウム)

2009年4月21日 19:38:58    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 9 清州・清原(チョンジュ、チョンウォン)

2009年4月19日 7:25:38    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 8 天安(チョナン)

2009年4月18日 9:52:04    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 7 禮山(イェサン)

2009年4月17日 5:11:48    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 6 洪城(ホンソン)

2009年4月10日 11:19:05   
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 5 瑞山(ソサン)

2009年4月5日 21:17:14    
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 4 防葛里(パンガリ)

2009年3月29日 11:26:55   
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 3 陰城(ウムソン)

2009年3月14日 土曜日     
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 2 槐山(ケサン)

2009年3月12日 木曜日     
忠清日報 채길순  東学農民革命の現場を訪ねて 1 はじめに



海南新聞韓国関係記事


◆注 
「海南新聞韓国関係記事」と示してない項目は「年表日本歴史6」(筑摩書房)、「朝鮮半島近現代史年表・主要文書」(原書房)その他の文献からの引用です。

1930(昭和5)年から旧助羅の漁業従事者が韓国人だけなった(網元は日本人)金秀姫氏論文で魚島漁民を読む 5
1915(大正4)年 新浜村から莞島へ農業移民(『新編温泉郡誌』から)
1911(明治44)年 臨陂地域での水利工事完成した。轟博志氏論文 2 愛媛村の誕生
1911(明治44)年3月愛媛県内泊浦から三千浦に移住(第一陣)
1910(明治43)年から農業移民が始まった 轟博志氏論文『朝鮮における日本人農業移民』 1

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
1909(明治42)年10月26日 安重根、哈爾浜駅到着直後の伊藤博文を狙撃、射殺
1909(明治42)年9月1日  日本軍、湖南義兵に対する南韓大討伐開始

1909(明治42)年7月26日 日韓両国政府、韓国中央銀行に関する覚書調印
1909(明治42)年7月6日 閣議韓国併合の方針を決定

海南新聞韓国関係記事1909/06/18  新韓国統監の政策、暴徒征伐・鉄道新設が主柱
海南新聞韓国関係記事1909/06/17   樋口氏韓海漁場実測を終え帰松

海南新聞韓国関係記事1909/06/08   韓国咸鏡道で婦人が虎に襲われて死亡

1909(明治42)年6月7日 十三道倡義軍大将李麟栄、逮捕される

海南新聞韓国関係記事1909/06/06  三崎の遠海漁業家、免許出願の為めに渡韓 5/5参照

海南新聞韓国関係記事1909/06/01   韓国農業の現状

海南新聞韓国関係記事1909/05/30  魚島吉田磯 大漁続く

海南新聞韓国関係記事1909/05/28  伊藤統監 毀誉褒貶相半ば

海南新聞韓国関係記事1909/05/22~ 伊藤博文韓国統監 更迭

海南新聞韓国関係記事1909/05/20  朝鮮「暴徒征伐」臨時派遣軍について密議

海南新聞韓国関係記事1909/05/18  韓国中央銀行問題 伊藤博文朝鮮統監いよいよ更迭

海南新聞韓国関係記事1909/05/15  松山勧業協会が韓国団体視察計画

海南新聞韓国関係記事1909/05/09  魚島の鯛網豊漁

海南新聞韓国関係記事1909/05/05  愛媛県の韓海漁業根拠地経営方針決まる

海南新聞韓国関係記事1909/04/30  韓国漁業と清国 韓国沿海での新個人の漁業を禁止・取締り

海南新聞韓国関係記事1909/04/24  出漁連合会評議会予告 移住根拠地の件など付議

海南新聞韓国関係記事1909/04/24  北海道開拓移住者に渡韓希望者多し

海南新聞韓国関係記事1909/04/23  本県出漁組合 韓国漁業法、移住根拠地を協議

海南新聞韓国関係記事1909/04/21  東洋拓殖会社の漁業経営 一部は小作的に賃貸し

海南新聞韓国関係記事1909/04/18  「韓満膝栗毛」など、韓米の優秀さ、大邱の繁栄ぶり

海南新聞韓国関係記事1909/04/17  愛媛県の韓国移住根拠地に旧助羅など選定

海南新聞韓国関係記事1909/04/16  韓国産米 改良増収

海南新聞韓国関係記事1909/04/11  英人の韓国観 日本は韓国に対して吸血政策遂行か否か

海南新聞韓国関係記事1909/04/10   東洋拓殖会社活動開始 出漁連合会副長選挙

1909(明治42)年4月10日 霊南坂密議 桂首相、小村外相、伊藤統監など韓国併合方針を密議
海南新聞韓国関係記事1909/04/09  韓皇の親耕式 韓国皇室の動向が詳しく報道されている

海南新聞1909/04/09   
*参考記事 【四日越智郡桜井、二日三日同郡日高村、四日富田村、四日九和村、五日立花村、五日近見村、いづれも四阪島より煙毒来襲 「麦葉忽ち変じて赤褐色 又は灰色に化し所々に斑点を残して漸次枯死せんとするの前兆を呈し居れり」】 

海南新聞韓国関係記事1909/04/09  朝鮮海漁権獲得の競争 魚島から韓国漁業出願

海南新聞韓国関係記事1909/04/02  大阪の統監 伊藤統監松山訪問を顧みる

海南新聞韓国関係記事1909/03/27  愛媛県の漁業権と移住根拠地

海南新聞韓国関係記事1909/03/26  東洋拓殖会社の農業移民募集

海南新聞韓国関係記事1909/03/26  遠洋漁業奨励金

海南新聞韓国関係記事1909/03/26  明治41年末韓国在留邦人人口

海南新聞韓国関係記事1909/03/23  魚付林の荒廃

海南新聞韓国関係記事1909/03/21  韓海出漁中罹病または遭難せしを以て

海南新聞韓国関係記事1909/03/20 古谷秘書官を訪ふ

海南新聞韓国関係記事1909/03/20  越智同族会

海南新聞韓国関係記事1909/03/16  道後公園における伊藤統監の演説 

海南新聞韓国関係記事1909/03/18  統監政治の腐敗暴戻

海南新聞韓国関係記事1909/03/16  伊藤公来着詳報

海南新聞韓国関係記事1909/03/16  伊藤統監来着余聞

海南新聞韓国関係記事1909/03/16  統監今後の予定

海南新聞韓国関係記事1909/03/16  論説 統監を歓迎す

海南新聞韓国関係記事1909/03/14? 伊藤公歓迎準備 公の飲料水はどうするか

海南新聞韓国関係記事1909/03/12  模範漁業組合

海南新聞韓国関係記事1909/03/09  伊藤公愛媛来遊へ出発

海南新聞韓国関係記事1909/03/09  伊藤統監来県決定

海南新聞韓国関係記事1909/03/03  伊藤統監の来県確定

海南新聞韓国関係記事1909/03/03  永住的計画(明治42年年3月3日)

海南新聞韓国関係記事1909/03/02  1909(明治42)年 海外在留民数

海南新聞韓国関係記事1909/02/27  天皇の韓国情報

海南新聞韓国関係記事1909/02/28  韓国の大飢饉

海南新聞韓国関係記事1909/02/24  韓国の金属資源の収奪(明治42年2月24日~25日)

海南新聞韓国関係記事1909/02/16  韓皇、秀吉軍と戦った功労者後裔を表彰(明治42年2月16日~23日)

海南新聞韓国関係記事1909/02/12  土着を奨励すべし(明治42年2月12日)

海南新聞韓国関係記事1909/02/02  対韓方針一変(明治42年2月2日~13日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/30  釜山の松山人会(明治42年1月30日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/30  愛媛県の最初の移住漁村予定地(明治42年1月30日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/30  永久的兵営の建築(明治42年1月28日~30日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/20  韓海出漁者の船賃は3割引(明治42年1月20日~27日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/20  秋山少将が語る韓人暴徒の一背景(明治42年1月20日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/15  朝鮮人の耕作(明治42年1月15日~17日)

1904(明治37)年発刊「最新之韓半島」海南新聞主筆塩崎誓月著 「朝鮮沿岸の漁村」

海南新聞韓国関係記事1909/01/14  塩崎誓月氏「鴨緑江の筏」(明治42年1月14日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/13  満韓移住奨励(明治42年1月13日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/09  韓国皇帝の地方巡幸に天皇満足(明治42年1月9日~12日)

海南新聞韓国関係記事1909/01/01  秋山少将「諸強国との競争」を語る(明治42年1月1日~7日)

海南新聞韓国関係記事1908/12/23  韓人の礼儀正しさ(明治41年12月23日~27日)

海南新聞韓国関係記事1908/12/13  赤松泰苞氏渡韓中=記事13参照 (明治41年12月13日~20日)

海南新聞韓国関係記事1908/12/05  16人でベイリング海峡へ(明治41年12月5日~12日)

海南新聞韓国関係記事1908/11/18  東洋拓殖会社と韓国統治(明治41年11月18日~29日)

海南新聞韓国関係記事1908/11/12  韓海江華島に海賊数百蜂起(明治41年11月12日~18日)

海南新聞韓国関係記事1908/11/08  神松名村の韓海通漁者にコレラ病患者発生(明治41年11月8日~11日)

海南新聞韓国関係記事1908/11/07  韓国にあってカササギを知らず(明治41年11月7日)

海南新聞韓国関係記事1908/11/01  韓国人への侮蔑を振りまく(明治41年11月1日~6日)

海南新聞韓国関係記事1908/10/31  遠洋漁業奨励費予算大増額 (明治41年10月31日)

海南新聞韓国関係記事1908/10/25  今年三崎村から二十五戸が移住漁業に(明治41年10月25日~28日)

海南新聞韓国関係記事1908/10/22  京城(ソウル)上流日本人の乱痴気騒ぎ(明治41年10月22日~24日)

海南新聞韓国関係記事1908/10/16  韓国居留民団議員選挙で愛媛県人3名当選(明治41年10月16日~21)日


海南新聞韓国関係記事1908/10/11  興居島の小富士丸(明治41年10月11日~15日)

海南新聞韓国関係記事1908/09/29  遠海漁業補助申請相次ぐ(明治41年9月29日~10月11日)

海南新聞韓国関係記事1908/09/20  日本人拓殖農民移殖が急務(明治41年9月20日~29日)

海南新聞韓国関係記事1908/09/12  韓国沿岸の日本人漁業と海賊(明治41年9月12日~18日)

海南新聞韓国関係記事1908/09/02  内地中農以上の資産家に (明治41年9月2日~5日)

海南新聞韓国関係記事1908/08/25  京城の松山会 (明治41年8月25日~27日

海南新聞韓国関係記事1908/08/09  久松氏、韓国で土地買い入れへ (明治41年8月9日~16日)

海南新聞韓国関係記事1908/07/30  春香伝 (明治41年7月30日~8月8日)

海南新聞韓国関係記事1908/07/22  宇和町出身・古谷久綱氏の韓国談 (明治41年7月22日~29日)

海南新聞韓国関係記事1908/07/12  錦江左岸の日本村(明治41年7月12日~19日)

海南新聞韓国関係記事1908/07/01  神松名遠海出漁信用組合(明治41年7月1日~10日)

海南新聞韓国関係記事1908/06/19  本県の遠海出漁の成績(明治41年6月19日~27日) 

海南新聞韓国関係記事1908/06/16  日韓の水産業 (明治41年6月16日)

海南新聞韓国関係記事1908/06/07  台湾での経験を生かし義兵鎮撫の新方針(明治41年6月7日)

海南新聞韓国関係記事1908/06/02  4月1日清津開港(明治41年6月2日)

海南新聞韓国関係記事1908/05/26  二木生村遠海出漁信用組合(明治41年5月26日~6月6日)

海南新聞韓国関係記事1908/05/17  統監府から韓国政府に交渉されたし(明治41年5月17日~19日

海南新聞韓国関係記事1908/05/13  義兵の戦い 韓海通漁の繁盛(明治41年5月13日)


海南新聞韓国関係記事1908/05/01  二木生の発展 義兵対策(明治41年5月6日~13日)

海南新聞韓国関係記事1908/05/01  義兵日本陸軍に対抗(5月1日~5日)

海南新聞韓国関係記事1908/04/24  伊藤統監園遊会 義兵同時多発攻撃(明治41年4月24日)

海南新聞韓国関係記事1908/04/07  韓国土地調査準備着々(明治41年4月7日~17日)

海南新聞韓国関係記事1908/04/10  清潔は国運発展の妨害(明治41年4月10日~14日

海南新聞韓国関係記事1908/04/09  東洋拓殖会社の事業方針(明治41年4月9日~20日)

海南新聞韓国関係記事1908/04/05  義兵の武装抵抗続く(明治41年4月5日)

海南新聞韓国関係記事1908/04/01  四国、九州等より続々移住希望の申告(明治41年4月1日~4日)

1908(明治41)年 三瓶町二及から巨済島へ移民 往年の和泉政吉氏

海南新聞韓国関係記事1908/03/29  義兵対策としての大道路工事(明治41年3月29日))

海南新聞韓国関係記事1908/03/26  義兵「伊藤公に会はしめよ」(明治41年3月26日~28日)

海南新聞韓国関係記事1908/03/26  韓国殖民の目的(明治41年3月26日)

海南新聞韓国関係記事1908/03/21  国内不景気で渡韓者激増(明治41年3月21日~25日)

海南新聞韓国関係記事1908/03/14  移動漁村根拠地選定(明治41年3月14日~20日
2007年3月3日 
近代史文庫での報告レジュメ「移動漁村 愛媛村」

海南新聞韓国関係記事1908/03/08  仁川に大公園建設(明治41年3月8日~11日)

海南新聞韓国関係記事1908/03/06  韓国婦人の排日熱(明治41年3月6日)

海南新聞韓国関係記事1908/03/04  移住漁民根拠地選定に赤松泰苞氏動く(明治41年3月4日~5日)

海南新聞韓国関係記事1908/03/04  日本人の偽貨幣造り(明治41年3月4日)

海南新聞韓国関係記事1908/02/29  総て校長は日本人を当て(明治41年2月29日)

海南新聞韓国関係記事1908/02/26  韓国東海岸義兵活発(明治41年2月26日~29日)

海南新聞韓国関係記事1908/02/20  韓国移住漁業補助金一戸当り五十円(明治41年2月20日~21日)

海南新聞韓国関係記事1908/02/13  日韓併合以前の韓国鉄道建設(明治41年2月13日~18日)

海南新聞韓国関係記事1908/02/09  亜細亜帝国主義(明治41年2月9日)

海南新聞韓国関係記事1908/02/01  韓国拓殖会社計画(明治41年2月1日~7日

海南新聞韓国関係記事1908/01/24  韓国移住出願者(明治41年1月24日~25日)

海南新聞韓国関係記事1908/01/09  韓人東宇和に留学す(明治41年1月9日~22日)

海南新聞韓国関係記事1908/01/07  大和民族の天職(明治41年1月7日~8日))

海南新聞韓国関係記事1908/01/05  新年と韓太子(明治41年1月5日~7日)

海南新聞韓国関係記事1908/01/04  日本人の膨張力(明治41年1月4日)

1903(明治36)年当時、日本人が韓国沿岸に建設した小屋や納屋は138棟 
                         金秀姫氏論文で魚島漁民を読む 2
                         金秀姫氏論文で魚島漁民を読む 3

1905(明治38)年
愛南町内泊から漁船(帆掛け舟)7隻、漁民56名が朝鮮漁場へ向かって出漁した

1902(明治35)年 旧助羅のコレラ病と魚島の漁師達

1900(明治33)年 
愛媛県は愛媛県出身漁民の朝鮮近海進出を奨励するために朝鮮近海出漁漁者に対して食費、漁船建造費を補助した。「遠海漁業奨励補助規則」(県令第29号)を作って1900年からは朝鮮漁業と移住とを奨励した。

海南新聞韓国関係記事1895/09/15  越智野間漁業組合、朝鮮海漁業調査請願のため愛媛県庁へ

海南新聞韓国関係記事1895/05/11  宇和朝鮮近海出漁業組合規約

海南新聞韓国関係記事1895/04/18   宇和島漁業組合 西宇和郡三崎村から朝鮮海へ鮑漁出漁中

海南新聞韓国関係記事1895/01/15  朝鮮海出稼漁業者全国漁業者の聯合成らんとす

海南新聞韓国関係記事1894/08/26  朝鮮漁業協議会

2007年5月20日  1894(明治27)年  丸一組合 朝鮮海進出

海南新聞韓国関係記事1894/04/06  丸一組合 アラスカの太平洋博覧会へ出品

1891(明治24)年魚島の網主出身の井庄平たちはカタクチイワシ網を持って朝鮮近海(旧助羅)へ出漁した。 

金秀姫氏論文で魚島漁民を読む 結論

1890(明治23)年? 魚島漁民の旧助羅での漁獲高ピーク金秀姫氏論文で魚島漁民を読む 4

1891(明治24)年ころ魚島漁民たちが旧助羅に進出し金秀姫氏論文で魚島漁民を読む 1

1887(明治20)年代、広島、山口、香川県など朝鮮海域に約七百隻が出漁香川の遠洋漁業

1883(明治16)年日本人漁民は日朝「通漁規則」によって朝鮮近海漁場に進出した。

2008年11月06日    全州写真集


2008年11月05日    韓国全羅南道莞島「莞島海苔組合」あとの現況
2008年11月05日    
韓国全羅南道莞島「莞島神社」あとの現況
2008年11月05日    
韓国全羅南道莞島「莞島尋常小学校」あとの現況
2008年11月04日    
韓国全羅南道莞島「伊予村」あとの現況
2008年11月04日    
韓国全羅南道カマグミ部落の現況


2008年2月3日     「漁が結んだ愛媛と韓国」本日付愛媛新聞四面



2007年7月28日    
ある朝鮮総督府吏員の履歴書


2007年7月26日    「愛媛県水産試験場100年史」から


2007年6月4日     魚島訪問 2
2007年6月4日     
魚島訪問 1
2007年6月24日    
魚島漁民の通漁生活実態


2007年5月29日  旧・神松名村訪問
2007年5月25日  
旧・三崎町訪問 2
2007年5月24日  旧・三崎町訪問 1
2007年5月20日  
『神松名村郷土誌』の記事
2007年5月18日   『三崎町史』


2007年5月10日  魚島を韓国人が訪問(愛媛新聞記事)


2007年5月9日   二及の古老からの聞き取り

2007年4月30日 
愛媛県西予市三瓶町二及出身者の農業開拓移民団の入植地
                  「伊予村」の位置

2007年3月28日 
移住漁村の里 二及 3
2007年3月26日 
移住漁村の里 二及 2
2007年3月25日 
移住漁村の里 二及(にぎゅう)  1



2007年4月6日 
「巨済島旧助羅」の韓国ホームページ発見、ここにも魚島漁民が登場
2007年4月6日 『魚島村史』を読む 4 魚島漁民と韓国の現地住民との紛争と和解
2007年4月6日 
『魚島村史』を読む 3 通漁の根拠地とした「旧助羅」の位置
2007年4月5日 
『魚島村史』を読む 2 韓海出漁
2007年4月5日 
『魚島村史』を読む 1 瀬戸内海での愛媛・広島・香川三県の漁業紛争



2006年11月09日 
原稿(移住漁村「愛媛村」)
2006年10月14日 入佐村残影 巨済島・長承浦
2006年10月13日 
岡山村残影 道南・南浦洞 2
2006年10月12日 
岡山村残影 道南・南浦洞 1


2006年10月11日 愛媛村残影 八浦 5
2006年10月10日 
愛媛村残影 八浦 
2006年10月08日 
愛媛村残影 八浦 3
2006年10月07日 
愛媛村残影 八浦 2
2006年10月06日 
愛媛村残影 八浦 
2006年10月01日 
日本コリア協会・愛媛 韓国旅行


2006年09月30日 「愛媛村の里」内泊再訪(内泊地域の航空写真追加)
2006年09月21日 
「愛媛村の里」内泊を訪ねた
2006年09月15日 
明治期の日本漁船の通漁地域
           (このように朝鮮の漁業資源の収奪した)


金秀姫先生の論文
 
「日帝時代慶尚南道三千浦に移住した日本人漁民について」
            -愛媛県南宇和郡西海村内泊の漁民を中心にー


殖民時期移住漁村「小魚島村」と巨済島旧助羅

2007年4月13日  清沢冽と朝鮮

2007年4月11日  
日本軍の性奴隷制


後備歩兵第十九大隊関係記事殺 戮 思 想 の 系 譜


関係資料         1999/11/01<<東学農民戦争とは(井上勝生論文から)


関係資料         2008/11/01<<後備歩兵独立第十九大隊の足跡(井上勝生論文から)


関係資料         2008/12/18<<東学農民軍弾圧に動員された日本軍(井上勝生論文から)


後備歩兵第十九大隊兵士の墓
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

**********1896/09 参第八一六号 元南部兵站監部 南部兵站監部残務所再設並高橋軍曹出京ノ件 提出 二十九年九月 日 執行 年 月 日
御指令按 申請之通追書共認可ス 第五師団ヘ御達按
歩兵第二十二連隊付 陸軍歩兵一等軍曹高橋金四郎 右南部兵站監部残務整理所東京ニ再設ノ為メ出京ヲ命スヘシ  

三四三五 南部兵站監部残務整理所 再設ヲ要スル件ニ付申請
元南部兵站監部残務整理所本年八月十日ヲ以テ閉鎖之処本年六月十八日参謀総長内達ニ依リ南部兵站部員及後備歩兵第六聯隊仝第十聯隊第一大隊 仝独立第十九大隊将校以下功績調査ヲ相要シ候ニ付 凡ソ四ヶ月間再ヒ東京ニ残務整理所ヲ設ケラレ陸軍歩兵少佐永田寛彰ヲ以テ調査を担当致させ之に 陸軍歩兵一等軍曹高橋金四郎附属せしめられたく・・  C07041327000
**********1896/04/18 宇佐川中佐より 朝鮮国警備隊交代の件 
密受第六八号 朝鮮国駐箚守備隊交代ノ件 二十九年四月二十日 参謀総長ヘ御移牒案
朝鮮国駐箚守備隊交代ノ件ニ付別紙甲号ノ通外務大臣ヘ及照会候処乙号ノ通リ回答令ヘ候条右及移牒候也 密発第三四号 (別紙甲号ハ外務大臣ヘ御照会令按乙号ハ@大臣ヨリノ回答ト@全文) 機密送第三七号
朝鮮国ニ駐在セル後備諸隊ヲ帰国セシメ換フルニ常備兵一大隊ヲ派遣シ京城ニ二中隊@山元山ニ各一中隊駐屯セシメ候儀ニ付@テ@協議ノ次第召之候処右ハ来五月初旬ニ於テ交代方夫々御取計可相成ニ付予メ其@ヘ通御方本月十六日附送甲第六九一号ヲ以テ御照会ノ趣領承右ハ@ニ電報ヲ以テ小村公使ヘ@達置@召右様御承知相成度此段及御回答候也 陸軍大臣候爵 大山巖 外務大臣ヘ御照会案 朝鮮国ニ駐在セル後備諸隊ヲ@@ C03023060400
**********1896明治29年/04/07 朝鮮国駐剳軍隊に対し令達者に関する件
官第六号 陸軍省受領 二第七三九号 第三師団、第五師団参謀長ヘ通牒案 

御師団ヨリ朝鮮国ヘ駐箚スル後備歩兵第六連隊第二中隊(同第十連隊第一大隊同第十八大隊)ハ本年送乙第一二二四号達ニ依リ本省ニ隷属スル事 C06082227000

(3) 古阜灣及木浦視察復命書 발송일 明治二十九年一月三十一日 (1896-01-31) 발송자 在京城 一等領事 內田定槌
**********1895/12/12 参謀総長彰仁親王発 陸軍大臣侯爵大山巌宛 後備歩兵第6連隊同第19大隊両部隊長に副官云々
臨発第二八五九号
後備歩兵第六連隊長 水野勝毅 後備歩兵第十九大隊長森戸武矩後備歩兵第六連隊副官 竹中徳二 後備歩兵第十九大隊副官赤松国則 右今般朝鮮国より後備歩兵第六連隊及同第十九大隊衛戌地ヘ帰着の後 云々
C06061380700


********** <1895年10月8日の国王妃殺害によって>日清戦争後の朝鮮では「官民一般はもちろん在留外国人に至るまで排日の風潮すこぶる盛んにして、我行為には其事の何たるを問はず皆反対を試むるの情勢(「日本外交文書」)」 <2月11日>、ロシアはこの情勢を利用して国王高宗をロシア公使館に「軟禁」して朝鮮に於ける政治的支配権を強めた。(『日清・日露戦争』10p)
**********1895/12/29
当時の朝鮮王朝は不平等条約である日朝修好条約のもとで、日本人を直接裁く権利は有していなかったから、おのずと、その処罰は王宮襲撃に参加した朝鮮人らに向けられる事になる。朝鮮王朝法部は「謀反事件」の犯人として朴銑、李周会、尹錫禹の三名を逮捕し、12月29日かれらrに死刑判決を下している。(『高宗・閔妃』258p)
1896(明治29)年12月、乗松雅休はひとり朝鮮伝道におもむいた。乗松雅休が土台を作った韓国キリスト同信会
**********1895/**********1896/02/10
秘 明治二十九年二月十日調 在外各部団所在表
<大本営> 兵站監部・後備歩兵第十八大隊(京城守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 
<南部兵站監> 後備歩兵第十連隊第一大隊(京城釜山間) 

**********1896/02/08 参命第三五二号 第五師団長への命令 廿九年二月八日
朝鮮国京城の守備隊たる後備歩兵第十八大隊及同国釜山港の守備隊たる後備歩兵第十連隊の第四中隊は不日その任務を解き第十八大隊は安芸の国宇品港に第四中隊は伊予の国三津が浜に上陸各其編成地に至らしむ 諸隊は上陸の時より貴官の指揮下に復帰す 右諸隊出発の時日は各当該隊長をして貴官に電報せしむ 大本営
海南新聞東学関係記事1895/12/24<12/24-28 各地で凱旋祝賀会 当時漱石は松山中学校在職中
海南新聞韓国関係記事1895/12/24 後備歩兵第十九大隊長森戸武矩正六位に昇位宇和島の後備兵帰郷 石根村・砥部村・吉田町で後備歩兵第十九大隊兵士慰労会
**********1895/12/21<<後備歩兵独立第十九大隊、松山で解散

**********1895/12/16 宇和島出身・村松忠雄「大院君暗殺計画」に西園寺外務大臣の指示(電信案)
西園寺大臣より京城内田領事宛
其の地在留の村松忠雄薬師寺チロウほか一名より愛媛県宇和島の知己へ日本の為め将来の障害物たる大院君を暗殺せんと日夜心を砕き時機を窺ひつつあるも 事変(王妃斬殺)後壮士の取締り厳重なれば何時退韓を命ぜらるるやも知れず 云々 との書面を送りたる由なり 就ては 事実内密に御探りの上 少しにても 其の形跡あるに於ては直ちに退韓を命ずべし

**********1895/12/12 解散処理に関する電報のなかに「後備歩兵第十九大隊副官 赤松国則」の名がある。C06061380700
**********1895/12/10 二十八年十二月十日 大参第一七五号 電報
後備歩兵第十九大隊(第一中隊欠)将校以下三百二十四名、軍役夫六名、馬二頭 及 同第六聯隊第五第七中隊 将校以下251名 軍役夫20名は今午後三時台湾丸に乗船帰朝せしむ 十日 高井兵站監→大本営
海南新聞東学関係記事1895/12/03<12/2-12/10 後備歩兵独立第十九大隊の松山帰営・市民大歓迎  
********1895/11/29 
11.29 後備歩兵第19大隊の内出発帰朝 高井兵站監
二十八年十一月三十日 大参第一五九号 電報 十一月二十九日午後八時二十五分 仁川発 十一月二十九日午後九時三十分着

後備歩兵第十九大隊第一中隊将校以下九十六名敦賀丸ニ乗込明日(30日)午前六時三十分伊予国三津が浜に向け出帆帰朝せしむ C06060347100

**********1895/11/28 米露両国公使館に逃げ込んだ李範晋ら親露、親米派が親日派金弘集総理大臣らの殺害をねらったクーデタを企てたが失敗(春生門事件)(『高宗・閔妃』259p)

海南新聞韓国関係記事1895/11/14<★12/8 後備十連隊所属愛媛県出身兵士の葬儀千余名参集(和気)

**********1895/11/12 愛媛県人の大院君暗殺計画について小野田警保局長より原敬外務次官宛

本月八日御報に及候在朝鮮・村松忠雄等より福井友一へ不穏の書面贈りたる件に付 別紙写の通り愛媛県知事より報告有之候間 御回付に及候・・・相成度候也   ※村松忠雄が福井友一に当てた手紙の写し

小牧昌業・愛媛県知事はこの報告の中で二人は性質、品行、政党の関係など特に問題のない人物であり、王妃殺害事件に刺激を受けた「一時の大言壮語」に過ぎないと思われる、と述べているが、問題はそう簡単には収まらなかった。

**********1895/11/10 在外各部団隊所在表
後備歩兵第十八大隊(京城守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)(黄山) 兵站監部(仁川) 後備歩兵第十九大隊(龍山付近) 後備歩兵第十連隊第一大隊(釜山付近)  C06060343100
**********1895/11/07 
愛媛県人(郷里は宇和島)村松忠雄らの大院君暗殺計画発覚
愛媛県知事より警保局長宛電報 B03030221000

※「警保局は国内・植民地の警察を主管し、特に保安課は特別高等警察を設置して秘密警察の役割を果たした。図書課も特高警察と連携し、ガリ版刷りの同人誌や学校の同窓会誌、村の青年会誌にいたるまで検閲して、反戦思想、反君主制思想を徹底的に取り締まった。」当時の警保局長は小野田元熙(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)







十一月七日午后三時二十五分発
在朝鮮・村松忠雄(朝鮮新報記者にして本年九月渡航)坂本義盛(仝上)は本月三日郷里宇和島の友人福井友一に書面を贈り
(前略 小生王妃の暗殺せられたるに満足せず、進んで今ひとつの害物たる大院君の頭上に日本刀を切れ味を試しずして止むべけんや。小生等幸いに未だ退韓の命を受けず。天我等に与ふるに一世の功名を以てせり。時機を測りて事を挙げんは此時なりと窃かに同志と謀り云々)と云へり。右徒に大言壮語実際の希図なきものと存ずれば御注意のために報告す。委細郵便に付す。)

「駐韓日本公使館記録」 (1895-11-07)
小村 発 外務大臣 宛 25) [王妃弑害事件에 대한 小村의 조치 및 정황 보고] 日本兵を宮城内に入城させるも憂いなし
**********1895/11/07 11月7日 兵站総監川上操六発 南部兵站監高井敬義宛内訓
明治二十八年十一月七日 兵站総監子爵 川上操六 南部兵站監 ?井敬義殿 内訓 遼東半島還付ノ条約成レハ同地駐屯ノ軍隊ヲ撤去セラルヽト共ニ朝鮮国ニ於ケル兵站線及ヒ同守備隊ハ漸次撤去若クハ交代ノ上本邦ヘ送還せらるる筈なり此場合に於ては左の諸項に従ひ処分すべし・・・C06060340600

「駐韓日本公使館記録」24) [王妃弑害事件에 대한 小村의 조치 및 정황 보고] (1895-11-04)
小村 発 大臣 宛て
國王露國公使館ヘ行幸云々ノ風說ハ田村中佐ヨリ井上大使幷ニ官ヘモ話シアリタレトモ事實ナキ事ヲ信ス
**********1895/11/03 在朝鮮愛媛県人村松忠雄、郷里宇和島の友人福井友一に手紙を送り「大院君暗殺計画」を漏らす。
「駐韓日本公使館記録」23) [王妃弑害事件에 대한 小村의 조치 및 정황 보고] (1895-11-01)
小村 発  大臣 宛て

訓鍊隊ヲ解散シ更ニ同隊及侍衛隊ノ內ヨリ親衛隊ナルモノヲ組織シテ王宮守護ニ充テ平壤及全州ノ訓鍊隊ハ鎭衛隊ト改稱スル事トナレリ禹範善及李斗鎬ハ休職ヲ命セラレタリ
**********1895/11/--<<住友別子銅山、四阪島を買収
「駐韓日本公使館記録」十月三十日午前十時三十分 發 (1895-10-30) 小村発 大臣宛て
井上伯渡來ニ就テハ種々ノ風說ヲ生シ頗ル困却セリ・・・
昨夜內閣會議ニ臨ミ訓鍊隊ヲ王宮外ニ出樣嚴談シタルニ 其隊長禹範善及李計〔斗〕鎬・・・ハ昨夜閣議ノ後何レヘカ出奔セリトノ事ナリ此上ハ訓鍊隊ノ始末ヲ付クルハ容易ナルニ付一應解散シ更ニ同隊及舊侍衛隊中ヨリ確カナルモノヲ選ンミテ新護衛兵ヲ組織シ又大院君ハ王宮外ヘ退出セシムルノ考ヘナリ
**********1895/10/30 在外各部団隊所在表
後備歩兵第十八大隊(京城守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)(黄山) 兵站監部(仁川) 後備歩兵第十九大隊(龍山付近) 後備歩兵第十連隊第一大隊(釜山付近) C06060340300

「駐韓日本公使館記録」14) [王妃弑害事件에 대한 小村의 조치 및 정황 보고] (1895-10-25)
小村 発  大臣 西園寺 宛て
本日使臣會議ニ於テ露公使ハ目下ノ狀勢ニ照シ國王ノ安全ト京城ノ安寧ヲ保ツ爲メニハ軍務大臣ノ交迭ト訓鍊隊ノ解散トヲ必要トスル旨ヲ發議シ ・・・
**********1895/10/21 日本軍台南入城、「台湾民主国」崩壊
海南新聞韓国関係記事1895/10/20 妃殿下殺害事件 *若し果して在韓日本壮士にして此凶行に加担せるものありとせんか 是れ実に我善隣の道に戻り(※もとり、か)朝鮮の平和を妨害する不逞の所為 

「駐韓日本公使館記録」8) [王妃弑害事件에 대한 小村의 조치 및 정황 보고] (1895-10-20)
小村発  橋口宛て

昨日下仁セシ岡本鈴木平山及今日下仁シタル退韓者悉皆乘船ノ上ハ明朝出帆セシメ差ナシ 但シ未タ乘船セサルモノアレハ可成說諭シテ乘船セシメ尙ホ聞カサルモノハ拘引ノ上乘船セシムベシ 若シ拘引ヲ要シタル場合ニハ直ニ本官ヘ電報スヘシ 又兵隊ヲ附スル事ハ極メテ秘密ニシ前記ノ退韓者盡ク乘船ノ後チニ至リ兵隊ヲ乘船セシメ直ニ御用船トシテ宇品ヘ向ケ出帆セシムベシ 尙ホ柴四郞モ必ス乘船セシムベシ 愈々出帆ノ上ハ外務大臣ト本官ヘ電報スヘシ 尤モ貴官ニ於テ護衛兵ヲ附スル必要ナシト認メラルヽ場合ニハ高井兵站監ト協議ノ上可然取計フヘシ
**********1895/10/20 在外各部団隊所在表
後備歩兵第十八大隊(京城守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)(黄山) 兵站監部(仁川) 後備歩兵第十九大隊(龍山付近) 後備歩兵第十連隊第一大隊(釜山付近) C06060338700
「駐韓日本公使館記録」4) [王妃弑害事件에 대한 小村의 조치 및 정황 보고] 4 (1895-10-18) 小村 発   西園寺大臣 宛て

公使館領事館員ノ關係者ニ歸朝ヲ命セラレタル處本官今直チニ之ヲ實行シテハ壯士等不穩ノ擧動ニ出左スルトキ露國ニ出兵ノ口實ヲ與フルモノナレバ今明日中ニ官吏以外ノ關係者ヲ退韓セシメ然ル後チ館員等ノ歸朝ハ武官ノ關係者ト共ニ實行スル事ニ田村中佐トモ協議シ置キタリ
「駐韓日本公使館記録」14) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 14 발송일 十月十八日 (1895-10-18) 발송자 大臣 西園寺 수신자 小村
「駐韓日本公使館記録」11) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 발송일 十月十八日 (1895-10-18) 발송자 大臣 西園寺 수신자 小村
三浦公使其他官吏ヲ呼戾スニ付朝鮮政府ニ於テ疑懼ヲ抱キ瓦解セサル事ヲ豫防スルハ必要ナリト信ス右ニ付テハ閣下公使ニ協議スルカ又ハ貴官ノ意見ニ依テスルカ瓦解ヲ來サゞル樣盡力セラルヘシ尙ホ右ニ關シ疑ヒアラバ電信ニテ指揮ヲ乞ハルヘシ
「駐韓日本公使館記録」10) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 10 발송일 十月十八日 (1895-10-18) 발송자 大臣 西園寺 수신자 小村
杉村書記官掘口領事官補國分通譯官萩原警部及嫌疑アル巡査ニ歸朝ヲ命ス其旨貴官ヨリ達スヘシ又岡本柳之助ハ退韓ヲ命スヘシ右ノ者歸朝ニ付途中護衛ノ事ハ田村中佐ニ協議ノ上相當ノ取計ヲ爲スヘシ
「駐韓日本公使館記録」8) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 8 발송일 十月十八日 (1895-10-18) 발송자 大臣 西園寺 수신자 小村 今回ノ事件ニ付犯罪ノ嫌疑アル者ハ盡ク速ニ退韓ヲ命スヘシ
「駐韓日本公使館記録」7) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報]
발송일 十月十七日 (1895-10-17) 발송자 大臣 西園寺 수신자 小村
今回急ニ三浦公使ヲ呼戾シ其上ニテ處分スル事ニ廟議決定シタル故・・・
「駐韓日本公使館記録」6) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 6

발송일 十月十七日 (1895-10-17) 발송자 大臣 西園寺 大臣
京城 小村
貴官本日辨理公使ニ任セラレ朝鮮國駐箚ヲ命セレタルニ付三浦公使ヨリ事務ノ引繼ヲ受クヘ
「駐韓日本公使館記録」2) [王妃弑害事件에 대한 小村의 조치 및 정황 보고] 2 발송일 十月十七日 (1895-10-17)

京城 小村 発
西園寺 大臣 宛て
今回ノ事變ニ付テハ官民共ニ關係者頗ル多クシテ其事實ヲ得ル事最モ難シ然レトモ今日迄ノ取調ニ依リ本官ノ確實ト認ムルモノ左ノ通リ
此事件ノ主謀者ハ三浦公使ニテ大院君ト同公使トノ間ヲ周旋シタルハ岡本柳之助ト察セラル而シテ公使館領事館職員中ノ關係者ハ杉村書記官堀口領事官補國分通譯官荻原警部及ヒ巡査六名ナリ王妃ハ日本人ノ手ニテ殺害シ其屍ヲ燒キタリ此殺害ニ尤モ盡力シタルハ領事館巡査ナリ守備隊ハ全ク三浦公使ノ命令ヲ奉シテ進退シタルモノト認ム守備隊武官中ノ關係者ニ付テハ田村中佐ヨリ陸軍大臣ヘ報告セラルヘシ
○本官露國代理公使ヲ訪問シ此回ノ事件ニ付テハ日本政府ハ大ニ驚愕セシ旨ヲ申述ヘベタリ同公使ハ此事變ニ日本政府ハ更ニ關係シ居ラサルモノト確信スル旨ヲ明言セリ同公使ハ王妃死生ノコトハ未タ判然セズト云ヒ居レトモ本官同公使ノ語氣ヲ察スルニ王妃ハ死セシモノト確信シ居ルカ如シ又守備隊ハ全ク大院君ヲ擁シテ王宮ニ入リシハ事實ナレトモ同君ハ前ヨリ此陰謀ニ與シ居リシヤ否ヤ頗ル判斷ニ苦シムト云ヘリ(コクレル)ノ言フ所ニヨレバ京城在留一般ノ外國人ハ大院君ガ日本壯士ヲ シテ王宮ニ入リタレド同君ヲ守備隊ガ護衛シタルハ不審ニ堪ヘズト云ヒ居ル由王妃ノ屍ヲ燒キタル事ハ米國人「ダイ」ガ實見シタル由ニテ一般外國人モ亦之ヲ知レリ○本日本官辨理公使ニ任シ當地在勤命セラレタル貴電拜接ス依テ三浦公使ハ一日モ早ク出發セラルヽ樣取計フヘシ同公使歸朝命セラレタル上ハ官吏以外ノ關係者ヲ速ニ退韓セシメ本邦ニテ處分相成ル方得策ト思考ス如何トナレハ第一三浦公使召還ノ後チニ於テ壯士等如何ナル不穩ノ擧動ニ出ルヤノ憂ナキニ非ス第二ニハ若シ壯士其他當時ノ事實ヲ知リ居ルモノハ其事實ヲ外國人ニ漏ラスノ恐レアリ此レハ目下外國公使等非常ニ探偵ニ注意シ居ルナリ
領事館員ノ關係者ヲ當地ニ於テ處分スルコトハ尤モ苦ム所ナリ然レトモ總テノ關係者ガ歸朝後ニ於テ其處分方ニ二ツアリ一ハ公使始メ盡ク處分スルト一ハ誰レ一人モ不問ニ措ク事ナリ若シ多少處分ヲ要ストスルトキハ如何ナル程度迄處分ヲ要スルカヲ必要トスルカハ猶ホ篤ト當地ノ情況ヲ探知シタル上上申スヘシ又退韓ヲ命スル事ニ付テハ至急何分ノ指揮ヲ乞フ
「駐韓日本公使館記録」5) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 5

발송일 十月十六日 (1895-10-16) 발송자 大臣 西園寺 수신자 小村

西園寺 大臣
小村
其後ノ情況ヲ察スルニ多人數ノ關係者アリ其地ニテ處分スルコト甚タ困難ナルカ如シ左スレハ大槪探聞スル取ニ依リ文武官ヲ除クノ外ノ者ヲ退韓セシメ本邦到着ノ上着手シテハ如何三浦公使ノ事ト共ニ貴官ノ所見ヲ返答セラルヘシ
「駐韓日本公使館記録」4) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 4
발송일 十月十六日 (1895-10-16) 발송자 大臣 수신자 小村

大臣
小村
左ノ電信ハ司法大臣ヨリ安藤檢事正ニ至ルモノナレバ同人ニ傳ヘラレタシ  此度ノ事ハ外國ニ交涉スル重大ノ事件ニ付他人ト談話ノ際ニ於テ言語ヲ愼ミ餘事ニ注意シ口數少ナキ事ヲ要ス
海南新聞東学関係記事1895/10/15<12/13-12/30 朝鮮政府朝鮮守備隊の撤去要求
「駐韓日本公使館記録」3) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 3

발송일 十月十五日 (1895-10-15) 발송자 大臣 西園寺 수신자 小村

公使ヲ召還スルコトハ今日ノ形勢ニ於テ一日モ忽セニスベカラサルニ至レリ直チニ召還ヲ命スルモ後患ノ慮リナキヤ否ヤ直ク返電待ツ
「駐韓日本公使館記録」1) [王妃弑害事件 調査와 뒤처리로 왕래한 電報] 1 발송일 十月十四日 (1895-10-14) 발송자 大臣 西園寺 수신자 仁川 領事 橋口

三浦公使ヨリ王宮ヘ亂暴ノ嫌疑アルヲ本官取調タルニ何レモ犯罪ノ證據不充分ナレトモ其問答多數ニシテ其內過激ノ壯士モアリ速ニ之ヲ處分セサルトキハ彼等自ラ疑懼ヲ抱キ容易ナラサルコトヲ惹起スノ恐レアルニ付領事ヲシテ退韓ヲ命セラレタキ旨申來リタレトモ右ハ貴官京城着ノ上協議ノ末更ニ申越スヘシト回答シ置キタリ
「駐韓日本公使館記録」明治二十八年十月十二日 (1895-10-12)

발송자 特命全權公使 三浦 수신자 外部大臣 金 
2) [위 文件에 대한 回信]
第一二二號
以書柬致啓上候陳者貴曆開國五百四年八月二十三日附第二十一號貴公文ヲ以テ今般貴國大君主陛下ニハ王后閔氏ノ坤德備ハラサルヲ以テ不得已廢シテ庶人ト爲サレタル旨御來示之趣領悉之下驚嘆之次第ニ有之候宗社生民之爲メ此乾斷出サセラレタル義トハ申ナガラ如此不幸アルニ至リシハ貴國ノ爲メ實ニ遺憾之至ト存候尙御來示ノ趣ハ早速本國政府ヘ電稟致置候此
段貴答申進候 敬具
明治二十八年十月十二日
三浦 特命全權公使
金 外部大臣
「駐韓日本公使館記録」1895-11-27 ????
1) [閔妃 廢位 通報]
受信者 大日本特命全權公使 子爵 三浦
「駐韓日本公使館記録」
(3) [訓鍊隊亂動時 日人混入說의 糾明 要請]
문서번호 第一二○號 발송일 明治二十八年十月十日 (1895-10-10)
발송자 子爵 三浦梧樓
「駐韓日本公使館記録」 2) [위 文件에 대한 回信]
문서번호 照會第貳拾號 발송일 開國五百四年八月二十二日 (1895-10-10) 발송자 大日本特命全權公使子爵 三浦
**********1895/10/10 明治28年10月10日大本営陸軍参謀部発 在外各部団隊所在表
後備歩兵第十八大隊京城(守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)(黄山) 兵站監部(仁川) 後備歩兵第十九大隊(龍山付近) 後備歩兵第十連隊第一大隊(釜山付近) C06060469500
「駐韓日本公使館記録」 明治二十八年十月九日 (1895-10-09)
발송자 特命全權公使 子爵 三浦梧樓 수신자 外部大臣 金充植
1) [訓鍊隊 嚴罰과 宮闕護衛 充當說의 撤回 요구]
第一一八號
以書柬致啓上候陳者昨朝貴宮闕內騷擾ノ際宮內參理官全晙基氏來リ大君主陛下ノ旨諭ヲ傳ヘ本使ニ鎭撫ノ御依賴有之候ニ付本使ハ直チニ參內致候處其前我守備隊ハ鎭撫ノ爲メ出張シ騷擾ハ旣ニ全ク鎭定シ居リ而シテ右ノ騷擾ハ貴訓鍊隊兵等訴冤ノ爲メ進宮シタル處侍衛隊及ヒ警察官等ニ遮キラレ遂ニ此ニ及ビシ事ト致承知候尙ホ本使退闕ノ後傳聞ニ據リ該騷擾鎭定後直チニ同訓鍊隊ヲ以テ宮中護衛ニ相充テラレタル旨致承知候因テ査スルニ貴訓鍊隊兵ハ本ト何等ノ冤罪ニ因テ宮闕ニ向ヒ申訴セシトシタルヤ未タ之ヲ詳ニスルヲ得スト雖トモ彼等恣ニ隊伍ヲ組ミ銃器ヲ携ヘテ宮中ニ押入リタル所爲ハ實ニ容易ナラサル次第ニ付嚴重御取調ノ上相當ノ御處分アラン事偏ニ致希望候且又該訓鍊隊ヲ以テ直チニ王宮護衛ニ充テラレタリトノ風說ハ果シテ事實ニ有之候ハバ右ハ正當ノ御處置ト難相認候間是亦改メテ御處置相成リ以テ名義ヲ明ニシ內外人ノ惑ヲ相解カレ候事頗ル急務ト被存候本使ハ年來ノ交誼ヲ重ジ特ニ貴政府ニ向ヒ前顯兩條ノ御處分ヲ御勸告ニ及ヒ候間可然御照諒相成リ候樣致度此段照會得貴意候 敬具
明治二十八年十月九日
特命全權公使 子爵 三浦梧樓
外部大臣 金充植 閣下
「駐韓日本公使館記録」
1895-10-09
2) [위 文件에 대한 回信]
第百十八號
以書柬致啓上候陳者貴曆開國五百四年八月二十日附第十九號貴公文ヲ以テ貴國訓鍊隊ノ兵士宮門ニ突入シ哀訴スル所アリトテ騷擾ヲ爲シタルモ說諭ノ上無事鎭定ニ歸シタル義ニ關シ御申越ノ趣領悉致候
右回答申進候 敬具
明治二十八年十月九日
三浦 特命全權公使
金 外部大臣 宛

「駐韓日本公使館記録」1) [訓鍊隊 兵丁의 入闕亂動에 관한 措置 通報] 문서번호 照會第十九號 발송일 開國五百四年八月二十日 (1895-10-08) 수신자 大日本特命全權公使子爵 三浦

**********1895/10/08<三浦公使、懸案だった電信問題と駐兵問題を一挙に解決するために、(日本軍派遣依頼に反対する)朝鮮王妃を殺害させる。(京城守備隊後備歩兵独立第十八大隊<広島>の450人、第二訓練隊が慶福宮を占拠))

○本朝左ノ電報朝鮮国公使館付新納海軍少佐ヨリ伊東海軍中将ノ許ニ到達セリ 明治二十八年十月八日 大本営 陸軍参謀部
訓練隊大院君ヲ戴キ吶喊シテ大闕ニ打チ入レリ 八日午前六時三十二分京城発 新納 伊東中将
○新納海軍少佐ヨリ伊東海軍中将ノ許ニ左ノ電報到達セリ 明治二十八年十月八日 大本営 陸軍参謀部 国王無事王妃殺害セラレシトノ事ナリ 十月八日午前九時二十分京城発 新納海軍少佐


**********1895/10/02<<伊藤博文は三浦公使より通知があり次第、何時にても出兵するよう、大本営よりあらかじめ在朝鮮兵站司令官に訓令してもらいたいと、大本営に照会するように陸軍大臣大山巌に要請したのである。10月5日、兵站守備隊の派遣に関し特命全権公使三浦梧楼の要請に応じよ、という大本営命令が南部兵站監に下った。その三日後・・・
9月28日付外務大臣代理西園寺公望から内閣総理大臣伊藤博文宛文書
過般朝鮮内地に於て、しばしば賊徒起こり候に依り、右鎮定の為め、同国(=朝鮮国)政府より在朝鮮我が守備隊を(朝鮮)内地に差し向けんことを在京城三浦公使迄依頼したるも、同公使は今日まで拒絶相成りたり、然ども将来に於ては或いは我が兵を動かさざるを得ざることこれあるべく・・・」。(『日清・日露戦争』137p)
**********1895/09/30 在外各部団隊所在表
後備歩兵第十八大隊(京城守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)(黄山) 兵站監部(仁川) 後備歩兵第十九大隊(龍山付近) 後備歩兵第十連隊第一大隊(釜山付近) C06060334300

**********1895/ この当時、「仁川におかれた南部兵站監部の兵站監高井敬義歩兵大佐の指揮下には、ソウルに臨時南部兵站電信部が置かれ、釜山・義州およびソウル・仁川の兵站線上に、後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)、後備歩兵第十連隊第一大隊、後備歩兵第十九大隊が配置されており、また大本営直轄であった京城守備隊の後備歩兵第十八大隊、元山守備隊の後備第六連隊第二中隊も、補給の面では南部兵站監が担当していた。総勢6000名を上回る兵員が駐屯していたであろう。」(『日清・日露戦争』138p)
海南新聞韓国関係記事1895/09/28<平安道に暴徒猖獗 朝鮮政府日本守備隊に援兵を求む

**********1895/09/28<楠瀬幸彦朝鮮公使館付武官兼同国軍事顧問から大本営川上中将宛電信。「兵站監、電信提理と公使館に会合、討議の末左の通り決議せり。・・・ご決裁を願う・・・電信の守備には憲兵250名、内地警備隊には戦時編成の六中隊、これは当政府より依頼いたさす筈なり、・・・四ヶ所に200人づつ、京城に400人を要すの目的なり」(『 朝鮮王妃殺害と日本人』228p)」

**********1895/09/25 在外各部団隊所在表
後備歩兵第十八大隊(京城守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)(黄山) 兵站監部(仁川) 後備歩兵第十九大隊(龍山付近) 後備歩兵第十連隊第一大隊(釜山付近) C06060460900

**********1895/09/19 三浦公使が川上中将に対し、東学党鎮圧の名を借りて、朝鮮に於ける兵站守備隊の指揮権を要求した。西園寺外務大臣激怒。しかし・・・(『 朝鮮王妃殺害と日本人』229p)
**********1895/09/25 在外各部団隊所在表 第8号の2 明治28年9月25日調 台湾総督府
後備歩兵第十八大隊(京城守備隊) 後備歩兵第六連隊第二中隊(元山守備隊) 後備歩兵第六連隊(第二中隊欠)(黄山) 兵站監部(仁川) 後備歩兵第十九大隊(龍山付近) 後備歩兵第十連隊第一大隊(釜山付近) C06061827100
海南新聞韓国関係記事1895/09/20<9/10 /9/14 平安道に暴徒蜂起す

海南新聞韓国関係記事1895/09/22<平安道黄海道日軍兵站部無き所は無政府状態

海南新聞韓国関係記事1895/09/20<1895/9/10 /9/14 平安道に暴徒蜂起す

海南新聞韓国関係記事1895/09/19 東学党の組織と教義
海南新聞韓国関係記事1895/09/15 越智野間漁業組合頭取村上紋四郎氏は朝鮮海漁業調査請願の為め昨日来松 県庁へ出頭せり

海南新聞韓国関係記事1895/09/13<9/13付 朝鮮政府朝鮮駐屯兵の撤去を要求

**********1895/09/12<<大本営川上操六から三浦梧楼公使への電信
朝鮮国大君陛下の要求により、我が歩兵二中隊を京城に、一中隊宛を釜山と元山の両地に、駐屯せしむべき事は、貴官の已に了知せらるる処なり、就いては右歩兵一大隊の派遣と同時に憲兵役二百五十名を差遣し、釜山より義州にいたる兵站電線の守備に充て、目下朝鮮国にある後備諸隊は悉皆帰国せしめんとす。然るに兵站電線の守備に充つべき憲兵差遣の事に付ては、予め朝鮮国政府の承諾を得るの必要これあるべく、又貴官のご意見も承知致したし、・・・(『日清・日露戦争』126p)三浦公使もこれに同意したが交代の時期についてはしばらくの猶予を求めた

      **********2008/12/31<後備歩兵第十九大隊病死兵の墓地を発見
海南新聞韓国関係記事1895/09/04<★8/31 後備歩兵第十九大隊病死兵(脚気症)の葬儀に五百人参集(風早郡)

**********1894/95 戦死者の葬儀、発起、計画からすべて遺族の手を離れ町村会議員、町村吏員、町村の有志者、軍人援護団体によって行われた。(『日清戦争の社会史』127p)
**********1894/95 日清戦争期には忠魂塔、表忠碑などと呼ばれる碑はほとんど存在しない。建設されたのは死者記念碑。遺族の「追慕」の施設としては建立を許されなかった。死者記念碑は、国家に功労のあった死者を対象とし、公衆に感化を与え好意を励ますものでかければならなかった(『日清戦争と社会史』148p)
**********1894/95 日本軍出征部隊の患者数は17万5419人で出征部隊総人数の96%。出征部隊総人数の64.7%が入院している。脚気は至る所で発生し、特に澎湖島・台湾で甚だしかった。赤痢は朝鮮において特に甚だしかったが清国、対話でも発生した。マラリアはもっぱら台湾で発生。コレラは明治二十八年三月以降輸送船船内、戦地で発生、とくに澎湖島で惨害。
陸路の運送力がなかった朝鮮では精米不足の現地米、それに粟、小豆などを交ぜた雑穀混合飯で上をしのいだ結果、糧食運送が良好であった台湾にくらべ脚気患者は少なかった。朝鮮の脚気患者数1665人死者142人、台湾の患者数21087人死者2104人。(『日清戦争の社会史』128p)
**********1895/09/10 在外各部団隊所在表第7号  明治28年9月10日調 朝鮮には変更なし
海南新聞韓国関係記事1895/09/01<8/31付 鉄源に暴徒起る

**********1895/09/01<三浦全権公使京城入り、居留民数百名、京城守備兵一大隊等歓迎
三浦公使の任務は、電信線の返還日本軍の撤兵を強く望む国王を王妃に、新に歩兵一大隊の派遣を要請させ、憲兵役250名を新に派遣して釜山-義州の電信線を守備させるという大本営の方針を承認させ実行する事であった。(『日清・日露戦争』131p)

**********1895/08/30 在外各部団隊所在表 第6号 明治28年8月30日調 朝鮮には変更なし C06061826800
海南新聞韓国関係記事1895/08/25 風早郡粟井村大字久保後備輜重輸卒河野十蔵氏は昨年十一月七日朝鮮国仁川に着し 東学党征討軍に加入し龍山万里倉を出で所々転戦中 不幸にして脚気症に罹り 本年七月十一日朝鮮国南部仁川兵站病院に於て死去し 其遺髪故郷へ到着に付き 去る三十一日午後二時出棺 同村同大字池田の墓地に於て仏式葬儀を執行せり 会葬者五百余名
**********1895/08/20 在外各部団隊所在表(台湾総督) 朝鮮には変更なし C06061826700
**********1895/08/08~08/25 「朝鮮国軍事改革」のため大本営が、京城守備隊(後備歩兵独立第十八大隊・馬屋原大隊長)に現役士官、下士官計8名を集中的に派遣。このとき派遣された後備歩兵独立第十八大隊長代理 石森大尉(後備歩兵独立第十八大隊長代理 後備歩兵独立第十八大隊長代理 石森大尉)、鯉登大尉(後備歩兵第十九大隊副官)、高松大尉は王妃殺害事件で軍法会議にかけられた。(『 朝鮮王妃殺害と日本人』226p)
**********1895/08/21 在外各部団隊所在表 諸方面守備隊には移動なし C06060460300
**********1895 「この戦争を期に民衆の中に朝鮮・中国を野蛮視し、蔑視する思想は急速に広がった。」(『日清・日露戦争』233p)」
**********1895/07/30 在外各部団隊所在表 朝鮮は変更なし C06061826600
**********1895/07/27<第22連隊第3大隊も帰郷、 07/29予備解隊式(『日清戦争秘録』195p)

**********1895/07/19<陸軍中将三浦梧楼が此日付で特命全権大使に任命された。8月17日付で朝鮮国駐箚せよ。
**********1895/07/17<第22連隊第2大隊帰郷(『日清戦争秘録』195p)
「駐韓日本公使館記録」(4) [朴泳孝의 京城脫出에 관한 보고] 機密第七三號 明治二十八年七月十五日 (1895-07-15) 臨時代理公使 杉村濬より 外務大臣臨時代理 文部大臣 侯爵 西園寺公望 へ
「駐韓日本公使館記録」(3) 明治二十八年六七月中朝鮮王宮護衛兵入替ノ件ヨリ宮中ト內閣ノ間ニ衝突ヲ興シ遂ニ變シテ朴泳孝ハ其職ヲ免セラレ逮捕ノ令下リタル迄ノ日記 (1895-07-12)臨時代理公使杉村濬より外務大臣臨時代理 侯爵 西園寺公望 へ
**********1895/07/13<22連隊凱旋第一陣第1大隊 高浜港に上陸

海南新聞韓国関係記事1895/07/12<7/12付 東学党全琫準の人望

**********1895/07/01 井上馨朝鮮国駐箚全権大使、西園寺外務大臣宛に意見書提出(7・1意見書)
【電信の事】ソウル-義州間の電信線はもともと朝鮮政府が所有するものであり、日本が清国より獲得した戦利品とする見解を否定。ソウル―釜山、ソウル-仁川の日本軍が敷設した電信線も、日本が引き続き管理しようとすると、守備兵を置かねばならず他国の干渉の口実を与えることになるからこの際すべて朝鮮に寄贈して朝鮮からの要請ということで管理に必要な技術者などを送り込むのがよい。(『日清・日露戦争』69p)
**********1895/06/26<<杉村代理公使、在東京の井上馨公使に返電。昨日朴泳孝内部大臣に面談したが、仝大臣は朝鮮兵制の整頓されるまで日本兵の駐屯を望むと申し出たが、同日の内閣会議で異論が起こりまだ決定されていない。国王は日本軍の駐屯を望んでいないと漏れ聞く。(『日清・日露戦争』77p)
**********1895/06/25<<「朴泳孝内部大臣が、王宮護衛兵を(日本が指導する)訓練隊と交代するように建議したところ、国王高宗は断固これを拒否し、『昨年六月(太陽暦7月23日日本軍による王宮占領事件)以来の勅命若しくは裁可せられたるものは皆朕の意に非ず』と宣言した。」(『朝鮮王妃殺害と日本人』224p)
**********1895/05/29<<日本軍近衛師団、台湾上陸開始

**********1895./05/23 「台湾民主国自主宣言」発表
**********1895/06/12 「後備歩兵第十九大隊付馬嶋繁次郎」(軍医)の名がある C06061069700
「駐韓日本公使館記録」(1) [東學黨 騷亂原因 調査結果 報告書 送付の 件](1895-05-13) 後備歩兵 獨立第十九大隊長 南小四郞より特命全權公使 伯爵 井上馨へ
「駐韓日本公使館記録」  (3) [各地 戰鬪詳報 及び 東學黨征討策 實施報告書 送付の 件] (1895-05-13)後備歩兵獨立第十九大隊長 南小四郞より 特命全權公使 伯爵 井上馨へ

**********1894/95 日清戦争(1894/7/25~1895/5/末台湾出兵時)での動員兵力は、24万0616人。うち出征部隊人数は、軍属4275人、将校級5184人、下士官級16991人、兵卒15万1842人、計17万8292人。死者は軍属を含めて1万3488人で7.57%。内、戦闘による死者0.79%(1417人)、病死者6.67%(1万1894人)、傷死者285人、変死者177人。なお、死者の80.4%は台湾出兵時、その94.4%が病死であった。(『日清戦争の社会史』110P) 日露戦争の死者は8万5000余人(同111p)
ーーーー
日露戦争は、総動員兵力108万8996人、戦病死者8万1455人、戦費支出奎18億円と、それぞれ日清戦争の4.5倍、6.1倍、9.1倍にのぼる大規模なものであった。(『日清・日露戦争』126p)

**********1895/05/23<正岡子規帰国神戸上陸

海南新聞韓国関係記事1895/05/20<5/20付 日清戦争と大北電信会社

海南新聞東学関係記事1895/05/19<5/30
後備歩兵第10連隊(広島・愛媛・徳島:釜山守備隊)の解隊

松山兵営の予備後備兵は・・・5/28に解隊す
「駐韓日本公使館記録」(2) [東學黨征討略記] (南少佐講話)발송일 明治二十八年五月 (1895-05-99) 발송자 後備步兵獨立第十九大隊 功労者(将校相当)一覧

**********1895/05/15付け 外務大臣陸奥から山縣あて回答
「目下朝鮮国内に駐屯せしめたる軍隊は後備隊なるが故、平定の上は解隊の為め帰朝せしめ、更らに常備軍隊中より歩兵一連隊を駐屯せしめらるべき儀に付、本日十二日付発第二七〇号を以て本大臣之意見御問合の趣了承致候、然るに露・独・仏三国との交渉事件漸く落着に及び、其余燼未だ全く除かざるの今日に際し、在朝之我軍隊を動かし候ては、外観稍穏やかならざるに付、今暫くの間、先づ従前通之り御据置相成候様致度、此段及御協議候也」(『日清・日露戦争』53p)
(6) [東學黨征討 功勞者に対する論功建議の件] (1895-05-13)
後備歩兵 獨立第十九大隊長 南小四郞より特命全權公使 伯爵 井上馨へ (注:後備歩兵第十九大隊第3中隊が
大屯山の戦闘に参戦していたことがわかる)

「駐韓日本公使館記録」(3) [各地 戰鬪詳報 및 東學黨征討策 實施報告書 送付의 件] (1895-05-13) 後備步兵獨立第十九大隊長 南小四郞より 特命全權公使 伯爵 井上馨へ

**********1895/05/12付け 監軍山縣有明から外務大臣陸奥宗光あての照会状
「戦後平定の後と雖も、朝鮮国内には電信線路の守備及居留人民保護等の為め、多少の軍隊を駐屯せしめ置くの必要可有之、然るに目下同国内に駐屯せしめたる軍隊は後備隊なるが故、平定の上は解隊の為め之を帰朝せしめ、さらに常備軍隊より歩兵一連隊を駐屯せしめ候筈に有之候、御意見承知致し度、及照会候也」)(『日清・日露戦争』54p)
海南新聞韓国関係記事1895/05/11 宇和朝鮮近海出漁業組合規約
第一章 総則
第一条 本組合は朝鮮近海漁業連合会規則に基づき左項に該当する者を以て組織する
一 朝鮮海及其付近の海面に於て漁業をなすもの
二 其水産物の製造に従事するもの

**********1895/05/08 日清戦争休戦日
海南新聞韓国関係記事1895/05/07 全琫準らに判決、即日死刑 
**********1895/05/04<<遼東半島返還決定 5月4日、日本は三国の勧告を受諾し、清との間に還付条約を結んで代償に3000万両(4500万円)を獲得した。

海南新聞韓国関係記事1895/05/02<5/2付 朝鮮政府日本兵の駐留警備を求める
**********1895/04/25 第22連隊の傷病兵の第一陣が松山へ帰還.。将校以下140余人、殆どが凍傷患者であった。(『日清戦争秘録』156p)
**********1895/04/24<<全琫準ら農民軍指導者に絞首刑執行

海南新聞東学関係記事1895/05/07<04/23全琫準らに死刑判決

海南新聞東学関係記事1895/04/25<4/11発 全琫準 気肝の愛すべきものあり

**********1895/04/24 小山六之助、李鴻章を狙撃 
**********1895/04/23<<露、独、仏、三国公使、遼東半島返還を勧告

海南新聞東学関係記事1895/04/20<<黄海道に東学党出没 賊五百名(本文略)

海南新聞韓国関係記事1895/04/18 宇和漁業組合の朝鮮海出漁
**********1895/04/17<<日清講和条約調印①朝鮮の独立 ②遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲 ③賠償金支払 ④欧米並みの通商条約締結 など清講和条約(下関条約) 

**********1895/04/16
肆第二七八号 留守第五師団 后備南歩兵佐勤続願ノ件
提出 二十八年四月十六日 別紙肆第二七号進達ノ件ハ予備后備将校服役条例第六条第二項ニ依リ願意御許可相成可然存候 本人願書ヘ御指令案 願之通 四月十七日 高級副官ヨリ留守第五師団参謀長通牒案
貴師団長ヨリ進達相成候后備南歩兵少佐后備勤続之義ハ本人願書ヘ朱書之通指令相成候条右及御通牒候也 陸軍省送乙第一五三〇号 四月十七日 后備将校再服役願書進達 后備陸軍歩兵少佐南小四郎 右之者本年六月一日后備満期之処尚引継キ五ケ年間服役致度旨別紙之通リ願出@ニ付即@及進達@也 明治二十八年四月十四日 留守第五師団長事務取
**********1895/04/10<<正岡子規海城丸で宇品より出航 13日大連 なき人のむくろを隠せ春の草

海南新聞東学関係記事1895/04/05<3/31発 海州 東学軍千五百名の攻防

海南新聞東学関係記事1895/03/31<3/25発 東学軍一千名襲撃

海南新聞韓国関係記事1895/03/31 村田銃は1500メートル※
海南新聞韓国関係記事1895/03/31 出征以来韓地にありて東徒の討伐に従事しつつある陸軍中尉赤松国封氏より宇和島なる家郷への信書
**********1895/03/30<<日清休戦条約調印

**********1894/03/27<< 福沢諭吉「目下日本国の対韓政策は、義侠に非ず、自利の為めなり」(『日清戦争の社会史786』)
海南新聞東学関係記事1895/03/--<1895/03/03-03/11 目下東学党の拠点は九月山か
海南新聞韓国関係記事1895/03/25<3/14発 黄州で東徒を撃退す

海南新聞韓国関係記事1895/03/15 鳳山の韓兵百五十と協力し 四日 (朝鮮北部)ギンパ付近の賊二百を撃退す 東徒の巣窟は長寿山の由 又九月山に集合の東徒は一千内外の由
海南新聞東学関係記事1895/03/15<3/8発 天皇、東学殲滅を賞賛、第19大隊に謁見

**********1895/03/11 京守発第四六号 臨着第一八九〇号
曩ニ東学党征討ノ為メ忠清道報恩付近ヘ派遣セシ立川特務曹長ハ其部下一小隊韓兵領官以下七五名日本巡査警部以下十六名韓巡査警部以下十一名ヲ率ヒ各地ニ於テ捕獲セシ東徒二百八名を銃殺若しくは懲戒し昨十日京城に帰着致し候 守備隊長馬屋原少佐→川上陸軍参謀次長殿 C06061431300
海南新聞東学関係記事1895/03/10<02/19 独立第19大隊司令官の取調べに対する全琫準の応答

**********1895/03/09 全軍に「我が軍は天明を待ち、前岸田庄台にある敵を攻撃せんとす。的は野砲数十門を備えたるを以て散兵距離を四歩以上をす。」との命令下る。
**********1895/03/06.07 歩兵第22連隊、最後の田庄台近くで滞在休養、牡丹雪の大雪。(『日清戦争秘録』167p)
**********1895/03 外務省より 朝鮮国各地へ尚我守備隊駐屯の件
第四六号 受領番号 朝密第一二二号 庁名 外務省
件名 朝鮮国各地ヘ尚我守備隊駐屯ノ件 提出 二十八年三月 外務大臣ヘ御回答案

朝鮮内地東学党再燃予防トシテ同国各地ヘ我守備隊配置ノ件親展第一二号照会之趣了承参謀総長及協議候処守備隊後来作戦上使用ノ方針已ニ一定シ他ニ使用余裕無之候得共井上公使申出モ必要之儀ニ付参謀総長ヨリ南部兵站監ヘ別紙之通訓令置候間同公使ヨリ直ニ同兵站監ヘ協議候様尚又同公使ヘ訓令相成度及回答候也 (別紙ハ参謀総長御回答ノ別紙ニ同シ) 密発第一一二号 三月二十四日 朝密第一二二号 臨発第一七七三号 朝鮮内地東学党再燃予防之為メ同国各地ヘ守備隊配置之件外務大臣ヨリ照会之趣了承然ルニ後備該隊ハ C06021929900
**********1895/ 後備歩兵独立第十九大隊の駐屯地は「朝鮮国竜山万里倉」であった。明治二十八年11月21日 参謀総長彰仁親王発 陸軍大臣侯爵大山巌宛 兵站総監報告通報に「七日朝鮮国竜山万里倉後備歩兵第十九大隊用廠舎(当時空家)一棟焼失」と記されている。現在のソウル駅裏(西)の万里洞であろう。C06060448100
「駐韓日本公使館記録」後備歩兵第十九大隊宿泊表
海南新聞韓国関係記事1895/03/0502/28 後備歩兵第十九大隊竜山へ帰着

**********1895/02/28 電報 二月二十八日 仁川発 釜山発 忠清道ハ平穏ニ帰シ目下顧慮ヲ要セサルヲ以テ山村大尉ノ率ユル諸隊ハ各任地ニ帰ラシメ東党ノ接主閔センコウハ公使館ニ護送セシム 〇後備歩兵第十九大隊ハ本日龍山ニ帰着シタリ 帰途禮山県に於て支那人十四名を捕縛し 公使館に護送す 支那人は商人の称し各市場を巡回し 支那軍艦十八艘仁川に攻め来り又倭軍は大敗し 近日支那の大軍朝鮮に来る抔 風説を為し韓民を扇動したる者なり 仁川今橋兵站監事務取扱→川上兵站総監 C06060319800
**********1895/02/12<<威海衛の清北洋艦隊、日本の連合艦隊に降伏

海南新聞韓国関係記事1895/03/31<02月07日~03月06日 第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書  2/28竜山帰着

********1895/03/11
京守発第四六号 臨着第一八九〇号 曩ニ東学党征討ノ為メ忠清道報恩付近ヘ派遣セシ立川特務曹長ハ其部下一小隊韓兵領官以下七五名日本巡査警部以下十六名韓巡査警部以下十一名ヲ率ヒ各地ニ於テ捕獲セシ東徒二百八名を銃殺もしくは懲戒し昨十日京城に帰着致し候・・・
**********1895/02/28後備歩兵第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書 
二十八日竜山へ帰着せり 此日各県分進の第一及び第二中隊の帰着せり 
**********1895/02/20 後備歩兵第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書
同廿日本隊に合し 
**********1895/02/19 後備歩兵第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書
二月十九日
公州に着
「駐韓日本公使館記録」(5) 大芚山附近 戰鬪詳報 (1895-02-18) 特務曹長 武内眞太郞

海南新聞韓国関係記事1895/02/16 全羅道南部に派遣せし鈴木大尉(注:後備歩兵第十連鈴木安民大尉と思われる)より去る五日宝城軍発左の如き報告あり 東徒鎮定に付中隊は明六日帰釜
海南新聞東学関係記事1895/02/16<02/05 全羅道南部農民軍殲滅作戦を完了

**********日清戦争の銃火器 歩兵工兵は明治十三年式(初速436m最遠射距離2400m)及び明治十八年式村田銃(初速を460mに改良)、騎兵輜重兵は村田式騎銃、野戦砲兵は七珊(センチ)半野砲または七珊半山砲、召集兵によって編成された後備歩兵隊はスナイドル銃(初速359m最遠射距離1800m)、後備騎兵隊はスペンセル銃を携行した。しかし実際は後備歩兵も村田銃を携行した。村田銃で射殺された清国兵は留丸のものが甚だ多かった。これは1000mまで逃げ去ったところで被弾したものが多かったということ。500m~600mの距離では骨を貫くからだ。(『日清戦争の社会史』116p) 松本城管理事務所研究室によると、火縄銃有効射程距離は50~60メートルで鉄砲戦を想定して築城した松本城の堀の幅は50~60メートルを意識して作られているという。
**********1895/02/15後備歩兵第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書
同十五日同所を発し 臨波 韓山 鴻山を経て 

海南新聞韓国関係記事1895/06/27<02/03の事件 後備歩兵第十九大隊阿蘇軍曹の虎狩

**********1894/02/14 後備歩兵第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書
二月十四日
午前第二時 亀伏里を発し 払暁沃溝県に到り 周囲を包囲し民家を捜索し 或は官吏を取糺せしも 支那人の滞在する者なし 依て仝日滞在  
**********1895/02/13 後備歩兵第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書
二月十三日
午后第一時三十分亀伏里へ着 
海南新聞東学関係記事1895/02/07<1894/11~1895/1第十九大隊中路分進隊兵士からの私信 軍路調査隊護衛桑原少尉小隊従軍兵の私信である。

**********1895/02/07 後備歩兵第十九大隊第三中隊赤松中尉の信書
出征以来韓地にありて
東徒の討伐に従事しつつある陸軍中尉赤松国封氏が宇和島なる家郷への信書を得たれば左に
二月七日 羅州を発し 高廠 興徳 古阜 扶安 万項の各県を経 東徒残徒を捜索しつつ 

1895/02/05
【後備歩兵第十九大隊進路】後備歩兵第十九大隊羅州に滞在 

1895/02/04
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州(滯) 第1中隊羅州(本隊ニ合ス)

1895/02/03
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) (韓)靈岩 第1中隊靈岩  第3中隊羅州(本隊ニ合ス) (韓)羅州(本隊ニ合ス)

1895/02/02
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) 第1中隊別辰驛  第3中隊靈岩 (韓)長興(滯)

(21) [長興 發 鈴木大尉의 第4回 戰況報告 移牒] 서번호 號外 발송일 1895년 2월 2일 (1895-02-02) 발송자 仁川兵站司令官 今橋知勝 수신자 特命全權大使 伯爵 井上馨

海南新聞韓国関係記事1895/02/02 北宇和郡明治村

1895/02/01
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

1895/01/31
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

1895/01/30
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

海南新聞韓国関係記事1895/01/30 第十九大隊長より東党二三千海南地方より珍島済州島に在りとの報告ありたり
1895/01/29
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

海南新聞東学関係記事1895/01/29<01/29付け 予備後備留守家族への生活援助

1895/01/28
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

1895/01/27
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) (韓)海南(第一中隊ト合ス) 第1中隊海南  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

海南新聞韓国関係記事1895/01/27 全羅南道、東学農民軍兵士を斬首、砲殺、梟首、打殺
1895/01/26
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) (韓)海南(滯) 第1中隊右水營(滯)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

1895/01/25
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:羅州(滯) (韓)海南 (支)右水營(第一中隊ト合ス)  第3中隊康津(滯)(韓)長興(滯)

1895/01/24
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯) (支)珍島府中(滯)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

1895/01/23
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯) (支)珍島府中(滯) (支)康津 (韓)長興(滯)

1895/01/22
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯) (支)珍島府中 (韓)長興(滯)

1895/01/21
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南 (支)珍島碧波亭 第2中隊康津 (韓)長興(滯)

**********1895/01/21<<後備歩兵独立第十九大隊第1中隊の一支隊は珍島まで殲滅作戦を及ぼした。珍島城内里など珍島各地で捜索と処刑を行い、25日に珍島対岸の港右水営に帰還。  (『甲午農民戦争と日本軍』(井上勝生)p362)

1895/01/20
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (日韓支)羅州(大隊ニ合ス) (支)海南(滯) 第1中隊康津 (韓)長興(滯)

1895/01/19
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) 第1中隊海南(滯) (日韓支)咸平(滯) (支)海南(第一中隊ト合ス)  第3中隊康津(滯) (韓)長興(滯)

1895/01/18
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (韓)海南(滯) (日韓支)咸平(滯) (支)康津(滯)
 第1中隊海南 (韓統衛ト合ス)  第3中隊康津 (韓)長興(滯)

1895/01/17
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (韓)海南 (日韓支)咸平(滯) 康津 第1中隊別辰驛 (韓)長興

海南新聞韓国関係記事1895/01/20<01/17発 後備歩兵第十九大隊桑原少尉報恩で東学党を攻撃

釜站報第2号 忠清道青山附近派遣隊の報告 長安(帳内)-鍾谷(戦闘)-報恩
レファレンスコード C08040509800
一 本月八日大邱発
青山附近ニ派遣セシ大邱守備中隊長三宅大尉ヨリ別紙報告到着セリ 右報告ス
明治二十八年一月二十五日於釜山 兵站兼碇泊場司令官伊津野千里 兵站総監川上操六殿

報告

一 明治二十八年一月八日午後七時 大邱兵站司令官伊津野少佐ヨリ洛東兵站司令官ノ協議ニ依リ永洞、青山間ノ東徒鎮圧ノ為メニ出張ス可キノ命ヲ受ケタリ 依テ部下一分隊ヲ引率シ即刻大邱ヲ出発セリ
二 同十日黄澗ニ着セシニ東徒ハ既ニ青山県ニ退却ノ旨曽ヲ出張セシ桑原歩兵少尉ヨリ報知アリ 下官ハ龍山ヲ経テ該地ニ向ヒ攻撃スヘキニ付 桑原少尉ニハ栗渓ヨリ青山ニ進ニ東徒ヲ攻撃スヘキ旨ヲ命シタリ

※永洞(永同であろう。忠清北道永同郡)/青山(忠清北道沃川郡)/龍山(忠清北道永同郡)/黄澗(忠清北道永同郡、龍山の東隣)
海南新聞韓国関係記事1895/01/22<01/17発 後備歩兵第十九大隊南隊長報告 全琫準を捕縛

海南新聞韓国関係記事1895/01/22 討伐隊長南少佐(※後備歩兵第十九大隊長)より左の報告ありたり 各分進隊をして賊を西南隅(※全羅道西南隅)に追撃中なり  キンカイナン、ゼンホウジュン(※東学農民軍指導者、金開南・全琫準)等の巨魁は已に縛に就く 
**********1895/01/17<農民軍指導者、全琫準、金開南らを逮捕。全羅北道淳昌郡北端・双置面避老マウルの居酒屋で嘗ての部下のキムギョンチョンの密告で捕まえられ日本軍(後備歩兵第十九大隊)に引き渡された。
**********1895/01/17 上席海軍参謀官 電報 一月十七日午後六時三十分仁川叢 同 同 同 七時二十分釜山叢 同 同 同 八時三十分着
討伐隊長南少佐ヨリ左ノ報告アリ
各分進隊ヲシテ賊ヲ西南隅ニ追撃中ナリ 尚ホ長興康津、海南ニモ残賊アリ 討減ニ着手ス キンカイナン(金開南) ゼンホウジユン(全琫準) ソンシブン ソウぶ゛ンシウ等ノ巨魁ハ 巳ニ縛ニ就ク 尚ほ 人民ヲ奨励シテ是等ノ魁賊ヲ捕縛スル事ヲ力ム 沿道各村落ノ人民ハ大ニ我軍ノ威徳ニ感スルモノ如シ 仁川 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C08040509700 C08040593600 

**********1895/01/17上席海軍参謀官 電報 一月十七日午前十時二十分仁川発 同 同 同 十一時釜山発 同 同 午後一時四十分着
洛東飛島井少佐ノ報ニ依レハ当地方ヨリ報思附近ニ向ヒタル我兵ハ 十二日午後十時夜襲シテ賊ヲ破リ 翌前七時更ニ進テ攻撃シ 同九時ニ至リ賊北方ニ潰走セリ 此役桑原少尉(後備歩兵第十九大隊・軍路調査隊護衛)微傷 東徒死傷数百 分捕牛馬数十 武器数多ナリ 仁川 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C08040509600 C08040593700 

海南新聞東学関係記事1895/01/17<01/17付 朝鮮政府訓練軍大隊の編成

1895/01/16
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (日韓支)咸平(滯) (韓)長興 第1中隊靈岩 第2中隊海南(滯)

「駐韓日本公使館記録」(4) 東學黨鎭定後再燃豫防ノ爲メ當分ノ間我兵ヲ各要地ニ分屯ノ義ニ付上申

문서번호 機密發第五號 발송일 明治二十八年一月十六日 (1895-01-16) 발송자 特命全權公使 伯爵 井上馨 수신자 外務大臣 子爵 陸奧宗光
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陸軍參謀 土屋光春
수신자 陸軍砲兵少佐 楠瀨幸彦

東學堂鎭撫ニ就キ御意見參謀總長ヘ御呈出相成候處右ハ左記ノ理由ニ因リ先ツ當分目今ノ有樣ニ据置キ結果ヲ見ラレ候事ニ相成候ニ付御含迄申進候也
第一項 守備隊分屯ノ件ハ必要ナキ見込ナリ其故ハ東學黨討滅ノ爲メ曩ニ特ニ後備步兵第十九大隊ヲ各道ニ派遣シ沿道所在ノ賊徒ヲ擊破シツゝ前進シテ今ヤ旣ニ全羅道地方ニ達セリ故ニ日ナラスシテ主ナル賊徒ハ之ヲ討滅スルヲ得ン果シテ然ル上ハ兵站線路上ノ各守備兵ヲ增加シ線路外ニ於ケル地方ニシテ賊徒ノ巢窟タル各地點ニハ朝鮮兵ヲ駐在セシメハ恐ラクハ賊徒ノ再燃ヲ防クニ足ラン又一方ニハ我軍隊ヲ兵站線外ニ駐屯セシメンニハ給養上宿舍上ニモ多少ノ關係アリ俄ニ之ヲ斷行スルヲ得ス故ニ暫ク將來ノ景況ヲ觀察シテ是非地方ニ分屯セシムルノ必要アレハ其時ニ於テ更ニ詮議セラレン事ヲ望ム
**********1895/01/16 忠清道青山報恩付近二或東徒ハ洛東大邱ノ守備兵ヨリ一分隊宛ヲ派遣シ三宅大尉ノ指揮ニテ測量護衛隊ト協力シテ彼レヲ攻撃シ三百余名ヲ殺@シ解散セシメタル旨報告アリタリ 釜山 今橋兵站司令官 川上兵站総監 C06060273500


海南新聞東学関係記事1895/01/16<01/16付 東学軍に百名規模の死傷相次ぐ 第十九大隊未だ到着せず

1895/01/15
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (韓)海南 (日韓支)咸平 (韓)寶城(滯) 第1中隊東倉 第2中隊海南(韓兵統衛ト合ス) 海南(第三中隊ト合ス)

海南新聞韓国関係記事1895/01/15 東学農民軍指導者殺戮が続く
明治廿八年一月五日軍艦筑波は全羅道光陽県沖錨地より光陽県分遣隊を派し 左の東学党首級及死体を実検せしめたり
嶺湖大接主、嶺湖首接主 右二人は梟首しありたり 光陽県鳳岡接主 朴興西 其他四十名は砲殺しありたり
順天府臆底接主   金△哥 其他四人は捕縛しありたり
                      

**********1895/01/14 明治28年 1.14 臨着1467号 京城守備隊馬屋原務本少佐発 大本営陸軍参謀次長川上操六宛 忠清道報恩附近東学党蜂起勢猖獗に因り征討の為め部隊派遣せしむ

大本営陸軍参謀 川上中将殿 今回忠清道報恩附近東学党蜂起 勢猖獗ニ因リ為征討左ノ部隊ヲ派遣セシム当守備隊ヨリ一小隊韓兵五拾名日本巡査頚部以下拾六名韓巡査警部以下拾壱名右ハ昨十三日仁川ヨリ出発ノ一小隊ト・・・C06061288700
海南新聞東学関係記事1895/01/30<01/15 第十九大隊第一第二中隊全羅道西南部で東学党を攻撃
1895/01/14
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (韓)孟浦(滯) (日韓支)咸平(滯) (韓)寶城(滯) 第1中隊綾州(滯) 第2中隊康津 (支)長興(滯)

1895/01/13
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (韓)孟浦(滯) (日韓支)咸平(滯) (韓)寶城(滯) 第1中隊綾州(滯) 第2中隊七良長周 (支)長興

1894/11/03~1895/01/13
海南新聞韓国関係記事 1895/02/02付け < 軍路調査隊護衛第十九大隊桑原少尉隊従軍兵からの私信
**********1894/11/09日-13日 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
九日 金山に於て我一小隊に帰着 東徒報恩付近に勢力を張り居るに付 我小隊 洛東兵站部 大卯兵站部兵 会併して之に向ひ居りしに依り 小生等 直に之に追付き 鐘谷に於て劇戦 賊魁 鄭大視 準圭皋二名を殺し 東兵六十余名を殺す 我兵死傷なし 此戦は実に十三日(一月十三日即ち発信の前日)なりし                           (完)
「駐韓日本公使館記録」(4) 鍾谷附近 戰鬪詳報 (1895-01-13) 少尉 桑原榮次郞(注:後備歩兵第十九大隊第2中隊小隊長)

海南新聞韓国関係記事1895/01/13<1/13発 筑波艦長報告 順天方向の形勢は一変

海南新聞韓国関係記事1895/01/10<12/01(1895)の記事 井上公使の脅迫

「駐韓日本公使館記録」1895-01頃 1) [任實縣監 閔忠植 護送途中 逃亡件]

1) [任實縣監 閔忠植 護送途中 逃亡件]
任實縣監閔忠植ハ東學黨ト結托シ 賊魁全琫準等ト間諜ノ事跡顯著ナル趣ヲ以テ 捕縛護送云々 □□二十八日付貴案昨七日右護送兵着京收閱致シ候 然ルニ同護送兵ノ申立ニ據レハ 該犯護送ノ途次去ル四日天安郡ニ宿泊ノ際 翌五日天安四時五十分頃彼便所行キヲ申出タルニ因リ當番兵一名附キ添ヒ厠ニ往キタル處 彼留守ノ隙ヲ窺ヒ逃逸セシ趣ニ候依レハ 右逮捕方互ニ當國軍務大臣ヘ照會シ 天安郡守ハ勿論同郡最寄地方官ヘモ爲念搜索方電令候樣申置候 尙ホ該犯逃ノ顚末ニ付テハ當館附楠瀨少佐ニ於テ當時ノ留守人取調ノ上 手續書ヲ徵シ詳細同官ヨリ直ニ貴官ヘ報告可致置候旨有之候間有之候樣御承知相成度此段回答旁申進候

海南新聞韓国関係記事1895/01/10<1/8発 筑波艦長報告 全羅道の東学党指導者殺さる 
海南新聞東学関係記事1895/01/09<1/10 全羅道の東学軍百万人、など(明治28年1月9日~10日)

海南新聞東学関係記事1895/01/09<1/8 全羅道東軍西路分進隊の動向 軍艦筑波艦長報告 

1895/01/12
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:羅州(滯) (韓)木浦(滯) (日韓支)咸平(滯) (韓)寶城 第1中隊綾州(滯) 第2中隊大興面 第2中隊大興面(第三中隊ヲ合ス)

1895/01/11
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州(滯)(韓)木浦(滯)(日韓支)咸平(滯)(韓)樂安(滯) 第1中隊綾州(滯)(支)古邑面(支)玉山村(★戦闘))

1895/01/10
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:羅州(滯) (韓)木浦(滯) (日韓支)咸平(滯) (韓)樂安 第1中隊綾州(滯) 第2中隊長興

1895/01/09
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:羅州(滯)(韓)木浦(日韓支)咸平(滯)(韓)順天 第1中隊綾州(滯) 第2中隊 第2中隊康津(支)長興(滯·戰)

**********1895/01/09 電報 一月九日午前八時五十五分 釜山発 十一時着
大邱、洛東ノ守備兵一分隊ツツヲ金山方位ヘ派遣シ軍路測量ノ護衛隊ト協力シ忠清道永同青山付近ニ在ル暴徒ヲ攻撃スル旨洛東、大邱ヨリ報告アリ 釜山 今橋兵站

1895/01/08
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (韓)務安(滯) (日韓支)咸平(滯) (韓)光陽(滯) 第1中隊綾州(滯) 第2中隊靈岩 長興附近(★戦闘)) (支)長興

**********1895/01/08 忠清道黄澗永同付近ニ賊徒再ヒ集合稍ヤ猖獗ヲ極ムルモノの如シ 為メニ軍路調査隊ハ測量を中止ス 護衛兵隊長桑原少尉ハ金山ヨリ進ミテ之ヲ討タントス 依テ急ニ洛東ヨリ守備兵二分隊ヲ派遣シ之カ応援ヲ為サシム  仁川 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06060271900 (非掲示電報として C08040508900) C08040593200
**********1895/01/06 明治28年 1. 6 臨着1408号 京城守備隊長馬屋原務本発 大本営川上陸軍参謀次長宛 朝鮮国訓練隊創立幹部等となるべき見込の者30余名教育着手に付報告
臨着第一四〇八号 今回朝鮮国制度改革ニ伴フテ従来ノ兵式一変セントスル場合ニ立至リ不取敢訓練隊ト名クル一大隊ヲ創立ニ決定シ該隊ノ幹部及将来武官トナルヘキ見込ノ者共ニ三十余名ノ教育着手致候間此段及報告候也 C06061283500

**********1895/01/08<<後備歩兵独立第十九大隊、及び後備歩兵第10連隊第四中隊は東学農民軍と長興、康津の戦いを展開し、東学農民軍の「屍の山」を為した。この後農民軍は逃走態勢に入る。
1895/01/07
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:羅州(滯) (韓)務安 (日韓支)咸平(滯) (韓)光陽(滯) 第1中隊綾州(滯) 第2中隊兵營 (支)朝陽(★戦闘)) (支)乾山(★戦闘))(本營内戰)

「駐韓日本公使館記録」(7) [東學黨首魁 逮捕時 이를 日本軍에 引渡토록 措置 요망] 後備步兵獨立十九大隊長より 受信日同午後七時接 (1895-01-07) 受信者 公使 井上

(7) [東學黨首魁 逮捕時 이를 日本軍에 引渡토록 措置 요망] 同午後七時接
淳昌ニテ後備步兵獨立十九大隊長 yori

井上 公使
全琫準金介男ハ縛ニ就ケリ其他賊魁續々縛ニ就ク匪魁捕縛スルトキハ征討軍ニ送ルコトヲ監司ニ御下命アリタシ 然ラサレハ善惡トモニ直ニ殺ス故公命ヲ達スル能ハス
○參謀官招募官別軍官ハ早ク廢セラレタシ是等ハ騷亂ニ乘シ民ヲ暴ラスノミ ○平定後ハ地方ノ狀況其ノ他具申シタキコトアリ故ニ隊長副官ハ京城ニ至ルベク伊藤ヲ命官ノ命アル樣願ヒタシ
「駐韓日本公使館記録」(5) [捕獲 東徒魁首의 征討隊送交 및 參謀·招募·別軍의 召還 요청] (1895-01-07)伯爵 井上馨より 大臣 金へ
1895/01/06
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州 (韓)務安 (日韓支)咸平(滯) (支)栗里 (支)綾州(滯)(支)靈岩(支)元亭面(支)石峙(韓)光陽

1895/01/05
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:羅州 (日韓支)咸平 第1中隊綾州(滯) (韓)北倉(滯) 第2中隊羅州

1895/01/04
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:柳林村 (日韓支)加里 第1中隊綾州(滯) (韓)北倉 第2中隊東園里

「駐韓日本公使館記録」(4) [金介男(=金開南)의 斬首經緯에 대한 回示 요청] (1895-01-04)伯爵 公使 井上より
1895/01/03
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:光州 (日韓支)靈光(滯) 第1中隊同福 (韓)栗峴洞 第2中隊劍孫里(滯)

1895/01/02
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:潭陽 (日韓支)靈光(滯) 第1中隊玉果 (韓)求禮(滯) 第2中隊劍孫里(滯)

1895/01/01
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:淳昌(滯) (日支)靈光 第1中隊谷城(滯) (韓)求禮 第2中隊劍孫里(滯)

**********1894/01/01 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
翌明治二十八年一月一日谷城に着し 護送の防寒衣を渡す この日韓人の手にて十八名を殺す 或は打殺 或は火殺 其残酷さ見に忍びず
翌日 出発

明けて1895(明治28)年

1894/12/31
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:淳昌 (日韓支)茂長(滯) (日韓支)淳昌(滯)(本隊ニ合ス) 第1中隊谷城 (韓)谷城 第2中隊劍孫里

**********1894/12/31  後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
三十一日 南原に着せし徒党に南原の兵已に谷城(※南原南南東)にを出発せし後なりしにより 
1894/12/30
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)東路軍(第1中隊)合体宿泊地:南原(滯) 第2中隊長城(滯) (日韓支)淳昌(滯) (日韓支)茂長(滯)

「駐韓日本公使館記録」(23) [東匪討伐報告狀等의 上奏要請] 발송일 我十二月三十日 (1894-12-30) 발송자 伯爵 井上馨

1894/12/29
【後備歩兵第十九大隊進路】中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:南原 第2中隊長城(日韓支) 淳昌(日韓支)茂長  /東路軍(第1中隊)宿泊地:南原(本隊ニ合ス)

**********1894/12/29 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 
廿九日 安義に着す 此辺いったい 東徒の疑ひある処にして 時に我に向て発砲するものあり 人民皆鎗銃を携へ 不穏の景状あり 処々の番小屋を構え 数百人之に居る 途中最も疑問なりしは 処々の岩石に萬暦何年倭兵討伐云々と彫刻せるものあり 字古くしてコケを生じ見え兼る程なり 察するに豊公征韓の時劇戦の跡ならんか
1894/12/28
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:獒樹驛 第2中隊大興 (日韓支)雙岩里 (支)南原 (日韓支)高敞  /東路軍(第1中隊)宿泊地:南原(滯)

「駐韓日本公使館記録」2) [任實縣監 閔忠植 罪狀書] 発送日 明治二十七年十二月二十八日 (1894-12-28) 発送者 後備步兵獨立第十九大隊長 南小四郞 受信者 特命全權公使 伯爵 井上馨 :任實縣吏等ヲ取糾之候處右縣監最初ヨリ東學黨ト結托シ賊徒全州ヲ攻擊スル時モ全琫準金介男等ノ巨魁ト同行シテ東學黨ノ謀者ナリ
「駐韓日本公使館記録」 (1894-12-28)발송자 後備步兵獨立第十九大隊長 南山四郞 수신자 特命全權公使 伯爵 井上馨
2) [意見具申]
東學黨ハ一時勦滅スルモ各地方ヲ撫育シ得ル丈ケノ知識アル縣官ヲ御配布不相成ラハ亂民ヲ鎭定スル事不能ノ事實ニ付至急地方官ノ改任アラン事今日ノ急務ト存候間別紙意見書相添此段申進候也
明治二十七年十二月二十八日
後備步兵獨立第十九大隊長 南小四郞印
特命全權公使 伯爵 井上馨 殿
「駐韓日本公使館記録」2) [任實縣監 閔忠植 罪狀書] 발송일 (1894-12-28) 발송자 後備步兵獨立第十九大隊長 南小四郞 수신자 特命全權公使 伯爵 井上馨

海南新聞韓国関係記事1894/12/28 公州鎮圧後備歩兵第十九大隊全羅道へ移動
海南新聞韓国関係記事1894/12/28<12/26発 後備歩兵第十九大隊西路分進隊公州を鎮圧

「駐韓日本公使館記録」明治二十七年十二月二十八日 (1894-12-28) 発送者 後備步兵獨立第十九大隊長 南山四郞 受信者 特命全權公使 伯爵 井上馨 :地方官を改任されたし
1894/12/27
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:任實 第2中隊長城 (日韓支)雲巖店 (支)魯唐店 (日韓支)興德  /東路軍(第1中隊)宿泊地: 南原(滯)  

**********1894/12/27 電報 東学党討伐隊ハ全羅道ニ進入スルモ未タ鎮定ノ報ヲ得ルニ至ラス 時季ハ既ニ厳寒ニ向フ 前途ノ益々困難ナルヲ憂ヒ今橋少佐ト協議ノ上釜山ヨリ更ニ一中隊ヲ順天ニ向ウテ進メ共ニ協力速ニ討滅セシムルコトニ決セリ 此兵は来る三十日釜山を出発せんとす 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06060055100 C08040508500

1894/12/26
【後備歩兵第十九大隊進路】中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:萬馬關 第2中隊川原(滯) (支)長水(滯) (日韓支)古阜 (日韓支)新洞  /東路軍(第1中隊)宿泊地:南原

「駐韓日本公使館記録」我十二月二十六日 (1894-12-26) 발송자 伯爵 井上馨(24) [日本筑波艦의 全羅左水營 東匪擊退에 관한 電報]

**********1894/12/26 軍八(16)十二月二十六日 ○筑波ノ陸戦隊東党ヲ撃退ス 一軍艦筑波陸戦隊左水営ニ於テ東徒ヲ撃退し 十九大隊ハ三道ヨリ全羅ニ進シタルノ報アリ  左水営碇泊 黒岡筑波艦長→大本営 C08040469200
「駐韓日本公使館記録」(27) [文岩邑 東學首魁 崔法軒과 淸州東學徒로부터 奪取한 書類送付] 발송일 明治二十七年十二月二十六日 (1894-12-26) 발송자 軍路調査護衛隊小隊長 陸軍步兵少尉 森原榮次郞 수신자 大日本公使館
1894/12/25
【後備歩兵第十九大隊進路】 中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:全州(滯) 第2中隊川原 (支)長水(滯) (日韓支)井邑  /東路軍(第1中隊)宿泊地:雲峰

「駐韓日本公使館記録」明治二十七年十二月二十五日 (1894-12-25) 発送者 後備步兵獨立第十九大隊長 南小四郞 受信者 特命全權公使 伯爵 井上馨 :
今ニ至ル迄賊徒ノ巨魁ヲ捕縛スルヲ得サルハ實ニ遺憾トスル處ナリ

海南新聞韓国関係記事1894/12/25 全羅道、東学農民革命軍の攻撃激し
海南新聞韓国関係記事1894/12/25<12/21発 第十九大隊慶尚道西部へ進出(中路分進隊か)
**********1894/12/25 電報 討伐応援トシテ仁川ヨリ洪州地方ヘ派遣シタル中隊ノ内洪州ニ留メ置キタル一小隊ハ本日龍山ニ帰着ス 同小隊長齋藤少尉ノ筆記報告ニ依レハ 同地方ニハ賊再挙ノ憂ナク 又西路行進隊ハ全羅道ニ進入シ公州附近ハ最早顧慮を要せざるものの如し 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06060054700 C08040508300

1894/12/24
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:全州(滯) (支)泰仁(本隊ニ合ス) (支)長水 /東路軍(第1中隊)宿泊地: 支隊: 咸陽

**********1894/12/24  電六(16) ○筑設ノ陸戦隊東学党ヲ撃退ス  固城県統営、港碇泊中 東学党多数全羅道左水営ヲ囲ム 危機切迫シタル故去ル十九日三道水師提督及ヒ左水営ヨリ本官ニ助力ヲ乞フ 昨二十二日我軍艦ヨリ陸戦隊ヲ上ゲ左水営ヨリ北三里順天府「カンカトクヨウリ」ニ於テ東学党ト戦ヒ是レヲ追払ヒ 敵ハ死体二個 大砲ニ門 牛馬四匹 旗及書類ヲ残シ置キ敗党セリ 我兵死傷ナシ 敵ノ俘虜一名アリ 目下当地ニ我漁夫十七名滞在シ居レリ 又此附近ニ水産生籏場アリ 左水営碇泊 黒岡筑波艦長
**********1894/12/24 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
廿四日(善山より) 三本軍曹は兵十三名を率ひて 全州に 小生は兵七名を率ひて南原に防寒衣護送の命を受く 道は東徒の巣窟なれば十分の警戒を加へ 知礼に至るころより 寒威甚しく 河海皆氷結し 口髭鼻息の 為めに氷りて銀線となり 背に負ふ行李の弁当 凍りて食むべからず 

1894/12/23
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:全州(滯) (日韓支)泰仁(滯) (支)長溪店  /東路軍(第1中隊)宿泊地:安義

1894/12/22
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:全州(滯)  (日韓支)金溝(滯)  (支)安城場市  /東路軍(第1中隊)宿泊地:居昌

「駐韓日本公使館記録」1894-12-22 [京城으로 警部·巡査 증파의 件]
「駐韓日本公使館記録」(7) 公州附近 戰鬪詳報 발송일 明治二十七年十一月二十二日 (1894-11-22) 발송자 大尉 森尾雅一

海南新聞韓国関係記事1894/12/22 忠清道の東学農民革命軍撃退される
1894/12/21
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:全州 (滯)(日韓支)金溝(滯)(★戦闘)) (支)茂朱(滯)  /東路軍(第1中隊)宿泊地:新昌

**********1894/12/21 電報 釜山発 全羅道左水営ヨリ当地管理衛門ヘノ報知ニ依レハ
去ル十七日東徒約千名左水営ニ襲来シ 営兵ト戦フ 営兵ハ三百名許ニテ防禦学束ナシ 該地ノ民家ハ皆焼カレ人民ハ逃走セリ 又順天府ハ東徒ノ暴行酷シク 府使ハ殺されたり 順天に在る東徒の首領は「キンジンバイ、テイウコウ」の二名にて全羅道は目下至る処東徒の暴行酷しと 十九大隊の目下の所在当地にては分からざるも推測に依れば一中隊は慶尚道の西部に達せしならん ・・・ 釜山今橋兵站司令官→川上兵站総監 C06061859400
「駐韓日本公使館記録」(21) [東徒 500餘名 松坡鎭分院附近 集結件 및 民團·東徒區別必要 回答] (1894-12-21)
金允植より
「駐韓日本公使館記録」(22)発送日不明朝鮮國 忠淸道 永春 南川村에 居住하는 東學黨 安昶恒

**********1894/12/21 電報 十一月二十七日付在公州森尾大尉(中隊長)ノ筆記報告ニ依レハ西路分進中隊ハ十一月二十一日公州ニ達シ其東南ニ在リシ数万ノ賊徒ト交戦シ之レヲ撃退ス 翌二十二日未明ヨリ彼レ再ヒ攻撃シ来ル我兵之レヲ拒キ手後一時頃隊ニ ・・・
伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06060051100
1894/12/20
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:全州 (韓日支)東之同(全州ニ於テ本隊ト合ス)  (支)茂朱(滯) (韓日支)金溝
東路軍(第1中隊)宿泊地:知禮
海南新聞韓国関係記事1894/12/20<12/19発 第十九大隊分進隊(西路か)清州南方での戦闘

「駐韓日本公使館記録」1894-12-20井上公使より陸奥宗光外務大臣へ[東學黨鎭壓ノ模樣報告]
海南新聞韓国関係記事1894/12/20 海美瑞山方面の東学農民革命軍撃退される 後備歩兵第十九大隊小隊も忠清道で農民軍撃退
1894/12/19
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:參禮(滯) (支)茂朱  /東路軍(第1中隊)宿泊地:金泉

**********1894/12/19 電報 討伐隊応援トシテ曩に仁川ヨリ洪州ニ派遣ノ中隊ハ 一小隊ヲ暫ク同地ニ留メ 余ハ皆今日仁川ニ帰リタリ 去ル十日公州発森尾大尉(中隊長)ノ筆記報告ニ拠レハ 中隊ハ去ル五日、六日利仁附近ノ賊ヲ討チ此賊ハ魯城ニ向テ退ケリ・・・去る十一日電報せし三縦隊に下したる命令は恩津県に於て伝達せりと洛東より報国あり
 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06060053700
1894/12/18
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:參禮(支) 東之同 (支)械亭里 (支)高山 (支)益山 /東路軍(第1中隊)宿泊地:開寧

「駐韓日本公使館記録」(6) [日軍의 東學徒 擊退에 대한 感謝回答] 발송일 甲午十一月二十二日 (1894-12-18) 발송자 金允植
海南新聞韓国関係記事1894/12/18<12/1京城守備隊長馬屋原少佐の報告 江原道南部での東学党攻撃

1894/12/17
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体宿泊地:恩津(滯) (支)龍安 (支)舒川 (支)錦山(滯) (支)益山  /東路軍(第1中隊)宿泊地:功成

**********1894/12/17 電報 仁川発 釜山発 仁川ヨリ応援トシテ派遣ノ中隊ハ公州(洪州乎)ニ在リ海美方面ニ遁レタル賊ノ再挙ヲ謀ルヲ知リ去ル五日支隊ヲ進メ賊数百名ヲ捉ヘ五十余名ヲ殪ス 此支隊ハ九日公州(洪州乎)ニ帰リ暫ク此地ニ滞在せしめ 付近の急に応ぜしむ○中隊は十日公州(洪州乎)を発し 海美瑞山を経て 泰安に至り 当該地方の義勇兵を使用し 賊を半島に押し込み 数百名を捕らえ三十名余を殪す・・・ 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06061858600
**********1894/12/17 電報 軍路調査隊ノ一行及護衛トシテ派遣セル桑原少尉ノ小隊ハ一日洛東ヲ発シ京城ニ向テ還ル 途次六日青山ニ達シタルニ附近ニ若干ノ暴徒アリ之ヲ撃退ス 八日文義ヲ発シ清州ニ着ス 十日同地発ノ筆記報告ニ依レハ八日ノ文義方向より数万の賊清州に向ひて進み来るとの報に接し 応戦の準備をなし 九日午前愈々彼の前進を聞き 清州付近の要地を戍り 之れを撃破す 賊の死者二十余名 負傷者無数 我兵死傷なし・・・中路にありたりし南少佐及其部下公州の方位に進み西路の隊と合したるものの如し   伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06061858700
**********1894/12/17 電報 軍路調査隊ノ一行及護衛トシテ派遣セル桑原少尉ノ小隊ハ一日洛東ヲ発シ京城ニ向チ還ル 途次六日青山ニ達シタルニ附近ニ若干ノ暴徒アリ之ヲ撃退ス 八日文義ヲ発シ清州ニ着ス十日同地発ノ筆記報告ニ依レハ 八日ノ夜・・・ C06060053300
**********1894/12/17 電報 仁川ヨリ応援として派遣ノ中隊ハ公州(洪州乎)ニ在リ 海美方面に遁れたるル賊ノ再挙ヲ謀ルヲ知リ 去ル五日枝隊を進めノ賊数百名ヲ捉ヘ五十余名ヲ殪す 此支隊ハ九日公州(洪州乎)ニ帰リ暫ク此地ニ滞在セシメ 附近ノ急・・・C06060053400
1894/12/16
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)中路軍(本隊・第3中隊)合体 宿泊地:恩津(滯) (支)韓山 (支)錦山 (支)高山(滯) /東路軍(第1中隊)宿泊地:尚州
海南新聞韓国関係記事1894/12/14 井上馨公使、韓廷に対し 草を分けて東学党を捕縛し其頭領分を悉く誅戮すべしとまで申し込みし由
1894/12/15
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:恩津 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地: 恩津(滯) (支)高山(滯) (支)林川  /東路軍(第1中隊)宿泊地: 台封

1894/12/14
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地: 華軒 (支)恩津 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:恩津(滯) (支)高山(★戦闘)) /東路軍(第1中隊)宿泊地: 聞慶 亦全羅地方ノ賊徒ヲ討伐スペキ事ヲ命セラル

「駐韓日本公使館記録」高山縣附近 戰鬪詳報

발송일 明治二十七年十二月十四日 (1894-12-14) 발송자 中尉 白木誠太郞

一. 粟谷邑戰鬪後賊徒ノ退却方向ヲ確認スルヲ得ス故ニ枝隊ノ目的通リ高山縣ニ到リ任務ヲ全フセント欲シ十二月十四日午前八時高山縣ニ向テ前進ス
二. 十四日午前十時高山縣ニ達ス同縣ノ周圍ヲ包圍シ縣內ヲ搜査セシニ縣官居民共ニ在ラズ依テ縣舍ノ近傍ニ宿舍セントセシニ午前十一時賊徒五六百名北方ノ山上ヨリ襲擊シ來リ其勢甚タ猛烈ナリ枝隊之ニ當ラント欲シ縣ノ北端ニ集合ス
三. 賊徒ハ枝隊ノ集合ヲ見ルヤ一齊射擊五六回ヲナシ其彈丸我ニ達ス故ニ日本兵ヲ中央ニナシ韓兵ヲ左右ニシテ散開セシム賊徒ハ中央ニ向テ頑剛ナル抵抗ヲナセリ該ニ於テ中央ナル日本兵ハ奮進シテ敵陣ニ迫ル敵兵二三名殪ルヽヤ馬匹旗火藥等ヲ棄テ退却ヲ始メタリ韓兵ハ此勢ニ乘シ馳走シテ山上ニ登リ全ク敵ノ陣地ヲ占領ス時ニ午后一時
四. 韓兵ヲシテ遠ク追擊セシニ賊徒ハ多ク礪山方向ニ退却セリ

彼我死傷 我軍 ナシ 賊徒 死者十六名 傷者未詳
分取品 火藥 約十貫目 火繩銃 十挺 鎗 六本 旗 拾本 馬 四頭

馬ハ駄馬用トシ其他ハ燒失火藥ハ水中ニ投セリ

費消彈藥
日本兵 百四十發 韓 兵 千七百四十七發 計 千八百八十七發

(20) [大院君が密派した崔文汝の義兵召集件および徐相龍の釜山への脱出件に関する調査要請] (1894-12-14)杉村濬より兪 都憲あて

1894/12/13
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地: 公州  (支)連山  /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:恩津(滯)  (支)栗谷邑附近(★戦闘))

「駐韓日本公使館記録」粟谷邑附近 戰鬪詳報 발송일 (1894-12-13)
발송자 中尉 白木誠太郞 (中路軍)

(10) 粟谷邑附近 戰鬪詳報 明治二十七年十二月十三日 中尉 白木誠太郞
一. 十二日ノ戰鬪ニテ賊徒ハ四方ニ散亂シ其踪跡ヲ知ル能ハス故ニ技隊ハ目的通リ高山縣ニ向テ進發ス
二. 同日午后三時頃粟谷邑東方約二百米突ノ處ニ於テ高山縣ヨリ來ル土人ヲ捕ヘ糺問スルニ同邑ニハ賊徒ノ火藥製造所アリ四方ニ哨兵ヲ出シ三十四名ニテ製造シ居ルト
三. 火藥製造ノ如キハ叨リニ近接シテ射擊スル時ハ爆發ノ恐レアリ依テ前衛タリシ韓兵ヲ止メ日本兵ノシテ以テ襲擊ニ任シ宮本少尉之ヲ指揮ス韓兵ハ同邑ノ入口ニ止メ射擊ノ準備ヲナサシム襲擊隊ハ急ニ哨兵ヲ襲フ之ヲ以テ賊徒ハ後方ノ山ニ據ル製造所ニ射擊スルヲ禁シ山上ノ賊徒ヲ擊退ス同三時五十分全ク製造所ヲ占領シタリ
四. 製造所ハ大ナル茅屋ニシテ巧ニ之ヲ隱匿セリ材料器械モ多少具備ス且ツ硝石若干ヲ製シ居レリ然レトモ近日創設ニ係ルヲ以テ貯蓄ノ火藥ナシ (器械ハ破壞シ硝石ハ水中ニ投ス)
五. 賊徒ハ不意ノ襲擊ニ遇ヒ狼狽シテ遁走セリ二名ノ賊徒ハ同製造所ノ一隅ニ潛ミ居リテ我兵同所ニ入ルヽヤ鎗ヲ以テ抵抗セルモノアリ
彼我死傷者
我軍 ナシ 賊徒 死者十一名  傷者未詳 費消彈藥 本兵 百六十發



海南新聞韓国関係記事1894/12/13 慶尚南道で東学農民革命軍殺戮続く
**********1894/12/12 電報 仁川発 釜山発
東路分進中隊ニ★★??★★可与興ヨリ永春附近ニ進入シタル後未タ南進セス 又中路及西路ノ隊モ尚公州附近ニアリテ前進ヲ躊躇スルモノノ如ク敏活ノ運動ヲ為スニ至ラス 故ニ再ヒ井上公使ト協議ノ上更ニ三縦隊に左の命令を下せり 東路分進隊は堤川付近の賊を打つ事を京城より派遣せし中隊に任せ、之に顧慮せず開寧 金山 居昌を経て咸陽 南原 に向ひて前進すべし 中路及西路分進隊は全州茂朱知禮の線まで前進、東路分進隊が居昌に進むを待ちともに賊を全羅の西南に押し込み討伐することを謀るべし 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06060048200
海南新聞韓国関係記事1894/12/13<12/1 慶尚道西南部での討伐作戦 幼児銃殺もあり

1894/12/12
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:龍水幕附近 (支)鎭岑 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地: 恩津 鎭安(★戦闘))

「駐韓日本公使館記録」
鎭安縣附近 戰鬪詳報 (1894-12-12) 中尉 白木誠太郞

海南新聞韓国関係記事1894/12/12<12/17 軍路調査隊護衛の第十九大隊一小隊清州・瑞山で東学党殲滅作戦

1894/12/11
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:論山★戦闘)) (支)破軍里 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地: 魯城 農山村附近(滯)

「駐韓日本公使館記録」
論山 戰鬪詳報 (1894-12-11) 大尉 森尾雅一

海南新聞韓国関係記事1894/12/11<12/8公州にある中隊(後備歩兵第十九大隊第三中隊と見られる)を強化

海南新聞韓国関係記事1894/12/11 魯城 敬天の東学農民革命軍攻撃準備 後備歩兵第十九大隊と応援部隊
1894/12/10
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯)  (支)芙江/中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地: 連山★戦闘)) (支)農山附近(★戦闘))

「駐韓日本公使館記録」
連山戰鬪詳報 (1894-12-10)大隊長步兵少佐 南小四郞 発

「駐韓日本公使館記録」
農山附近 戰鬪詳報 (1894-12-10) 中尉 白木誠太郞

**********1894/12/10 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
翌十日 出発 文義に折返し 是れより増若(※大田東)、沃川(※大田東)、永同(※大田・金泉中間)、黄澗(※ 秋風嶺西 )を経て善山(洛東兵站司令部南)に達し六日間滞在
**********1894/12/10 攀家台の遭遇戦 「第二十二連隊が日清戦争に於ける最大の苦戦であり、多くの戦死者、不具者を出した。(この日配給された)新しい外套こそ死出を飾るものとなった。132p ・・・これに加え、彼は無煙の連射砲銃を使用する者その三分の一を絞め、武器といい、地利といい、兵力といい、我に勝ること数倍以上である。我は一個連隊(2400余人)とは名ばかり・・・凍傷者のため戦闘力を滅殺せられ残数僅に1500余名である。・・・敵は精兵と称すべきもの三千余・・・」134p 「だんご・・・お父さんを助けてくれた支那兵の冥福を祈りましょう」145p (『日清戦争秘録』)
1894/12/09
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地: 公州(滯)  (支)靑大橋 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:連山  (支)龍潭

「駐韓日本公使館記録」淸州附近 戰鬪詳報 (1894-12-09) 少尉 桑原榮次郞
**********1894/12/09 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
翌九日 小生等命を受けてモランボン山方向に向て斥候す 敵兵知りて公州方面に退却す
「駐韓日本公使館記録(1894-12-09)발송자 朝鮮京城 日本公使館附

(32) 東學黨鎭撫ニ付意見
第一. 守備兵分屯之件
今日迄東學黨ノ景況ヲ見ルニ隱顯常ナク一時ハ全ク靜穩ナルモ忽チ各所ニ蜂起スル等招討使出發ノコトアリシ以來已ニ殆ント一ケ年ノ長日月全ク其根本ヲ殲スニ至ラス昨今再ヒ盛ニ蜂騰シ各所ニ其慘毒ヲ逞フスルノ報陸續京城ニ達ス
**********1894/12/09 十二月九日門司令便 電報十一月二十九日午後九時漁隠洞発十二月一日午後八時釡山発同同同十時着
黄州ヨリ載寧地方ニ派遣セル半小隊ハ 去ル二十七日同地附近ニテ賊ヲ撃破シ十五名ヲ斃シ五名ヲ生捕リ数多ノ武器弾薬ヲ分捕リ載寧ヲ占領ス 賊約六百名四方ニ散乱セリ 我兵死傷ナシ 二十八日更ニ安岳方位ニ向ハントス  金川ヨリ派遣セル守備兵ハ平山附近ニアリテ専ラ海州ヨリ来タル賊ヲ警戒セシガ 今日迄無事ナルヲ以テ 一ト先引上ケシ旨報告アリ  福原兵站監→川上兵站総監
1894/12/08
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地: 公州(滯)  /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:珍山 支隊: 錦山(滯)

*「駐韓日本公使館記録」
智面村附近 戰鬪詳報 (1894-12-07) 少尉 桑原榮次郞
十二月七日軍路實測隊ト共ニ增若ヲ出發文義ニ向フ午后二時頃智面村端 (距文義二里强) ヘ來リシ頃東徒百五六十名高地ヲ占領シ我尖兵ニ向テ射擊セシヲ以テ直チニ尖兵ノ一分隊ヲ增加シ之ニ當ラシム東徒支フル能ハス西南方向ニ敗走ス尙ホ約三千米突許追擊シテ止ム時ニ午后四時頃ナリ
彼我死傷者 我軍 ナシ 賊徒 死者一名 傷者未詳
*********1894/12/08 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
翌日(※八日) 午前三時頃 半里程の処に数万の東徒 数千の旗を翻して進み来る 韓兵正面に当たり 我兵三分隊を以て側面より射撃す 東徒等韓兵のみと思ひきや 日軍側面に見(あら)はれ 射撃迅速なるに驚き 軍勢乱れて潰散してモランボン山に退却す 此日我兵韓兵と共に死傷なく 東徒二十余名を倒す 仝日午后 引き上げて 清州に帰る 分取り品山のごとく 砲二門 弾薬銃剣鎗弓夥し 
**********1894/12/08 曩ニ当隊ヨリ派遣セシ後備歩兵独立第十八大隊長代理 石森大尉十二月二日江原道平昌ヨリ発セシ報告 十二月八日受領 其要領左ニ掲ク 
十二月一日平昌ニ集合セル約三千人ノ東学党ヲ攻撃ス 東徒射撃ヲ以テ抵抗激戦二時間ニシテ漸次退却ノ色@現ハシ 午後一時全く平昌を占領す 東徒の死傷及捕虜 即死70名 不詳未詳 捕虜十名 我兵死傷なし 京城守備隊長馬屋原少佐→大本営 C06060053000 C06061857700
1894/12/07
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯) /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:錦山(滯)

「駐韓日本公使館記録」1894-12-07井上公使から領事へ[安眼島附近 日船被襲件]
**********1894/12/07 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
七日 文義に向ふ 此日清州に着するや 東徒此地を襲はんと欲して 新灘津(※文義西南西)の方向より来るとの風説あり 仝夜十二時頃 東徒已に里余の処に来りたりとの報あり 且人民恐怖して騒擾す 
1894/12/06
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯) 支隊: 維鳩   /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:錦山

**********1894/12/06 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
翌六日 沃川(大田東)に向ふ 仝地は東徒の根拠地なりしを以て はなはだ不穏なりしも 其儘打ち過ぎたり 府使死去し居りしを以てなり
海南新聞韓国関係記事1894/12/06<11/21 後備歩兵第十九大隊西路分進隊、公州で東学軍に大打撃 東学軍全羅道へ退去か

1894/12/05
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯)(★戦闘) 支隊:大興(滯)  /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:沃川(滯)  支隊:錦山(★戦闘))

「駐韓日本公使館記録」
錦山縣附近 戰鬪詳報 (1894-12-05) 中尉 白木誠太郞
「駐韓日本公使館記録」(31) [沃川郡 搜索中 金玉均妻 發見件] 発送日 明治二十七年十二月五日 (1894-12-05) 発送者 後備步兵獨立第十九大隊長 南小四郞

1894/12/04
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯)(★戦闘) 支隊: 洪州(滯) /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:沃川(滯) 永同(★戦闘

「駐韓日本公使館記録」
公州附近 戰鬪詳報
自明治二十七年十二月四日至同五日 大尉 森尾雅一
「駐韓日本公使館記録」
梁山附近 戰鬪 詳報 (1894-12-04) 中尉 白木誠太郞
「駐韓日本公使館記録」
[文岩附近 戰鬪詳報] (1894-12-04) 少尉 桑原榮次郞

**********1894/12/04 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
四日 青山(※報恩南)に至る 此日東徒六名を捕ふ 青山に着くや 兼て南一里 文岩に東徒の首魁 法軒(※崔時亨=法軒)なるもの潜伏し居る事を関知したれば 桑原少尉二分隊を率ひて之に向ふ 彼等已に我隊の青山に来るを知り逃走を企て居りたれば 之を追撃して文書類二行李 牛馬十頭をぶん取り 其の夜又踏み文岩を夜襲したれど 東徒一人も居らず 依りて 火を放ちて之を灰燼とし 当方の山中を捜索して財物等を隠匿せるを発見し 之を引き出し見るに 白絹類百反余 上等の織物類等夥しく 之を引き出して分取り 他は皆焼き払へり 

1894/12/03
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯) 支隊:洪州(滯)  /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:沃川(滯)  支隊:龍山村

「駐韓日本公使館記録」 (25) 東學黨勦滅ノ方略ニ付具申 機密第三四號  1894-12-03 在釜山 一等領事 加藤增雄より特命全權公使 伯爵 井上馨へ

*********1894/12/03 電報 仁川ヨリ派遣シタル応援中隊ハ三日午後洪州ニ着ス 該地ニ在リシ赤松少尉(西路分進隊)ノ率ユル枝隊ハ 四日公州ニ在ル本体(西路分進隊本体であろう)ニ合スル為メ該地ヲ出発ス 公州ニ在ル中隊ハ此枝隊ノ合スルヲ待チ 魯城敬天付近ノ賊ヲ討タントス 応援中隊はしばらく洪州に滞在する旨 四日洪州発報国只今着せり 伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C08040507400
**********1894/12/1.2.5
<<諸新聞にあおられた「さらに大軍を出せ」「清国全土を占領せよ」などとする国民の極端な戦意高揚のなか、「自由新聞」、「義軍の名を全うせんと欲すれば、宣戦の目的を達するに兵を留め」るべき」などと無用な宣戦拡大を批判し始める。一般の生産事業中止、動員による生産従事者の減少、馬匹船舶の徴発水陸運搬業の阻害、など国内経済問題深刻。(『日清戦争の社会史』より) 日清戦争の総軍事費は二億三千万円余、当時の経常歳入額の二倍半。動員兵力ー軍夫を含むー40万1085人。軍艦二十八隻。これを維持するために大量の予備兵、後備兵士を必要とした。留守華族の生活を補償する国家的制度はなかった。(『日清戦争の社会史』より) 
1894/12/02
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯)  支隊:洪州(滯)  /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:沃川(滯)  支隊:靑山

「駐韓日本公使館記録」晋州出張兵撤收および東學徒彙報 1894-12-02
晉州出張ノ時捕使池錫永ノ所ニ於テ晉州ヘ來リタル東徒ノ首領金相吉ナルモノヲ捕ヘ同人ハ全羅東徒中ニテモ頗ル有力ノモノナリシ由ニ候得共討捕使ハ彼レヲ連レ來ラズ直ニ其地ニテ刑戮セシ由遺憾ノ次第ニ有之候右申添候也
**********1894/12/02 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
 また折返して尚州に向ふ 訪渓を経る

「駐韓日本公使館記録」(29) [泰仁縣山內面種松里에서 東徒 金介南等 襲捉] ※1894年12月2日

**********1894/12/02 上席海軍参謀官 電報 十二月二日午後五時十分仁川発 同 同 同 七時二十分釜山発 同 同 同 九時二十五分着
東学党討伐隊応援ノ為メ仁川ヨリ派遣シタル中隊ハ一日午前七時牙山附近貢湖(二十万分一)ニ上陸 直チニ公州ニ向テ進ミタリ 牙山県ノ官吏並ニ土民リ聞得タル左ノ状況ヲ報告シ来ル 
十一月二十八九日東学党数万公州ヲ襲撃ス 我々軍及ヒ朝鮮兵大凡ソ千余人ハ 之ヲ撃退シ 数千人ヲ斃ス 其巨魁 李昌求 及ヒ リくンシノ二人ヲ殺シタリト 而シテ目下此ノ方面ノ賊ハ解散シ 牙山ヨリ公州及ヒ洪州間ニハ賊ノ集合体ナク 道路モ亦毫モ支障ナキモノヽ如シ〇目下賊ハ京城ニ上ルノ景況更ニナシ  仁川伊藤兵站司令官→ 川上兵站総監 C08040507200

1894/12/01
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滯) 支隊:洪州(滯)  /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:沃川  支隊:石城村(★戦闘
**********1894/12/01 上席海軍参謀官 慶尚道西南部暴徒撃攘ノ報告
一 河東府附近近ノ東学党撃退ノ為メ遠田中尉ニ第三中隊ノ二ケト隊ヲ藤坂少尉ニ第四中隊ノ一ケ小隊ヲ引寧セシメ十月二十二日釜山港ヲ発シ同日馬山浦ヨリ二区隊トナリ二道ヨリ河東ニ向ヒ前進ス
二 藤坂少尉ノ小隊ハ二十七日河東附近ニ進ニ東徒約七百人ヲ広坪洞ニ攻撃シ賊ハ退走シテ蟾湖江ヲ渡リ舟ハ悉ク披岩ノ小舟ヲ奪ラ帰ル依テ全十隊次江ヲ渡リ走賊ヲ追躡スルモ渡江ノ為メ時刻ヲ遷シタルヲ以テ賊ノ巳ニ遠ク退走シラ踪跡ヲ失ス賊ノ遺棄セシ武器糧食若干ヲ奪領ス
三 山日遠田中尉河東府ニ達シ藤坂少尉ノ部隊ト相令シテ同地ニ宿営ス 四二十八日東徒約七百人蟾居駅ニ在ルノ報ヲ得ニ人リ隊ヲ派遣シテ捜索・・・ 兵站兼停泊場司令官今橋少佐→川上兵站総監 C08040507000 (この報告は完訳すべし 農民軍殺戮作戦の実態がよく分かる報告 釜山の守備隊といえば後備第十連隊第一大隊ではないか・・・)  海南新聞韓国関係記事1894/12/01<
11/23、24 後備歩兵第十九大隊 三路分進
**********1894/12/01<国政改革に抵抗する高宗を、東学党勦討兵引き上げなどで脅迫。
**********1894/12/01 上席海軍参謀官 電報 十二月一日午後八時十五分仁川発 同 二日午前六時五十分釜山発 同 同 同 九時四十分着 十一月二十日 
文義ニアル後備歩兵第十九大隊長ヨリ左ノ如ク報シ来レリ
〇二十七日中路分進隊ハ西路ノ隊ト合シ公州前面ノ賊ヲ包囲セントシ 燕岐ニ至ラントスルトキ 周安附近ニ賊徒あリ 左側枝隊ハ文義ノ方ニ退却セシトノ報アリ 故ニ又文義ニ引返セり
〇沃川地方ノ賊徒ヲ剿滅シ後公州地方ノ賊ニ当ラントス
西路分進隊ノ報ニ依レハ公州地方及ヒ洪州地方ハ数万ノ賊徒アリ勢ヒ甚タ猖獗タル由
〇ボクセイキヨウ、サイジユザイ外七名公使館ニ送レリ
仁川伊藤兵站司令官→ 川上兵站総監  C08040507100 C08040629600
1894/11/30
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:洪州(滞在) /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:増若

**********1894/11/29,30<<第二中隊長城に滞陣
**********1894/11/30 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
三十日 洛東兵站部(※尚州東)に着 一日滞在
海南新聞韓国関係記事1894/11/30 晋州地方に在りし東学党の首領「キンショウケイ」は朝鮮官吏の手にて殺戮したり 我兵にて生擒し得ざりしは遺憾なり

**********1894/11/29 電報 黄州ヨリ載寧地方ニ派遣セル半小隊ハ去ル二十七日同地付近ニテ賊ヲ撃破シ十五名ヲ斃シ五名ヲ生捕リ数多ノ武器弾薬ヲ分捕リ載寧ヲ占領ス賊役六百名四方ニ散乱セリ我兵死傷ナシ二十八日更ニ安岳方位ニ向ハントス
海南新聞韓国関係記事1894/11/30<11/27 竜山より派遣の応援小隊、忠清道で後備歩兵第十九大隊第二中隊と交代

1894/11/29
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:洪州(滞在) /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:文義(滞在) 支隊:増若

「駐韓日本公使館記録」1894-11-29金允植大臣より井上公使へ[回答]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-29金允植総理大臣より井上公使へ方針了承回答[東徒會審方針の飭遵回答]※飭遵(チョクジュン)は「了承」
「駐韓日本公使館記録」1894-11-29聞慶兵站より井上公使へ[尹參軍と李容鎬件及び李重夏の動靜]
**********1894/11/29 上席海軍参謀官 電報 十一月二十九日午前十時五分仁川発 同 同 同 十一時三十分釜山発 同 同 午後零時四十分着
(西路分進枝隊)赤松少尉ノ筆記報告ニ依レハ同枝隊ノアル地ハ礼山ノ西方ナル洪州ナリ 故ニ本隊トハ離得シ孤立シ居ルモノト認メセル応援隊ハ今タ仁川ヲ発セントス 仁川伊藤兵站司令官 川上兵站総監 C08040506800 C08040629500 
1894/11/28
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:洪州(滞在)/中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:文義(滞在) 支隊:周安
「駐韓日本公使館記録」1894-11-28仁川兵站司令官より井上公使[全州方面への東路分進隊派遣についての問議]
「駐韓日本公使館記録」1894-01-28仁川兵站司令官より井上公使へ[鈴木部隊 公州駐留差跌에 대한 解明]
仁川兵站司令官 伊藤祐義

수신자 特命全權公使 伯爵 井上馨
2) [全州方面으로의 東路分進隊派遣에 대한 問議]

「駐韓日本公使館記録」
仁站發甲第二五號
釜山加藤領事ノ具申電報ノ趣ヲ以テ東路分進隊ヲ尙ホ全州方面ニ進メントスルノ御協議ニ對シ昨二十七日電報ヲ以テ御答致シタル處釜山今橋少佐ヨリ河東地方ニ派遣ノ中隊ハ二十七日釜山ニ歸リタル旨ノ報告アリ且ツ該地方ノ賊徒ハ順天府ノ方位ニ退却セリトノ事ニ有之候右ノ報告ニ依レハ最早釜山駐在兵ト協力スルニ由ナク被考候該方面ノ事ニ就テハ釜山ハ接近地ノ事故自然狀況モ明瞭ナル事ト存候ニ付目下ノ狀況委シク報告アル樣致度其上ニテ兵隊派遣ノ事ヲ決スルノ愚見ニ有之候此段得貴意候敬具
明治二十七年十一月二十八日
仁川兵站司令官 伊藤祐義
特命全權公使 伯爵 井上馨 殿
**********1894/11/28
電報 十一月二十四日在公州発
西路分進枝隊赤松少佐ヨリ該地方ノ賊ハ猖獗ニ付更ニ応援兵派遣ノ事ヲ井上公使ヲ経テ申来リ 同公使ヨリモ之@計画ノ事ヲ協議シ来リ本官ノ予定ニ依レハ西路分進隊ノ本体ハ二十二三日頃ニハ公州に達するの予定なれば西路分進隊の本隊は二十四、五日の頃に公州に達するべきを以て 或いは已に本隊と合したるならんとも察しられ 又南少佐の一部隊も廿四、五日の頃には公州に達するの予定なれば・・・伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C06060050200

「駐韓日本公使館記録」[十一月二十日字 南小四郞 大隊長의 井上馨 公使 前 東學黨にかんする報告] 発送日 明治二十七年十一月二十日 (1894-11-20) 発送者 大隊長 南小四郞 受信者 特命全權公使 伯爵 井上馨 :巡撫使猛英在ナリハ妄リニ無罪ノ良民ヲ殺害致候由ニテ當地方人民ハ猛英在ナルモノヲ恨ミ居ルノミナラス御政體ヲ恨ム一端ト相成斯ノ如キ情況ニ在リテハ第一東學黨ハ征伐致候モ第二ハ同黨類ノ如キモノ集合サスルノ疑ヒナキ能ハス故ニ巡撫使トシテ國內ヲ巡廻セシメサル樣致度候

1894/11/27
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:洪州(滞在) 斥候: /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:文義 支隊:懐徳 
「駐韓日本公使館記録」1894-11-27日本公使館より領事館へ[延魯成 外 8명 送致와 利川兵站部調書 送付]
「駐韓日本公使館記録」7) [踏査要員 護衛兵 靑山附近에서 東徒 遭遇 擊退報告] (1894-11-27) 伯爵 井上馨
「駐韓日本公使館記録」1894-11-27井上公使より(金允植)大臣へ [海州東學軍 防剿状況と基本方針の示明及び拿獲者 會審方針の周知依賴]
我が山県伯爵はこのようなことをすばやく処理して,期間を延期することもなく、わが軍隊が東匪を鎮圧するにおいては本来匪賊を帰化させるのに注力して殺戮をむやみに加えることもありませんでした。 およそ匪徒を一度逮捕した場合その釈放に対しては互いに会合して,徹底的に糾明して地方官に一任させて,単独で処理しないことを望みました。 したがって貴大臣におかれては照会をしてみて,直ちにその地方官に勅令をおろして,こういう意をよく把握して,少しも破ることがなくするよう切実に望みます。(機械訳)

海南新聞韓国関係記事1894/11/27<11/17、19 釜山守備隊 晋州地方で東学党三千人を殺戮
**********1894/11/27 電報 十一月二十八日

文義ニアル
後備歩兵第十九大隊長ヨリ左ノ如ク報シ来レリ
二十七日中路分進隊ハ西路ノ隊ト合シ公州前面ノ賊ヲ包囲セントシ燕岐ニ至ラントスル時周安付近ニ賊@アリ左側枝隊ハ文義ノ方ニ退却・・・ 福原兵站監→川上兵站総監 C06060050400


**********1894/11/27 上席海軍参謀官 電報 十一月二十七日午後八時五十五分仁川発 同 同 同 九時二十四分釜山発 同 同 同 十時十五分着
東学党鎮圧韓兵応援トシテ十月十七日忠清道ニ派遣シタル二小隊及ヒ本月四日別ニ派遣シタル飯森少佐並ニ其部下一小隊後備歩兵第十九隊ト交代シ昨二十六日迄ニ悉皆龍山ニ帰着セリ
〇載寧附近ノ暴民平山方位ニ現ハレタリトノ報ニ因リ福原少将ヨリ龍山守備隊一小隊ヲ兵站路黄州ノ方位ニ派遣ノ命令マリ本日出発セリ
 仁川伊藤兵站司令官→川上兵站総監 C08040506400
**********1894/11/27 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
廿七日出発 報恩、化寧、尚州をて経て

1894/11/26
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:洪州(滞在) /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:龍浦 支隊:増若(★戦闘

「駐韓日本公使館記録」(12) [海美縣地方 賊徒討伐로 별도의 出兵不要 通報] 문서번호 仁站發第二二號 발송일 明治二十七年十一月二十六日 (1894-11-26)
발송자 仁川兵站司令官 伊藤祐義
수신자 特命全權公使 伯爵 井上聲

(12) [海美縣地方 賊徒討伐로 별도의 出兵不要 通報]
仁站發第二二號
西路分進中隊ノ內振威ヨリ派遣シタル一支隊(一小隊ト二分隊)ハ去ル十六日牙山ニ達シ十日前賊徒牙山ヲ夜襲シ沔川及ヒ唐津縣中聞松岳山ニ據リタルモ軍隊ノ來襲スルヲ聞キ海美縣地方ニ逃走シタルトノ報ヲ得將サニ海美縣地方ニ向ケ出發スル旨該支隊長赤杉少尉ヨリ報告アリタル故ニ此支隊ハ發第九四號ノ御書面中甲午十月二十五日金允植ヨリ報告シタル崇鶴山ノ民堡ニ據ル賊徒ニ對シ旣ニ討伐ニ從事セシコトト相考候ニ付別ニ出兵ヲ要セサル義ト存候間此段申進候也
明治二十七年十一月二十六日
仁川兵站司令官 伊藤祐義
特命全權公使 伯爵 井上聲 殿
「駐韓日本公使館記録」(11) 增若附近 戰鬪詳報 송일 明治二十七年十一月二十六日 (1894-11-26) 발송자 少尉 宮本竹五郞

(11) 增若附近 戰鬪詳報
明治二十七年十一月二十六日
少尉 宮本竹五郞
一. 左側支隊トシテ第拾八大隊下士以下十七名敎導中隊一小隊ヲ率ヒ午前九時懷德ヲ發シ周安ニ向ヒタリ
二. 此支隊ハ靑山永同沃川錦山ヲ經テ全州ニ至リ本隊ト合スル筈ナリ
三. 午前十一時二十分周安ニ達ス一萬以上ノ敵大小五十餘ノ旗ヲ立テ北方ニ進行スルニ遇フ


「駐韓日本公使館記録」2) [忠淸·黃海道 東學黨征討狀況] 2 발송자 中佐 伊藤 수신일 同二十六日 午後七時三十五分 接 (1894-11-26) 수신자 公使 井上

「駐韓日本公使館記録」1894-11-26井上公使より公州鈴木少尉へ。 [東徒剿滅まで鈴木少尉隊の公州駐留依賴件 通報]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-26[巡査·通辯などを 直接使用することが出来ないという 回答]
**********1894/11/26 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 
廿六日 第三中隊は(※文義より)公州に向ひ 小生等の第一小隊は懐仁(報恩西)に向ふて発し 午后五時帰着す 異状なし

1894/11/25
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:(★戦闘)洪州 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:文義(滞在)

「駐韓日本公使館記録」(9) 洪州附近 戰鬪詳報 발송일 明治二十七年十一月二十五日 (1894-11-25) 발송자 少尉 赤松國封(第1中隊第2小隊長か)

**********1894/11/25 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 廿五日文義に向ふて発す 文義に於ては 廿三日第三中隊東徒と戦ふて之を走らす 正午文義に着す 東徒乱暴甚しく家屋を破り財産を奪い人民を脅迫して皆東徒の組に入れたる由 此地に於東徒七人を殺す
1894/11/24
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:洪州(滞在)/中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:文義(滞在)
「駐韓日本公使館記録」1894-11-24井上公使より伊藤兵站部司令官へ[鈴木少尉の公州駐在に関する件
1894/11/23
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在) 支隊:洪州(滞在)/中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:文義(★至明戦) 支隊:報恩
「駐韓日本公使館記録」東學黨 討伐景況 발송일 明治二十七年十一月二十三日 (1894-11-23) 발송자 後備歩兵六聯隊(愛知、三重、福井、富山) 第六中隊長 山村忠正

東學黨 討伐景況
○ 十一月二日夜原田少尉以不槐山郡衙門ニ舍營シ同三日午前七時土民ノ報ニヨレハ東學黨數萬人陰竹方向ヨリ當槐山ヲ來襲セントスト依テ一等軍曹田島武臣上等兵宇佐美久三郞(韓人服裝ニ仕立)韓人巡査孫鶴聲ヲシテ陰竹街道宇唐洞ヘ斥候トシテ派遣ス午前九時三十分果シテ優勢ナル賊黨來襲スルノ確報ニ接ス依テ直ニ下士已下輕裝ヲナサシメ不用品ハ一束トシテ郡守衙門內ニ殘置シ唐洞東南方ノ隘路ヲ扼守スル目的ヲ以テ急行セシニ午前十一時三十分該街道上槐山ヲ距ル凡六吉羅米突ノ無名村落ニ於テ賊ト遭遇開戰然ルニ賊ノ一部ハ正反對ナル方向則チ報恩街道ヨリ凡ソ三萬餘人槐山ニ侵入該村落ノ民家ニ放火是カ爲メ殘置ノ物品燒失セリ
「駐韓日本公使館記録」(8) [文義附近] 戰鬪詳報 発送日 明治二十七年十一月二十三日 (1894-11-23) 発送者 大隊長 步兵少佐 南小四郞

1894/11/22
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州(滞在)(★戦闘)) 支隊:洪州 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:清州(滞在) 支隊:沙羅里(滞在) /東路軍(第1中隊):江原道の東徒討伐の命を受け南少佐の指揮下を離れ、仁川司令官の命令の下で行動する。
「駐韓日本公使館記録」1894-11-22[内浦東學黨의 早速한 處理 請願]
「駐韓日本公使館記録」(19) [東學黨による現在までの死傷者 通報] 死亡者9名負傷者9名 後備歩兵第十九大隊など含むかどうか? (1894-11-22) 仁川兵站司令官 伊藤祐義より特命全權公使 伯爵 井上馨あて

「駐韓日本公使館記録」1894-11-22 [鈴木彰의 公州駐在 간청의 件]
1894/11/21
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:公州 支隊:徳山(戦勝谷行き): /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:清州(滞在) 支隊:沙羅里(滯在)  /東路軍(第1中隊)宿泊地:忠州(滞在)

**********1894/11/21-24 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 廿一日午前出発清州に向ふ 途中異状なし 道二里前より土民皆篝火を燃やして軍隊を迎ふ 
滞在三日 府使の罪人を取調ぶるを様を見るに実に我くい幕府時代の演劇よりも面白し

**********1894/11/21<< 旅順港占領。「市街近郊を掃討するときに、兵士住民数千人を無差別に虐殺したことが国際的非難を受け、条約改正交渉にも悪影響を及ぼした。」(『日清・日露戦争』68p)
「駐韓日本公使館記録」「駐韓日本公使館記録」東学農民革命軍勝利の戦い (5) 勝戰谷附近 戰鬪詳報 발송일 明治二十七年十一月二十一日 (1894-11-21) 발송자 少尉 赤松國封(※後備歩兵第十九大隊小隊長) 六. 午後三時三十分山頂右方山道ニ進ミタル兵ハ韓兵ト合シ山ヲ下リ本隊ノ後方約三百米突ニ出ツ其報告ニ依レハ該分隊ノ行進路頭上ノ山頂ニ數千ノ敵兵猛射シ來リ且西風ヲ幸トシテ山野ニ火ヲ放チ襲來ス煙焰天ヲ掩ヒ且衆寡敵セサルヲ以テ本隊ニ合スト依テ第二第三第五及第三小隊ノ一分隊ニ退却シ道洞ニ於テ要地ヲ占領シ本隊ノ退却ヲ掩護スヘキヲ命ズ午後四時散兵ヲ逐次退却セシメタリ然ルニ右方高地ノ敵兵ハ前進攻擊シ來ル故小官ハ散兵ヲ纏メ東北方高地ニ向ヒ退却ヲ爲ス敵ハ後山及前戰退却セシ山頂ヨリ急進射擊ヲナス勢猛烈ナリ恰モ宜シ掩護隊ハ本道ノ左方小堤ニ據リ掩護ヲナシツヽアリ故ニ本隊ハ小川ノ右岸ニ添ツテ退却シ第三小隊ノ二分隊ヲ道洞邑後方ノ高地ニ據リ掩護分隊ノ退却ヲ掩護セシメ勝戰谷ノ狹隘ヲ一退一止沔川ニ退却ス

1894/11/20
/【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:德坪 支隊:沔川: /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:鎭川 支隊:淸安 /東路軍(第1中隊)宿泊地忠州(滞在)

海南新聞韓国関係記事1894/11/20<11/16 東路分進隊補強のため三分進隊の前進を止め京城守備隊到着を待つ **********1894/11/17.18.19<< 後備歩兵独立第十九大隊第二中隊天安に滞陣 (下載記事参照)

海南新聞韓国関係記事1894/11/20 東学党の江原、咸鏡両道に逃走するを防ぐの目的を以て 井上公使は更らに京城守備隊中より一隊を派遣し 東路にある東学党討伐隊を増加することに決し 今十六日京城を発し之れに追及するに就き 曩(さ)きに三路に分遣せる各隊を止め 該守備隊を待たしむべき旨協議ありたり 
**********1894/11/20 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 
廿日滞在 此処(※鎮川)に東徒二三を殺す
**********1894/11/20<<講和前に朝鮮への支配権を確立すべく、井上馨新公使、「朝鮮国王に「内政改革綱領」20ヶ条を提出して同意を強制し、抵抗した大院君を隠居させた。」(『日清戦争の社会史』から)
「駐韓日本公使館記録」1894-11-20南小四郎中佐より井上公使へ。猛英在巡撫使は悪質[東學黨に 冠する報告 71號 寫本 2通 送付]
20か条の内容は『高宗・閔妃』228「駐韓日本公使館記録」1894-11-19杉村代理公使より領事へ[東学党に関する続報と江華援兵出発の件]
1894/11/19
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:天安(滞在) 支隊:禮山 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:鎮川 支隊:槐山 斥候:木川 /東路軍(第1中隊)宿泊地:忠州(滞在) 支隊:清風

「駐韓日本公使館記録」(4) [晋州附近 東學黨擊破 詳報 送付] 문서번호 京第九八號 발송일 明治二十七年十一月十九日 (1894-11-19)
발송자 在釜山 一等領事 加藤增雄 수신자 特命全權公使 伯爵 井上馨

**********1894/11/19 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 十九日午前八時出発鎮川(※清州北)に向ふ途次文義(※清州南)に東徒数万群集すとの報あり 第三中隊より一小隊の斥候を出す 午后六時四十分頃鎮川に着す 

此夜実に美観なりしは鎮川に着する前一里程の処より韓民の篝火(さいくわ)を燃して軍隊を迎ふ宛然長蛇の如きにてありき


海南新聞韓国関係記事1894/11/18<11/15 慶尚道で東学党を破る 賊の死者116名

* 1894/11/18
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:天安(滞在) 支隊:新昌 /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:竹山(滞在) 支隊:陰城 /東路軍(第1中隊)宿泊地:忠州 支隊:内倉場

*********1894/11/18後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信
十八日仝地(※竹山)滞在我兵一名の東徒を捕ふ 余は異状なし 

「駐韓日本公使館記録」1894-11-18井上公使より韓国総理大臣へ、地方官の過酷な課税状況が原因の民乱について [東學黨嫌疑者 高宗柱 などに対する會審要求]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-17仁川伊藤中佐より井上公使へ[報恩東學黨에 관한 報告]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-17井上公使より南少佐へ [恩津·礪山等地 東徒の公州攻取豫定開戰書 送付]
1894/11/17
【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:天安  支隊:牙山(滞在)  /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:竹山縣(滞在) 支隊:石城村(陰城西行二里): /東路軍(第1中隊)宿泊地:可興(滞在) 斥候:槐山

**********1894//11/17<東学農民軍第二次蜂起 二万名論山集結
**********1894/11/17 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 
十七日(※中略)午前八時五十分出発 忠清道竹山(安城北東)に向ふ  当日是等の為め知らず識らず道を進みし故八九里の行程も午后三時五十分頃竹山に着す 同地には第三中隊(※後備歩兵第十九大隊第三中隊である)及び名古屋十七連隊の兵一小隊程 韓兵二百人 我国巡査三名程居れり 而して后(のち)同地に東徒の屍体二三あり 犬鳥の餌食となり居りし(未完)
「駐韓日本公使館記録」1894-11-16仁川領事館より井上公使へ[洪州への江華營兵 派遣中止 件]
(5) [恩津·礪山等地 東徒의 公州攻取豫定開戰書 送付] 문서번호 諸第八三號 발송일 明治二十七年十一月十七日 (1894-11-17)발송자 特命全權公使 伯爵 井上馨 수신자 後備第十九大隊長 陸軍步兵少佐 南小四郞
事態甚ダ不穩ニ付今小官公州ヲ捨テ去ル能ハズ

**********1894/11/16 上席海軍参謀官 電報 十一月十六日午前十時仁川発 同 同 同 十一時十五分釜山発 同 同 午後一時三十分着
東学党ノ江原咸鏡両道ニ逃亡スルラ防クノ目的ヲ以テ 井上公使ハ更ニ京城守備隊中ヨリ一中隊ヲ派遣シ 東路ニ在ル東学党討伐隊ニ増加スルツ決シ 今十六日京城ラ発シ之ニ追及スヘキニ就キ 曩ニ三路ヲ分進セル各中隊止詼守備隊ヲ待タシムヘキ旨協議アリタリ 依テ東路ニ在ル中隊忠州ニ中路ニ在ル中隊ハ竹山附近ニ 西路ニ在ル中隊ハ天附近ニ於テ更ニ一日間帯在セシめ 又派遣ノ守備中隊ハ路ラ倍シテ 来ル十八日中ニハ忠放州ニ達セシムルコトとナセリ 
仁川伊藤中佐 川上兵站総監督 上席海軍参謀官 電報十一月二十四日午後零時二十分発 同 同 C08040506100
「駐韓日本公使館記録」1894-11-16 金允植より[日軍 東路增派에 따른 軍需專辦員·通譯員要請에 대한 回答]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-16[慶尙道 東學黨剿滅の 方策に関する 訓令 要請努メテ該巨魁ヲ捕獲シ書類ヲ押收シ・・・
「駐韓日本公使館記録」1894-11-16地方官の過酷な徴税の実態および民乱の実相がわかる資料[日軍引渡 東學黨 嫌疑者についての警務廳の取調放免事實報告]
*********1894/11/16 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 午前八時半出発。陽智へ向かう。異状なし。
1894/11/16【後備歩兵第十九大隊進路】 西路軍(第2中隊)宿泊地:稷山縣 支隊:牙山: /中路軍(本隊・第3中隊)宿泊地:竹山縣  /東路軍(第1中隊)宿泊地:可興 斥候:陰城
「駐韓日本公使館記録」1894-11-15 ? (13) 葱莠驛附近 東學黨事件ノ義ニ付情況ノ槪報
一) 本月十三日午後四時半頃黃海道平山府使ノ不人當葱莠驛ニ自用ノ爲メ來リ兵站部ニ立寄リ對話ノ序當驛ヲ距ル四里許漏川ト云フ處ニ東學黨嘯集スルヲ聞ク則チ韓曆十月十七日同處ニ開市スルニ際シ不覊ヲ謀ルナラント告ケタル趣キ相聞ヘ候ニ付翌十四日守備隊附下士ニ兵率五名通辯(韓人劉洪俊ト云フモノ)一名ヲ該地ニ派遣シ斥候ヲ命シタル報告左ノ如シ
「駐韓日本公使館記録」1894-11-15井上公使発[東路로의 1個中隊를 派遣하는 데 따른 편의제공 문제]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-15井上公使より南少佐へ転送[恩津·礪山等地 東徒の 公州攻取豫定開戰書 送付]
(公州鈴木少尉より日本公使館へ)
開戰書中ニ彼ハ將校二百名兵拾七萬六千人ヲ以テ戰ハント申越候ガ隨分甚敷法螺ニ候兎モ角今公州ヲ東徒ノ手ニ渡サバ四方ノ東徒ハ忽チ蜂起シ容易ナラザル次第ニ付當分小官駐在守備可致候一少隊有之候間賊徒幾萬人來攻スルモ少シモ顧慮ヲ要セス候右任幸便御報告申上候也
「駐韓日本公使館記録」 (1894-11-15) 井上公使より南少佐へ [東路로의 1個中隊 增派通告]
(52) [東路로의 1個中隊 增派通告]
發第八一號
先般全羅道參禮ニ集合シタル東學黨ハ忠淸道ニ侵入シテ恩津魯城ヲ陷シ進ンテ公州ニ迫ラントスル形勢有之且ツ忠淸道各地ニ該黨出沒ストノ報告ニ相接シ候ニ付兼テ當地ニ於テ御打合及ヒ候通リ彼等ノ江原咸鏡兩道幷慶尙道ノ方面ニ遁逃スルヲ豫防センガ爲メ我東路ノ兵ヲ先行セシメ匪徒ヲ西南ノ方面ニ追ヒ廻シ遂ニ中西路ノ兵ト包圍合擊一擧ニシテ之ヲ剿滅スル方略ヲ取リ候方專要ト思考シ一昨十三日書面ヲ態飛脚ニ托シ申進候ニ付旣ニ御諒悉候義ト存候然ルニ其後再考スルニ右方略ヲ行ハントスルニハ東路ヲ進ミタル僅カ一中隊ノ兵ニテハ十數里ニ涉リタル線路ヲ遮蔽スル能ハス終ニ或ハ彼等ヲシテ遁逃セシムルヤモ難計トノ掛念有之候ニ付伊藤兵站司令官トモ協議ノ上決セルニ當地守備隊ノ內一個中隊ヲ派遣スル事ニ相成リ明十六日當地出發ノ筈ニ有之候間此旨御承知相成度候猶ホ同隊ノ運動指揮上ニ關シテハ伊藤兵站司令監幷馬屋原少佐ヨリモ可申進義ト存候此段申進候也
明治二十七年十一月十五日
井 上 特命全權公使
南 陸軍步兵少佐 殿


**********1894/11/15 上席海軍参謀官 電報 十一月十五日午前零時四十分仁川発 同 同 同 一時ハ金山発 同 同 二時三十七分着

東学党討伐ノ為ソ後備歩兵第十九大隊ヲ三路ヨリ分進セシソタルことハ既ニ報告シタル如シ
井上公使ハ賊徒ノ江原咸鏡道方面ヘ逃遁スルヲ慮リ更京城守備隊ノ内一中隊ヲ東路ニ派遣セシソントスルコト協議アリタルヲ以テ之ニ同意ヲ表シ置ケリ
右守備隊一中隊ハ平日出発スルモノト信ス
仁川伊藤兵站司令官 川上兵站総監
**********1894/11/15<<朝鮮事件のため軍事公債募集始まる。年利6%以下、五十年償還、最低十円×12ヶ月。予定額3000万円の二倍の応募。(「日清戦争の社会史」)
**********1894/11/15 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 午前八時出発。竜仁に向かう。午後五時着、行程九里。
海南新聞韓国関係記事1894/11/14<11/14井上公使の決心 東学党頭領分は悉く誅殺すべ

「駐韓日本公使館記録」1894-11-14井上公使より仁川兵站部へ [東路への1個中隊 增派問題]
HOI : NIKH.DB-jh_001_0040_0490
문서제목 (49) [東路への1個中隊 增派問題]
발송일 明治二十七年十一月十四日 (1894-11-14)
발송자 特命全權公使 井上
수신자 仁川 兵站司令部長 伊藤祐義

(49) [東路로의1個中隊 增派問題]
本官着任已來當國內政改良ノ前途ヲ遮キル妨碍物除去ノ爲メ頗ル苦心致候處此程漸ク大院君ヲモ抑制スル都合相付キ李埈鎔モ亦前過ヲ謝シテ只管我指導ニ從フ可シト申出テ又外ヲ顧レバ英領事トテモ朝鮮ニ對シテ格別ノ魂膽可有之トモ相認メ不申候ニ付今一步ヲ進メテ其力ヲ致候テハ漸次內政改革之端緖ニ就クヲ得可クト被存候
然ルニ東學黨ノ形勢ヲ觀ルニ忠淸全羅各地トモ出沒ノ勢アリトノ事地方官ヨリ近々當政府ヘ報告有之趣ニ付 萬一彼等ヲ江原咸鏡ノ方面ニ逃遁セシムルトキハ後患不少ト思考シ 先般御協議ニ及ヒシ方略ニ從ヒ右報告書ヲ添ヘ別紙ノ通リ南少佐ヘ申入置キ候
扱當地之事情ハ前述次第ニ付此際速カニ東學黨ヲ鎭壓シテ朝鮮政府ノ內患ヲ除キ候事內外ニ對シ頗ル急務ト被存候
依テ我征討軍ノ勢力殊ニ東北面ノ勢力ヲ强メ以テ賊徒ノ江咸兩道ノ方面ニ逃逸スルヲ豫防シ倂ヲ討滅ノ功ヲ早クセシガ爲メ當地守備隊ノ內一中隊ヲ更ニ東路ニ派遣シ賊徒ヲ西南ノ方面ニ追ヒ退ケ遂ニ西路ノ我兵ト包圍攻擊一擧シテ之ヲ剿滅スル樣致度存候ニ付右守備一中隊ヲ派遣スルニ付貴見如何ニ候哉若シ御同意ニ候ハハ直チニ馬屋原少佐(後備第十八大隊長)ニ相達シ可申ト存候依テ此段及御協議候也
明治二十七年十一月十四日
井 上 特命全權公使
仁川 兵站司令部長 伊藤祐義 殿

**********1894/11/14 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 果川に向かって出発す。異状なし。
1894/11/14西路軍宿泊地:第2中隊:振威縣 支隊 斥候 /中路軍宿泊地:本隊・第3中隊:龍仁縣 支隊 斥候 /東路軍宿泊地:第1中隊利川 支隊 斥候
駐韓日本公使館記録」1894-11-13井上公使より南少佐へ[東學黨의 東北進出沮止封鎖のための方略指示]
「2) [東學黨의 東北進出沮止封鎖のための 方略指示]
全羅道參禮ノ賊徒忠淸道ヘ侵入之義ニ付別信ニテ申進候處右賊徒ノ江原咸鏡ノ方面ニ侵入スルヲ豫防センガ爲メニ西路及ヒ中路ヨリ行進ノ我兵ヲ少ク踟躊セシメテ東路ノ兵ヲ先ツ進行セシメ以テ彼等ヲシテ中路及西路ノ方面ニ逃進スル方略ヲ取リ遂ニ彼等ヲ包圍攻擊シテ一擧撲滅スル樣致ス事ニ付其邊確ト御注意相成リ候樣致度此段重ネテ申進候也
明治二十七年十一月十三日
井 上 特命全權公使
南 陸軍步兵少佐 殿

「駐韓日本公使館記録」(1894-11-13) 井上馨公使から南少佐へ[公州救援 と 東學黨北上沮止要請]
   1) [公州救援 및 東學黨北上沮止要請]
諸第七九號
全羅道參禮ニ集合シタル賊徒ハ恩津魯城兩地ニ侵入シ軍器ヲ掠奪シ進ンテ公州ニ迫ラレントスル勢アリ
公州ハ忠淸道ノ都府ニシテ一道ノ重鎭ナレバ若シ同府ニシテ賊手ニ陷ラバ一道瓦解ニ至ルベク就テハ早ク救援ヲ得度旨當外務大臣ヨリ依賴有之候
然ルニ貴隊ノ行進ハ素ヨリ其日割順序アル事ナレハ之ヲ變更シテ急進シ難キハ勿論ニ有之候得共急援ノ點ハ御注意相成度且ツ過日當地ニ於テ御打合及ヒ候通リ賊徒ヲシテ江原咸鏡及慶尙方面ニ逃逸セシメサル樣御注意相成リ殊ニ江咸兩道ノ方面ハ深ク警戒相成候樣致度候別紙忠淸監司ノ報告譯文相添此段申進候也
明治二十七年十一月十三日
井上 特命全權公使
南 陸軍步兵少佐 殿

「駐韓日本公使館記録」1894-11-13 [湖南匪徒の 公州への 進擊狀況 通報]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-13 金允植より[仁川日軍と 江華兵 合勢出擊要請]
海南新聞韓国関係記事1894/11/13<11/13全羅道河東に又々暴徒蜂起す

「駐韓日本公使館記録」「駐韓日本公使館記録」발송일 음력 11월 1일 (1894-11-27)
발송자 金允植(3) [海州東匪再起와 各地東匪의 景況]
海南新聞韓国関係記事1894/02/02<11/3~翌年1/13の後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信

**********1894/11/12<<後備第十九大隊、竜山を発って東学農民軍討伐に向かう。第一中隊、東路進軍。第二中隊、西路進軍。第三中隊、中路進軍。  

「駐韓日本公使館記録」日時不明 全州城にありし官軍兵器の賊に帰せしもの・全羅道參禮 (忠淸道ノ境上ニ在リ) 東學黨七八萬名押出シ氣勢頗ル熾ナリ
「駐韓日本公使館記録」1894-11-11[朝鮮人 崔胤華]後備步兵第十九大隊 西路行中隊士官 御中
「駐韓日本公使館記録」1894-11-11[出羽少佐의 忠淸地域 東學黨에 對한 報告書送付의 件]
「駐韓日本公使館記録」(1894-11-11) 金允植より[1個中隊 派遣에 대한 回答과 派遣人員名單]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-11[第242號 回答] 日本兵被殺事件→10月23日
 **********1894/11/11 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 一二三中隊はそれぞれ分かれて東徒撃退の進軍をなす。我が第一小隊(桑原隊)は軍路実測隊護衛隊として中路を進むべき命令を受ける。
「駐韓日本公使館記録」1894-11-11[水原 및 全羅道 東學黨勢力 猖獗報告] 當國人ノ報告ハ兎角針小棒大ノ弊ヲ免レス
「駐韓日本公使館記録」1894-11-11[東學黨의 景況 및 征討에 관한 華城留守의 書翰]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-11[東學黨討伐隊の龍山出發と 南步兵少佐の 入京 報告]
**********1895/11/11 (伊藤中佐より川上兵站総監宛電報)上席参謀官 電報 十一月十一日午後二時二十分仁川発 同 同 同 四時三十五分釜山発 同 同 同 十時三十分着

東学党討伐一功ノ事ハ(福原少将)ヨリ下官ヘ委任サレタリ 後備歩兵第十九大隊ハ明十二日龍山ヲ出発 一個中隊ハ公州街道ヲ全州府ニ尚テ一個中隊ハ清州街道ヲ大邱ニ向テ 一個中隊ハ我兵站路釜山街道ヲ大邱ニ向テ 三道ヨリ分進スルノ命令ヲ下セリ 
各中隊ハ二日分ノ携帯口糧ト三日分ノ糧秣ヲ準備セリ @ニ付井上公使ト協議ノ上 東学党征伐ノ為メ同地方ニ依リテ処分スル@及ヒ (沿道)地方官ハ糧秣宿舎供給ノ雑理ヲ尽力スヘキことヲ朝鮮政府ヨリ命令セシメタリ
○京城屯在我軍隊ノ教育シタル韓ノ教導中隊ナルモノ八日京城ヲ発シ 我将校@二名十@若干名之レカ監督として附属せしめたること井上公使より通達有り。 C08040505700 関係資料 
「駐韓日本公使館記録」2) [鐵道敷設 踏査要員 派遣에 따른 當國의 官員 同行 要求](1894-11-11) 特命全權公使 伯爵 井上馨  発外部大臣 金允植 宛
以書柬致啓上候陳者今般仁川港ヨリ京城ヲ經テ釜山ニ達スル軍路調査ノ爲メ我陸軍省ヨリ仙石技師等若干名派遣相成候ニ付其ノ序ヲ以テ本年八月二十日訂結兩國暫定合同條款第二條ニ載セタル鐵道線路ヲ調査相成度  ※参照」(1894-11-01)

「駐韓日本公使館記録」1894-11-11[忠淸·全羅慰撫使の 南進、日軍司令官南少佐合流飭令要]
第244号謹んで申し上げます。 今回の道を分けて,南部地方)を征伐しようとする私たちの各部隊に明日龍山(ヨンサン)を出発せよとの勅令をおろしました。 そしてこの部隊の司令官南陸軍歩兵少佐はどうしても今日仁川(インチョン)からそちらに行くといいます。 貴代行がもう一度貴慰撫使、李・朴両名に勅令をおろして,その少佐と会って,そのことを履行するために全てのものを妥協するようにして下さい。 このようにすることが公の利益になる仕事だと思います。 それではこれで筆をおき日に福々しいように祈ります。
陽暦11月11日伯爵井上馨頓
       

「駐韓日本公使館記録」1894-11-10[後備步兵第19大隊長 南小四郞 に対して訓令付与] 12日竜山を発し各道を分進せよ
「駐韓日本公使館記録」1894-11-10[慶尙道 晋州地方 東學黨の 退散と 同地派遣軍隊(注:後備歩兵第十連隊)の 繼續駐屯 報告]
「駐韓日本公使館記録」日時不明 [慶尙右道東學黨擾亂 景況과 이에 대한 意見]
朝鮮の役人の進言と思われる 「接主を隠した村は彼らを皆殺して,10人以上を隠した村には東匪だろうがなかろうがその家を焼却して接主と東匪は容赦なく皆殺しにするという方法を作ってこそ,東匪らを皆除去できることであり民国が平和になりえるでしょう。」
「駐韓日本公使館記録」1894-11-09[後備步兵 第19大隊에 관한 件]
[東學黨鎭壓ノ爲メ派遣隊長ニ與フル訓令・日程表]


「駐韓日本公使館記録」1894-11-09[東學徒 駐屯地域 通報要請](38) [東學徒 駐屯地域 通報要請]

**********1894/11/09 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 龍山に滞在 京城見物に出かける。
「駐韓日本公使館記録」1894-11-08 [日助剿軍同伴 鎭撫使 및 軍需辦備員名單 送付促求]
**********1894/11/08 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 午後八時仁川出発京城に向かう。五龍廓を過ぎて漢江を渡る。この日は武装のまま行軍。行程九里、実に困難であった。午後五時龍山に到着。龍山に兵站部あり。
**********1894/11/08 第九五号 受領番号 朝第三一五八号 庁名 野戦監督長官部 件名 後備歩兵第十九大隊三中隊糧秣準備ノ件 提出 二十七年十一月八日 野戦監督長官ヘ御指令案 後備歩兵第十九大隊三中隊ノ人員七百二十名馬匹四十頭ニ対スル糧秣三ヶ月分ヲ宇品倉庫ニ同三ヶ月分ヲ下ノ関倉庫ニ準備方電報ヲ以テ請求ノ件承認候也 陸軍省 送達 送乙第三二九〇号 十一月八日 本件ニ要スル費用ハ已ニ成立セル臨時費予算中ニ包含ス 朝第三一五八号 臨経甲第一三九二号 陸軍省 大本営野田長官 後備歩兵十九大隊三中隊約七百二十名馬匹約四十頭ニ対スル糧秣三ヶ月分宇品倉庫ニ及下ノ関ニ三ヶ月分準備ヲ請求ス但シ十八大隊ノ分ナリ 十月二十八日後五時三十五分 C05121609900
「駐韓日本公使館記録」1894-11-07 [忠淸北道 東學黨 征討方略指]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-07[日士官等 携帶關文의 發交催促]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-07[官軍督勵 및 日士官指揮順應件 示達回答]
**********1894/11/07<<日軍清の大連湾を占領

「駐韓日本公使館記録」(1) 1894(明治27)年11月6日 天橋丸ノ事竝ニ日淸兩國商船捕獲免除協議ノ事  船長吉田代吉以下船員に愛媛県人数名あり
「駐韓日本公使館記録」1894-11-06[竹山官軍의 士氣督勵와 助剿隊士官指揮의 飭遵要請]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-06[東學黨助剿計劃 및 豫備事項의 通告]
**********1894/11/06/<< 「自由新聞」旅順口における戦いの情報を流し始める。(「日清戦争の社会史」)
**********1894/11/06<<日軍、清の金州城を占領

**********1894/11/06<<後備歩兵独立第十九大隊(第三中隊)仁川到→関連同日続いて第一中隊、午後四時に、第二中隊も午後七時に仁川港に入港。

**********1894/11/06 新鮮兵站司令官より釜山兵站司部宛電報
今回東学党討伐の為め仁川に来るべき三中隊は・・・当分該党討滅のみの任務を帯ばしむる見込に付、兵站線の守備兵と為し難し。故に京釜間の兵站守備は依然貴官(=釜山兵站指令官)の大隊(後備歩兵第十連隊第一大隊)にて担当する義と承知あれ(『甲午農民戦争と日本軍』(井上勝生)362p)

1) [日軍守備隊 日內 到着, 掌樂院을 宿舍로 要請] (1894-11-05)伯爵 井上馨 発
後備歩兵第十九大隊の宿舎を掌樂院(下の写真)に・・・
「駐韓日本公使館記録」1894-11-05[東學黨關係書類 搜索問題]
**********1894/11/5 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 
午前八時十五分処安島を出発。午後二時頃悪天候となり再三にわたって転覆の危機。午後六時、仁川に到着。
**********1894/11/04<<清国恭親王、英米仏独露の公使に、朝鮮独立、賠償支払いを条件に休戦調停を要請

**********1894/11/04 電報 十一月四日午後四時十五分京城着 六時着
当大隊第一第二中隊ハ本日午前十一時京城ニ着ス
後備歩兵独立第十八大隊長代理 大本営 右参謀部ヨリ回送 C06060838700

「駐韓日本公使館記録」二六新報 明治27年 11月 30日 東學黨討伐公報 날 짜 : 1894년 11월 4일 음력

「駐韓日本公使館記録」(7) [槐山地方 東徒討伐狀況에 관한 福富大尉 報告에 따른 伊藤兵站監의 措置 通報] 송일 十一月四日 (1895-11-04) 발송자 少佐 里見 수신자 公使館 書記官
一月四日
里見少佐
公使館 書記官 貴下
可興福富大尉ヨリ伊藤兵站監ニ報告(十一月四日十時三十分)
忠州ニ在ル原田少尉ハ二分隊ヲ率ヒ一昨日槐山地方ヘ偵察中昨日該地ニ於テ賊兵約二百人ニ出會シ激戰ヲ爲シ漸クニシテ今日六時忠州ニ歸ル但シ原田少尉以下四名負傷兵卒壹名卽死セリ
右報告ニ對シ伊藤兵站監ヨリ龍山守備隊長飯島少佐ニ命シ一小隊ヲ率ヒ直ニ出發臨機處分ヲ爲スヘキヲ命セリ御通知迄ニ申入候也 「駐韓日本公使館記録」1894-11-04東學黨征討計劃과 鎭撫使 및 朝鮮軍 派遣要請
**********1894/11/04 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 午前一時ころ対馬を右に望んですすむ。午後四時朝鮮領内処安島(莞島の南)にて碇泊する。
「駐韓日本公使館記録」1894-11-03湖西東學徒로 인한 日本軍 支援要請
**********1894/11/03 後備歩兵第十九大隊第一小隊(桑原隊)従軍兵朝鮮私信 
((前略))昨年十一月三日
午前四時 宿町(具体的地名は不明 後備歩兵第十九大隊が編成された広島であろう)出発
仝八時宇治川丸に乗船 
十時出発 
此日は天気晴朗にして海上静に玄界灘を打過ぎ候 

「駐韓日本公使館記録」1894-11-03京城の北部での暴民黒幕は?[官邊においての暴徒使嗾論と 金州·坡州附近 暴民状況]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-02 [上件 領率官姓名 및 實情回報]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-02[特派敎導中隊 및 統衛兵·江華兵 領率官 姓名의 問議]
「駐韓日本公使館記録」1894-11-02金趙二名
**********1894/11/2~3 後備歩兵第十九大隊 相次いで広島を出港し仁川に移送される。
「駐韓日本公使館記録」18941101以後[忠北地域 東學黨에 대한 偵察 및 追加派兵合流待期]
「駐韓日本公使館記録」(1894-11-01)
陸軍大臣 伯爵 西鄕從道 発  特命全權公使 伯爵 井上馨 宛
1) [軍路 조사 관련]
(前文缺) 兼テ御承知相成居候朝鮮國京城釜山間及京城仁川間鐵道布設ノ儀先ツ其線路踏査ニ着手候事ニ相決シ今回軍路調査ノ名義ヲ以テ陸軍省御用掛遞信省鐵道技師工學博士仙石貢外技師技手書記等都合三十名外ニ工夫等若干名朝鮮國ヘ派遣相命候就テハ朝鮮政府ヘ其旨ヲ通牒シ其目的ヲ達シ得ル爲メ諸事便宜ヲ與ヘ且可成朝鮮官吏ヲ同行セシメ候樣要求御取計相成度此段申進候也
明治二十七年十一月一日
陸軍大臣 伯爵 西鄕從道
「駐韓日本公使館記録」1894-11-01忠州地方 偵探人 被殺에 관한 報告
「駐韓日本公使館記録」日付不明(26) [忠淸道東學黨巨魁人名錄]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-31[慶尙道泗川의 東學黨에 관한 實況報告]
海新聞韓国関係記事1894/10/31 昨日我兵二小隊は東徒鎮圧の為め出征した 「目的は何道とも定まらず 臨機各道に転征して之れを殲滅すべし
「駐韓日本公使館記録」1894-10-30 [天安 日人殺害犯 金敬先·趙明云의 押送通報 및 會同審問要請]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-30[水原附近東徒集結說의 事實無根照覆 上件의 回答]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-30[洪敬雲 押送要請]
**********1894/10/30 仁川の南部兵站監が守備隊三中隊の増派を大邱兵站指令部に通知。この三中隊が後備歩兵第十九大隊である。
「駐韓日本公使館記録」1894-10-29 [華城守備 交替兵의 急派要請]
海南新聞韓国関係記事1894/10/28 東学農民革命軍、安東の日本軍兵站支部を攻撃 38名で2000を撃退
1894-10-27 愛媛県宇和島市吉田町出身の片山嘉一郎上等兵が忠清北道清安で東学農民革命軍と戦って戦死

[淸安地方東徒의 日兵殺害說의 確認 및 拿獲要請]
愛媛新聞「弾圧の記憶 甲午農民戦争と愛媛」

「駐韓日本公使館記録」1894-10-27[食糧·金錢不足時 地方官에 一時立替問題]
「駐韓日本公使館記録」(6) [新京城守備隊의 親軍總兵營 주둔 문의]
(1894-10-26) 南部兵站監 伊藤祐義 発  特命全權公使 井上馨 宛

南站(=南部兵站)發甲第一五八號
京城守備隊之義ハ目下弘化門前ノ親軍總兵營中ニ屯在罷在候處今回派遣スヘキ守備步兵三中隊(※後備歩兵第十九大隊の三中隊であろう)モ該營ヘ屯在爲致差支無之哉何分ノ御回答相成度此段及御照會候也
「駐韓日本公使館記録」1894-10-26[天安·洪州等地 日軍派遣關文의 發交]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-26우리 병사들은 오늘 오후 4시에 출발하였으나 귀 군대와 만나지를 못하고 조금 늦게 도착할 것입니다. 아마 내일쯤이면 도착하리라 생각됩니다.
「駐韓日本公使館記録」1894-10-26 [水原派送兵의 出發與否 問議]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-25 [東學黨關係 電報四通 打電通報]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-25本日派遣ノ守備兵便利ヲ圖ル爲メ監理署巡査御差向相成
「駐韓日本公使館記録」1894-10-25水原府附近東學黨所分ノ爲メ朝鮮官兵出發ニ付我守備兵ヲ應援トシテ派遣

大阪朝日新聞 治27年 10月 25日

날 짜 : 1894년 9월 27일 음력 원문보기

明治27年 10月 25日
10月25日
朝鮮政府の囑託に應じて東學黨鎭定の爲萬里倉○○○○中の二小隊を昨日忠淸道に向け出發せしめたり
頃日朝鮮人の裝をなせる淸人數名の朝鮮人と共に牙山地方にて頻に船舶の徵發をなす東學黨の徒ならんといふ
●暴徒 (釜山特派片山猪三次發)
慶尙道に於て丹陽府に東學黨の殘徒集合し府使の宅を襲ひ兵器を奪ひたり府使は逃れたり忠州にも暴徒蜂起せり
右に就き洛東兵站部より丹陽へ一分隊、忠州へ一分隊の兵を送れり

慶尙道監司は晉州の東學黨討捕使として府使以下數人に昨日發遣を命じたり

【Boboro】洛東兵站部を守備していた部隊はどこだったかと詮索しているが、1896(明治29)年七月「当隊より派遣の電信線守備隊の配置は(脚気患者発生のため)本日に至り別紙の通り変更相成り候間云々」という文書が歩兵第1聯隊第1大隊長新山良知から,大山巌陸軍大臣に送られていること(アジ歴C06060642100)、
そしてウィキペディアによると第一連隊が1894年に朝鮮に派遣されていること からみて第一聯隊ではないかとも思えるが愛媛県吉田出身の片山さんが何が故に東京の第一連隊に入営したのかがまたなぞである。

「駐韓日本公使館記録」1894-10-25[東學魁首 防護兵 派遣通報와 同時派兵 및 軍需等의 豫備要請] 海南新聞韓国関係記事1894/10/24 東学党を鎮撫  東学党四五千晋州付近に在り 将に大に為すところあらんとす 依て士官以下百五十名並に朝鮮巡査を鎮撫の為めに派遣したり
**********1894/10/23 法律第23号 戦時若しくは事変に召集する在郷の陸軍下士・卒及兵役義務ある者並に之を引率する市町村吏員に支給すべき旅費については各市町村長に現金支払いを為さしむる為 現金前渡の支払い命令を為さしむることを得
**********1894/10/23 大本営川上兵站総監から南部兵站監へ電報。「東学党討滅の為め、歩兵二中隊増加派遣の件承知。近日派遣する筈。」
**********1894/10/22 全羅道の東学農民革命軍が北上をはじめ、晋州に迫る。
10月22日南部兵站監が大本営に守備兵2中隊の増派を求める。

「駐韓日本公使館記録」1894-10-22[東學黨의 檄文通報 및 情報通知 요청]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-22[金命吉 被殺經緯 解明]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-22[東萊府伯 등 各地方官의 匪徒歡待]
[駐韓日本公使館記録」1894-10-21[上件에 대한 回答]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-21 [嶺南東徒討伐作戰의 監司或 代官指揮와 從軍員飭派要請]
「駐韓日本公使館記録」明治二十七年十月二十日 (1894-10-20) 발송자 南部兵站監 伊藤祐義 수신자 特命全權公使 大鳥圭介 (25) [南部各地 東學黨의 出沒과 鎭壓에 관한 報告]

「駐韓日本公使館記録」1894-10-20[河東附近 東學黨의 群集과 日軍出兵에 따른 地方官의 편의제공 문제
「駐韓日本公使館記録」1894-10-20[金命吉被殺에 관한 現地調査 報告]金命吉は東徒なり
「駐韓日本公使館記録」1894-10-20[忠州附近地方의 匪徒擊退]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-19[金命吉被殺에 관한 現地調査 指示]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-19[水原留守書翰에 대한 照會 의뢰]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-17 [東學黨鎮圧に対する件]
「駐韓日本公使館記録」月日不明[東學黨の 再起と 日軍の 匪徒鎭壓に伴う朝鮮政府の協助要請]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-17[天安東徒緝捕協助關文의 送交]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-16[日警部의 天安東徒緝捕에 對한 協力依賴]
海南新聞韓国関係記事1894/10/16 報恩で支那人十二名を捕縛 ・ 在朝鮮の我が兵は同国の東学党を鎮定する事に関し極端なる強硬手段を執るべしとの風説頻りなり
「駐韓日本公使館記録」1894-10-16[東徒鎭壓兵 派遣通報와 同趣旨佈論依賴]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-16[行全羅道觀察使兼都巡察使親軍武南營外使爲謄移事]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-15 [忠淸監司 朴齊純의 日軍駐屯 요청]
**********1894/10/ 東学農民革命軍第2次蜂起
9月中旬チョン・ボンジュンは全州で,孫化中(ソンファジュン)は光州(クァンジュ)で斥倭(日本排斥)を叫んで起包するや、これに呼応して,各所で東学農民軍(郡)が蜂起した。
「駐韓日本公使館記録」1894-10-13 [行全羅道觀察使兼都巡察使親軍武南營外使爲謄移事]
「駐韓日本公使館記録」[官軍と日本軍との協助の 件]1894-10-12

「駐韓日本公使館記録」1894-10-12 [東學匪徒의 河東攻擊에 따른 巡査·兵力派遣問題]
海南新聞韓国関係記事1894/10/11 東学党を操る傀儡師あるか
「駐韓日本公使館記録」1894-10-11大院君東學黨ヲ說諭ノ件
「駐韓日本公使館記録」1894-10-06[民間煽動者 및 李容鎬 逮捕의 件]
海南新聞韓国関係記事1894/10/06 東学党の蜂起
「駐韓日本公使館記録」1894-10-05[聞慶東徒와의 接戰狀況 및 戰果通報]
海南新聞韓国関係記事1894/10/05[安東 등의 東匪實情과 檄文上申]
海南新聞韓国関係記事1894/10/05 
「駐韓日本公使館記録] 1894-10-02 [工兵第一大隊中隊長 樋口牒報]
海南新聞韓国関係記事1894/10/02 東学党は一種の盗賊
東学党なるものは一種の盗賊にして 良民を害し地方官吏を殺し金穀を奪ひ電線を絶つ等暴行至らざる所なく 傍ら日本人民を敵視する者なるを以て我兵は座視するに忍びず 朝鮮政府の為め 之れが鎮圧に従事しあるなり 
「駐韓日本公使館記録」1894-10-01[聞慶近傍 東學黨과의 戰鬪에 대한 報告]
「駐韓日本公使館記録」1894-10-01[東萊府伯 鄭寅學의 東徒密通行爲에 對한 核辦催促]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-29[東萊府伯 鄭寅學의 東徒密通事實의 指摘 및 嚴究要求]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-28 [上件准飭回答]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-28[安東亂民巨魁 徐相轍의 檄文入手 送付]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-28[ 京畿道 松坡 부근의 東學黨 집결에 대한 대비]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-27[上件 調査報告]
海南新聞韓国関係記事1894/09/27 安東方面で東学党日本軍を襲う
「駐韓日本公使館記録」1894-09-26 [忠淸道 天安郡에서 日本人이 東學黨에게 殺害된 件]
「駐韓日本公使館記録」月日不明[東徒鎭壓電飭 要請]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-26[上件准行回答]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-25 安東東都日本軍襲撃事件 
「駐韓日本公使館記録」1894-09-25 [城內潛入東徒의 警備自擔通告와 諒解要請]
「駐韓日本公使館記録」
[軍用電線 切斷者 단속책에 관한 具申] 문서번호 機密第一九號
발송일 明治二十七年九月二十四日 (1894-09-24)
발송자 在釜山 總領事 室田義文
수신자 特命全權公使 大鳥圭介

(11) [軍用電線 切斷者 단속책에 관한 具申]
機密第一九號
京釜間軍用電信ハ開通以來漸ク一ケ月半ニ足ラサレトモ其不通トナル事頻繁ニシテ實ニ左記ノ如ク
八月二十三日 長川以西
同 二十五日 大邱以北
同 二十九日 鳳凰臺陳安間
九月一日 大邱以北
同 二日 同上
同 十六日 洛東以東
同 二十一日 洛東以北
同 二十二日 洛東長川間
同 二十四日 洛東長川間

九回ノ多キニ至ル
其内一二ハ自然ノ作用ニ基クモノナリト雖モ他ハ皆本當ニ電線若クハ電柱ヲ切斷セルモノアリタルカ爲メニシテ此等不法ノ徒ハ多クハ朝鮮人ナルベキモ 中ニハ内地ニ潛伏スル支那敗卒ノ處爲ニ出テタル疑モ少ナカラズ 
且ツ又東學徒モ各地ニ於テ不穩ノ擧動ヲナシ旣ニ昨日聞慶兵站部ヨリ當港兵站監ニ達セシ電報ニハ 東學徒一人ヲ捕ヘタル處自白ハナサヽルモ其携帶品中ニ近日支那兵七千人「リンセツ」ヘ來ルベキニ付糧食ノ用意ヲナシ置クベシトノ先觸レ如キ書面アリ云々ト思フニ電線切斷モ主トシテ東學徒及ヒ淸國敗卒ノ處爲ナルベシ
就テハ先日來屢々電報ヲ以テ申進候通リ我兵站監ヨリ各地兵站司令官ヘハ夫々命令ヲ發シ犯者ノ取調ハ勿論東學徒擧動ニモ一層注意ヲ相求メタル筈ニハ相成居候得共 此際朝鮮政府ニ於テ慶尚忠淸兩道監司ニ電訓シ洛東聞慶可興三ケ所ヘ貴國官吏ニ數名ノ巡捕巡査ヲ付シ 之レヲ派遣シテ 我兵站司令官ト協議シ 一ハ以テ我軍用電信ヲ保護シ 一ハ以テ東學徒等ノ暴發ヲ豫防スル事ニ相成候ハヽ 彼我ノ利益ニ可有之 又大邱及公州ニ於テモ同樣電線保護ノ爲メニハ 特ニ官吏及ヒ巡捕等ヲシテ前述兵站司令官ノ指圖ヲ受ケ右等取締自ラ盡力スヘキ樣致度 右至急朝鮮政府ヘ御請求ノ義希望ノ至リニ有之候
右及具申候也
明治二十七年九月二十四日
在釜山 總領事 室田義文印
特命全權公使 大鳥圭介 殿
「駐韓日本公使館記録」1894-09-24[東學黨 城內潛入說과 嚴重警戒要求]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-22 [忠淸道 河潭·可興近地東學黨의 跋扈로 雇用困難]
「駐韓日本公使館記録」1894-09-21[上件에 關한 調査指示]
海南新聞韓国関係記事1894/09/09 東学党再興は虚談
海南新聞韓国関係記事1894/09/04 韓人による軍用電信線妨害を根絶せしめん
海南新聞韓国関係記事1894/09/04 日本を敵として東学党再興
吉田第5師団監督部長から報告の件
階層 防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>日清戦役>明治27年自6月至10月 「秘27、8年戦役緒報告 壱」

レファレンスコード C06060067500
言語 jpn
作成者名称 第五師団監督部長 吉田公宗
資料作成年月日 明治27年8月30日
規模 7
組織歴/履歴 陸軍省
内容 中路洛東ヨリ京城ニ至ル迄ノ景況別紙之通ニ付付設及報告也 明治二十七年八月三十日 第五師団監督部長 吉田公宗 野戦監督長官 野田豁通殿 通達書目 宿舎ノ状況 行進ノ景況 通貨之種類 韓人々夫使用之景況

海南新聞韓国関係記事1894/08/22 日本の壮士東学党の巨魁を訪ふ

**********1894/08/19 後備歩兵第十九大隊、下関守備隊に配属される

第五師団より下関守備隊に編入相成り候諸隊の職員表並に人馬概見表 八月十九日第六師団長より陸軍大臣宛

その1 後備歩兵第十九大隊はまず第五師団に配属され、8月19日に下関守備隊に配属された。
その2 このときの大隊長は南小四郎少佐ではなく、大原里賢少佐である。 副官鯉登行文中尉はの後に朝鮮国王妃殺害に関わる 中隊長森尾雅一大尉 小隊長 赤松少尉、桑原少尉はこの年表に登場する。
その3 下関守備隊に配属された後備歩兵第十九大隊は「一中隊欠」で総勢662人だったことがわかる

「駐韓日本公使館記録」1894-09-18[金命吉被殺에 관한 照會]
**********1894/08/18 第五師団後備諸隊編成表
愛媛出身兵士が動員された後備歩兵第十九大隊の総員は720名、同じく後備歩兵第十連隊の総員は1889名であった。

将校同相当官職員表
後備歩兵第十九大隊 720名  後備歩兵第十連隊 1889名
大隊長 少佐 大原里賢 連隊長 大佐 川嵜宗則
副官 中尉 鯉登行文 副官 大尉 岩田直晟
軍医 雇医 清水政則
 同 石井信哉
旗手 少尉
軍吏 山崎茂樹 第1大隊長
第2大隊長
少佐 飛鳥井雅古
少佐 深水  清懿
中隊長 大尉 松本正保
同 森尾雅一
同 石黒光正
大隊副官 中尉 遠田喜代
同  小南良知
小隊長 中尉 水原熊蔵
少尉 赤松国封
同 桑原榮次郎
見習士官 楠野俊成
曹長 鈴木政吉
同 武田真太郎
軍医 雇医 市村熊之助
同  平田 尹典
同  水野 悦造
同  中村嘉源太
軍吏 一等軍吏 酒 井 融
三等軍吏 松野清三郎
中隊長 大尉 福富 孝元
同  三宅 武義
同  藤田 景徳
同  鈴木 安民
 永見松太郎
同  串田 孝紀
同  横 地 剛
同 加茂  政直
小隊長 中尉 田中  正晴
同  齋藤貫五郎
同 宇野  美算
同 三好  謹造
少尉 萩原辰三郎
同 藤坂松太郎
同 安岡  穂造
見習士官 戸 田  暲
同 福重  久給
同 千種  元一
同 木下  広治
同 橋田  市麿
中小尉      


海南新聞韓国関係記事 1894/08/09 後備兵召集の令を受け、子を殺して従軍す
**********1894/08/08 後備歩兵第十九大隊八月八日下関着 後備歩兵第十連隊一個大隊 八月五日下関着 同残余 六日下関着 (各地守備隊配置兵到着調 アジ歴レファレンスコードC06060068200)
海南新聞韓国関係記事1894/08/04 
**********1894/08/01 勅令第135号 日本臣民 管轄地方庁の許可無くして朝鮮国へ渡航することを禁ず 
**********1894/07/23 「朝鮮事件に付き後備兵召集に付き右に係る旅費金三万五千三十円支出の儀・・・閣議に提出す」大蔵大臣より内閣総理大臣へ
**********1894/07/23 日本軍が慶福宮に乱入、朝鮮兵を駆逐し、大院君を擁立 「駐韓日本公使館記録」
[朝·日兵間의 銃擊戰問責과 日兵의 宮門把守 强行言明]
以書柬啓上致候陳者我護衛兵本日午前四時龍山ヨリ入京ノ際貴國王城附近ノ場處ニ於テ貴國兵丁故ナク我護衛兵ニ發砲シタルニ付我兵ニ於テモ不得止之ニ應砲及ヒ候右不當ノ所爲ニ付テハ貴國政府自ラ其責ニ任セラルヘキモノニ有之候間追テ御開談可及積リニ有之候得共談判相付候迄ハ我兵ニ於テモ貴國王城ヲ擁守セシムヘク候間右御承知相成度此段不取敢及御照會候敬具

督辦交涉通商事務 趙秉稷 閣下
「駐韓日本公使館記録」1894-07-19[內政改革勸告에 대한 朝鮮政府의 反應]
「駐韓日本公使館記録」1894-07-17[淸國에의 援兵要請과 反日認識]
「駐韓日本公使館記録」1894-07-11民亂地方視察復命書進達ノ件
海南新聞韓国関係記事1894/07/11 軍用電信は目下我軍隊警固しつ丶架設し居れり 
「駐韓日本公使館記録」1894-07-03淸國軍 出兵動向과 이를 둘러싼 諸報告]
「駐韓日本公使館記録」1894-07-03[淸國軍 派韓反應과 淸使의 對應]
海南新聞韓国関係記事1894/07/01 京城、仁川、釜山に日本の陸兵満々たり 
東学党の勢 日に猖獗を極め 朝鮮政府の微弱なる 竟に独力内覧を鎮定する能はずして 清兵の来援を乞ふに至るや 我が日本政府又た事態の看過す可からざるを知り 出兵陸続 今や既に京城、仁川、釜山には日本の陸兵満々たり
「駐韓日本公使館記録」1894-06-30 [北京公使館으로의 京城探報書 제출]
海南新聞韓国関係記事1894/06/30 日進談判不調 東学党再蜂起か
海南新聞韓国関係記事1894/06/29 「本日午後三時肥後丸にて陸兵○○余名到着す云々」 肥後丸は少なくとも二千名の人員を搭載するに足る船なりと聞く

海南新聞韓国関係記事1894/06/27 古阜蜂起の原因・東学党の根拠固し・東学党の大軍師指導者は全琫準
「駐韓日本公使館記録」1894-06-26全州出張高嶋留學生ヨリ電報
「駐韓日本公使館記録」
對韓政策ニ關シ意見上申ノ件
明治二十七年六月二十六日 (1894-06-26)
在京城 二等領事 内田定槌より外務大臣 陸奧宗光宛
「折角軍隊を出したからには朝鮮を日本の保護国とすべき」
海南新聞韓国関係記事1894/06/26 東学農民革命軍全州から引き上げる
「駐韓日本公使館記録」1894-06-25袁世凱ヨリ朝鮮政府ニ送リタル機密書翰
海南新聞韓国関係記事1894/06/24 全州鎮定か
「駐韓日本公使館記録」1894-06-24招討使洪啓薰ヨリ議政府ニ報申シタル文ハ如左
「駐韓日本公使館記録」1894-06-23世凱가 統署를 거쳐 議政府로 보낸 照會
海南新聞韓国関係記事1894/06/23 村民の地方官にたいする不平
海南新聞韓国関係記事1894/06/21 海軍少佐新納(にいろ)時亮氏 忠清道巡邏中 朝鮮人の為め殺害されたり 
海南新聞韓国関係記事1894/06/20 日本の出兵、帝国の威武を海外に宣揚するは文禄の役に同じ
「駐韓日本公使館記録」1894-06-20 [上件에 대한 回答]
「駐韓日本公使館記録」1894-06-20[南部民亂地方 視察復命
「駐韓日本公使館記録」1894-06-20探報書
海南新聞韓国関係記事1894/06/19 韓民は資産を作らず 地方官の収奪が原因

「駐韓日本公使館記録」1894-06-19[日軍入京과 淸國軍 牙山滯留 및 全羅民擾近況]
海南新聞韓国関係記事1894/06/18 

▲釜山居留の外国人

釜山に居留する日本人及外国人総数は左の如し

日本戸数 九百四十五戸 人口 四千五百八十五人
内 男 二千四百九十五人 女二千零八十五人
米人 二名  英人 九名 仏人 一名 清人 百〇八名 独人 二名
「駐韓日本公使館記録」1894-06-17全羅擾亂彙報
海南新聞韓国関係記事1894/06/16 
海南新聞韓国関係記事1894/06/16 

海南新聞東学関係記事1894/06/16<東学党の島津将軍(5本)


**********1894/06/16<<陸奥宗光外相、清公使に、東学党反乱討伐・朝鮮内政改革の共同行動を提起


海南新聞東学関係記事1894/06/15<清兵(支那兵)1万仁川に上陸 (7本)


「駐韓日本公使館記録」
我兵渡韓ニ付統署ト往復竝ニ俄公使問答ノ件 문서번호 機密第九三號 本六○
발송일 明治二十七年六月十四日 (1894-06-14)
발송자 特命全權公使 大鳥
수신자 外務大臣 陸奧
「駐韓日本公使館記録」1894-06-14[淸國軍上陸에 따른 牙山現地視察報告]
「駐韓日本公使館記録」1894-06-14 [日軍入京과 淸國軍派兵 및 全羅民擾近況]

海南新聞東学関係記事1894/06/14<島津久光の子が東学軍一方の首領との噂(18本)


海南新聞東学関係記事1894/06/13<東学党は其勢実に猛虎の檻を脱したる如く(20本)


**********1894/06/13<第十旅団動員下令(陸軍歩兵第22連隊)
歩兵第二十二連隊経歴書
明治二十七年六月十三日充員下令 同月18日充員完成  同年八月三日第二大隊ハ朝鮮国元山津ニ向テ松山衛戌地出発 同月五日元山津上陸 同月七日元山津出発 同月十五日京城着同月十八日京城守備隊 C06061747000

経歴書 歩兵第二十二連隊第二大隊 明治二十七年六月十三日充員下令八月十八日充員完成同年八月三日朝鮮国元山津ニ向テ松山衛戌地出発同月五日元山津上陸同月六日元山津出発同月十五日京城着同月十八日京城守備隊ヲ命ぜらる・・・C06061747200


「駐韓日本公使館記録」使館護衛兵上陸進京之儀ニ付統署督辦ト往復ノ件 문서번호 機密第九二號 本五九
발송일 明治二十七年六月十三日 (1894-06-13)
발송자 在京城 特命全權公使 大鳥圭介
수신자 外務大臣 陸奧宗光

「駐韓日本公使館記録」1894-06-13夜12時  暴民實況及ヒ淸韓兵動靜偵察彙報


「駐韓日本公使館記録」月日不明牙山ニ於ケル聶提督ノ告示
「駐韓日本公使館記録」1894-06-13[東學黨近況探聞記]
「駐韓日本公使館記録」1894-06-13[慶尙道內 東學黨景況 探聞 報告]
海南新聞韓国関係記事1894/06/13 6月11日全州恢復の報告
 1894-06-12全州落城後官軍進擊ニ關スル彙報  「駐韓日本公使館記録」韓国国史編纂委員会DBDB-jh_001_0020_0240

「駐韓日本公使館記録」1894-06-12以後[日淸兩國軍 入京에 따른 朝野의 反應과 全州賊徒狀況]

**********1894/06/12<<混成第九旅団(旅団長大島義昌)編成、混成第9旅団(約7000人)の先遣隊仁川に到着 その後続々上陸。派兵理由を失った大軍の上陸は欧米諸国の警戒を招いく一方、対中国対朝鮮強行外交を叫ぶ国内世論のために撤兵もできず、伊藤内閣はジレンマに陥った。 派兵理由を公使館員保護から東学党の乱などが生じないための朝鮮内政改革に転換。このときに対清国開戦を強く主張したのが、陸奥外相と参謀次官川上操六を中心とする陸軍の勢力だった。(『日清・日露戦争』56p)。

★飛行器研究家・二宮忠八は大島旅団に衛生卒調剤手として参戦、幕営にあっても飛行器研究を続けた。ウィキペディアの記事 



「駐韓日本公使館記録」1894-06-12全州落城後官軍進擊ニ關スル彙報


「駐韓日本公使館記録」1894-06-12[日淸兩國軍來韓에 따른 國內外探情 報告]


海南新聞東学関係記事1894/06/12<官軍全琫準を知らざるか? 東学軍破竹の勢い(13本)


「駐韓日本公使館記録」
護衛兵上陸方ニ付協議
明治二十七年六月十一日 (1894-06-11)
発送者 在京城 特命全權公使 大鳥圭介
受信者 陸軍少將 大島義昌

・・・然ル處當國全羅道各地ニ於ケル民亂ノ狀況ハ昨今稍々鎭靜ニ傾キ隨テ來援之淸兵モ其先發兵凡一千人程牙山ニ上陸シタルモ未タ戰地ニ向テ進發シタル報告無之其他ノ千百人程ハ牙山ニ滯泊シテ上陸ヲ差控ヘ居ルヤニ及傳聞候右ハ盖シ朝鮮政府ハ一旦淸兵ノ出援ヲ請求シタルモ其後我國派兵入韓ノ擧ニ遇ヒ痛ク之ヲ恐懼シ重テ淸兵ノ上陸セスシテ早ク撤回セン事ヲ請求シタルニ因ルニアラザルカト被推察候加之當京城ノ形勢ハ目下頗ル平隱ニシテ警戒ヲ要スル程ノ事幾ント無之就テハ此際我國ニ於テ多數ノ兵員ヲ上陸シテ京城ニ突進セシムル事ハ其擧動甚タ不穩當ニシニ外交上極メテ不得策ト被考候其ノ理由ハ左ノ通リニ有之候・・・

本官護衛兵ヲ帶同シテ發仁入京ノ顚末(大鳥圭介特命全権公使)
明治二十七年六月十一日 (1894-06-11)
発送者 在京城 特命全權公使 大鳥圭介
受信者 外務大臣 陸奧宗光

「駐韓日本公使館記録」1894-06-11曉諭告示文
「駐韓日本公使館記録」1894-06-11
発信者 特命全權公使 大鳥圭介
受信者 二等領事 能勢辰五郞
[後續部隊 出兵保留의 電文]

海南新聞東学関係記事1894/06/10<東京八日発 一昨日我軍隊は仁川に上陸 報道規制強化3本)

 ※郵便報知新聞、中央新聞、小日本の三新聞も本日発行停止。目下東京新聞にて此厄に罹るもの殆んど半数 皆朝鮮事件に関してならん 恐るべし恐るべし。

 ※曩(さき)に陸海軍省令に依り軍隊の進退及軍機軍略に関する事項を新聞雑誌に記載するを禁ぜられし為め 東京通信社より接手せし幾十通の電信も空しく没書 函中に投入
 ※一昨日我軍隊は仁川に上陸せしものの如し


**********1894/06/10<<休暇帰国中の大鳥圭介公使、陸戦隊420人を率い漢城に到着


**********1894/06/10<<朝鮮政府と東学党全琫準の間で全州和約締結 農民軍全州撤退。政府軍と清国軍が全州に入城した。


**********1894/06/10<<清国軍 牙山上陸


「駐韓日本公使館記録」1894-06-10以後
海南新聞韓国関係記事1894/06/10 

海南新聞東学関係記事1894/06/09<清国、米国、某国軍艦朝鮮仁川港に入港 ※某国は日本。国民新聞・東京日日新聞発行停止一日

「駐韓日本公使館記録」1894-06-09大鳥公使軍隊を引き連れ京城に入る 参考
「駐韓日本公使館記録」1894-06-09支那兵到達之報告
「駐韓日本公使館記録」1894-06-09探報書
「駐韓日本公使館記録」1894-06-09[淸國軍 牙山上陸狀況 報告]
「駐韓日本公使館記録」公使館護衛兵派遣ノ儀通知顚末

発信 明治二十七年六月九日 (1894-06-09)
発信者 臨時代理公使 杉村濬
受信者 外務大臣 陸奧宗光

「駐韓日本公使館記録」明治二十七年六月八日 (1894-06-08)
発信者 臨時代理公使 杉村濬 受信者 外務大臣 陸奧宗光

金玉均生父及妻女ニ對スル處分ノ事 (「凡ソ人ノ刑スルニ其罪親族ニ迄及フハ現今開明諸國ニ行ハレザル風習」と親族連座を批判)

**********1894/06/09<<この日の午前、第五師団歩兵第一大隊と工兵一個小隊宇品港を発つ


「駐韓日本公使館記録」1894-06-08雑報
「駐韓日本公使館記録」1894-06-08 [淸國軍 牙山上陸에 따른 諸報告]
**********1894/06/07 「当分の内軍艦軍隊の進退及軍機軍略に関する事項」の新聞掲載を禁止(陸軍省令・海軍省令)
「駐韓日本公使館記録」1894-06-07全州落城後官賊兩軍ノ運動ニ關スル彙報

海南新聞東学関係記事1894/06/06<官軍敗れ隊将死す(3本)


**********1894/06/06<<大本営、第五師団(広島市)に歩兵第一大隊の先発を命ず


**********1894/06/05<<大本営設置 第五師団動員令


**********1894/(明治27)年06/05 軍用電信法公布 1 2 3 4

1894-06-05「駐韓日本公使館記録」韓国国史編纂委員会DB
**********1894/06/04<<李鴻章、朝鮮国王の要請を受けて900名の清国兵を派兵。
1894-06-04帰任する公使への訓令:「駐韓日本公使館記録」韓国国史編纂委員会DB
「駐韓日本公使館記録」1894-06-04
1894-06-03 東学続報 :「駐韓日本公使館記録」韓国国史編纂委員会DB
「駐韓日本公使館記録」1894-06-03
「駐韓日本公使館記録」1894-06-03
「駐韓日本公使館記録」1894-06-03 [全羅忠淸民亂 鎭撫方策 淸國에의 要請 및 出兵件 報告]
「駐韓日本公使館記録」1894-06-03 [全羅忠淸兩道亂黨 景況通告 및 淸國 派兵如否에 관한 情報 要請]

「駐韓日本公使館記録」李鴻章이 袁世凱에게 보낸 電報


**********1894/06/03<<朝鮮政府、東学党鎮圧のため清に援兵を乞う


海南新聞東学関係記事1894/06/02<東学革命軍の進軍続く(10本)


**********1894/06/02<<政府は第六議会を解散、同時に、清の朝鮮出兵に対抗して、在留邦人保護と日本公使館守備を口実に朝鮮出兵を決定 八日に公表


「駐韓日本公使館記録」1894-06-02[全羅亂徒 動靜 및 全州城陷落 報告]
「駐韓日本公使館記録」1894-06-02[全州民乱の近況]
「駐韓日本公使館記録」1894-06-02
「駐韓日本公使館記録」1894-06-02
「駐韓日本公使館記録」昨夜公然公文ヲ以テ袁世凱ヘ傳達方依賴申込

海南新聞東学関係記事1894/06/01   官兵800名のうち200名が東学党に寝返る東学党暴動彙聞(5本)


**********1894/06/01<<
5月31日国王の内命を受けた閔泳俊が袁世凱に清国軍出兵を依頼した。6月1日、在朝鮮公使杉村濬(フカシ)、朝鮮政府が清へ援兵要請した旨陸奥宗光外相に報告、2日この報国が東京に到着。(『日清・日露戦争』55p)


「駐韓日本公使館記録」1894-06-01


「駐韓日本公使館記録」1894-06-01
「駐韓日本公使館記録」1894-06-01
「駐韓日本公使館記録」1894-05-31以後 [亂徒 羅州長城經由 全州陷落件 通告]

**********1894/05/31<<東学農民軍が全州城を占領
「中央から派遣された軍隊は5月25日長城県にて東学徒との戦闘に惨敗し、5月31日にはついに全州が陥落した。・・・近代的軍隊のあっけない敗北は。朝鮮王朝に深刻な衝撃をもたらした。・・・朝鮮王朝は最後の手段に訴えることになる。・・・洪啓薫(両湖招討使)もまたすでに廟堂に清から兵を借りるべきことを上奏しており。6月1日廟堂ではこの問題をめぐって激論が交わされた。」(『高宗・閔妃』214p)


「駐韓日本公使館記録」1894-05-31
「駐韓日本公使館記録」1894-05-30
「駐韓日本公使館記録」1894-05-29

「駐韓日本公使館記録」1894-05-28
「駐韓日本公使館記録」1894-05-28

海南新聞東学関係記事1894/05/27 <東学大勝 東学の勇気さこそ 東学党暴動詳報(1本)


「駐韓日本公使館記録」1894-05-27

海南新聞東学関係記事1894/05/27 <東学党 烏合の衆にあらず 東学党暴動詳報(1本)


「駐韓日本公使館記録」1894-05-27
「駐韓日本公使館記録」1894-05-25
「駐韓日本公使館記録」1894-05-25

「駐韓日本公使館記録」[民亂鎭靜策としての地方弊政改革] 明治二十七年五月二十五日 発信(1894-05-25)
臨時代理公使 杉村濬より外務大臣 陸奧宗光あて

(前文缺)
故ニ此際貪官汚吏ヲ處罰シ地方ノ弊政ヲ改革セバ夫ニテ鎭靜ニ歸ス可シ作亂以來彼等ノ所業ハ地方官ヲ逐ヒ官穀ヲ奪フ等ニ止ルヲ觀テモ彼等ノ心中ヲ推測シ得可シト申シ居リ候右ノ疑問ハ今後十數日間ノ景況ニ於テ其如何ヲ判定シ得ル事ト被存候
右及上申候也
明治二十七年五月二十五日
臨時代理公使 杉村濬
外務大臣 陸奧宗光 殿


「駐韓日本公使館記録」1894-05-23
「駐韓日本公使館記録」1894-05-22
「駐韓日本公使館記録」1894-05-22
「駐韓日本公使館記録」1894-05-22
「駐韓日本公使館記録」1894-05-21
「駐韓日本公使館記録」1894-05-21
「駐韓日本公使館記録」1894-05-21
「駐韓日本公使館記録」1894-05-20

海南新聞東学関係記事1894/05/19  東学農民の蜂起に対して800人の朝鮮政府軍派遣(6本)


「駐韓日本公使館記録」1894-05-19
「駐韓日本公使館記録」1894-05-18
「駐韓日本公使館記録」1894-05-17
「駐韓日本公使館記録」1894-05-16
「駐韓日本公使館記録」1894-05-15
「駐韓日本公使館記録」 1894-05-14
「駐韓日本公使館記録」1894-05-13
「駐韓日本公使館記録]「駐韓日本公使館記録」
(6) [東學黨에 대한 諸報告]

문서번호 週常報告第 號
意謂
(6) [東學黨에 대한 諸報告] 週常報告第 號
1) 全羅監司電報初六日下午五點 (我五月 日)
東學之徒、自錦山敗走時、不過千餘名矣。意謂流散一日二日之間、滋漫、爲四五萬名猝、入扶安邑、殺吏校、捉囚縣監、官穀沒數運去于不知何處。官庫中 軍器盡爲奪去。屯聚於官府其勢浩大云云
明治二十七年五月十二日
杉村 臨時代理公使
外務大臣 陸奧宗光 殿

2) 同 監司電報初七日午時 (我五月 日)
東學徒黨又入同福縣、軍器官穀盡爲奪去、云云。又連見電報則、東學黨入全羅道扶安、擒囚縣監、奪取軍器錢粮。忠淸道□□縣亦然。全州新設兵丁 生擒東徒十四名云云
忠淸道東學黨、鎭岑・連山・沃川□□□□地、各以五六千人聚黨屯聚電報入來也云云

公州・利仁驛、負商亦成黨四千人、聚屯盖與東黨結怨。東黨見負商則輒殺之。故也間者互相殺傷爲數十人云云
3) 國王陵行停止ノ件
廣州獻陵行幸、初以四月十二日。而固東學拔々爲殊、虞大臣聯奏而停退云云


「駐韓日本公使館記録」1894/05/12
「駐韓日本公使館記録」1894-05-08
**********1895/05/07<翌日(5/7)洪啓薫(両湖招討使)らは壮衛営兵丁5隊800名を率いて出陣。当時の壮衛兵営は小規模とはいえ、モーゼル式小銃とクルップ式野砲、そして旧式ガトリング式機関銃で武装し、アメリカ人教官ダイに鍛えられた朝鮮王朝最精鋭の軍隊だった。(『高宗・閔妃』213p)」
※『自由新聞』5月20日を過ぎて東学党の乱に関する雑報が増える。しかし、東学党の乱の本質はわからない。
「駐韓日本公使館記録」1894/05/05
「駐韓日本公使館記録」月日不明全羅監司書目大槪
「駐韓日本公使館記録」月日不明全羅監司書目大槪
「駐韓日本公使館記録」月日不明忠淸監司書目大槪

海南新聞東学関係記事1894/01/12~04/29<金玉均暗殺事件 続々報道(16本)

※「金玉均暗殺事件を機に国民の目を一気に混沌とした内政から「朝鮮・清国問題」に注視され、早々と義戦論さえ提起した。しかし、義戦の意味は不明確だった。(「日清戦争の社会史」より)


**********1894/02/  第六議会開会のしばらく前
朝鮮全羅道古阜で東学農民軍が蜂起

「逐滅倭夷」「駆兵入京、尽滅権貴」「輔国安民」などのスローガンを掲げた。
1889(明治22)年~1926(昭和1)年の徴兵制
陸軍 現役20歳から3年 予備役23歳から4年 後備兵役27歳から5年
海軍 現役20歳から4年 予備役24歳から3年 後備兵役27歳から5年
(『愛媛と戦争』22p)
歩兵連隊の定員(明治23年平時編制) [編集]
明治23年(1890年)11月1日制定時の「陸軍定員令」(明治23年11月1日勅令第267号)によると、当時の歩兵連隊の平時定員は次の通りであった。1個連隊は3個大隊12個中隊から構成されていた。なお、本章において単に「軍曹」としたものは1等軍曹(判任官3等)又は2等軍曹(判任官4等)の意味である。また、諸工長は1等軍曹相当官であり、諸工下長は2等軍曹相当官である。

連隊本部(連隊長以下41名、乗馬5匹)
連隊長:大佐又は中佐
連隊附:少佐
副官:大尉
旗手:少尉
武器掛:軍曹
喇叭長:軍曹
書記2名:軍曹
2等軍医正(少佐相当官)
縫工長又は縫工下長20名
靴工長又は靴工下長10名
大隊本部(大隊長以下16名、乗馬3匹)
中隊(中隊長以下136名)
この内、連隊長、連隊附少佐、連隊副官、2等軍医正、大隊長及び大隊副官が乗馬本分者であり、連隊長及び大隊長には乗馬2匹が用意される。

よって、連隊全体では、将校70名、下士145名、兵卒1440名、各部66名の総計1721名、乗馬14匹が定員となっていた。
ウィキペディア )

**********1894/03/28<<日本亡命中の金玉均氏が国外に拉致されて殺害され
備忘   東学関係サイトメモ  


**********1893/10 条約改正問題で内地雑居尚早派は大日本協会を設立し、対等条約の締結、内地雑居尚早などを決議。さらに対外硬派六派(1893)、対外硬派八派(1894/05)へと発展。(『日清・日露戦争』47p)第五議会で改進党が従来の外交政策を転換して、「現行条約励行」をスローガンに大日本協会と共同歩調をとり始め、政府は議会掌握の見通しを失った。(『日清・日露戦争』55p)
**********1892年7月19日20日付け 時事新報
福沢諭吉 「一大英断を要す」 「我国目下の政略として、人心と外に転ぜしむる其方向は朝鮮に在り」
<<「日清戦争の社会史」44pより
**********1890/10/30 『教育ニ関スル勅語』発布  91年から学校の式典で朗読
**********1889/井上馨59歳、伊藤博文54歳、陸奥宗光51歳、西園寺公望46歳、川上操六47歳、三浦梧楼48歳(『日清・日露戦争』62p)
**********1888年 (甲申事変以後日本は軍拡に乗り出した。(『日清・日露戦争』53p)
内戦に対処する鎮台を廃止、「全国を六師管区にわけ、第一師団(東京)、第二師団(仙台)、第三師団(名古屋)、第四師団(大阪)、第五師団(広島)、第六師団(熊本)が常設設置された。・・・遅れて1891年近衛師団が置かれ、ほかに北海道に屯田兵団が置かれた
」(『日清戦争の社会史』) 
陸軍の装備は歩兵と工兵は村田式単発銃、騎兵と輜重兵は村田式騎兵銃をもち、砲兵連隊は口径7.5センチの野砲と山砲を備えた。これらはすべて国内で自給できた。(『日清・日露戦争』53p)
海軍は「橋立」など(日本)三景艦そして知られる海防艦(4200ton)と水雷艇からなる「主戦艦隊」を編成、これに「吉野」「浪速」など3000~4000ton級の巡洋艦を加えた海軍を作った。後に、これらに多数搭載された12センチと15センチの速射砲が清国艦隊を圧倒した。(『日清・日露戦争』53p)
**********1888/ 甲申事変以後清国は急速に北洋陸海軍の建設を進めた。1888年には北洋艦隊が編成され「鎮遠」以下五隻の巡洋艦を英独から購入し、威海衛と旅順の軍港・要塞を建設した。李鴻章配下の准軍はモーゼル式小銃とクルップ野砲を装備した。
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1888年山縣有明『軍事意見書』
<将来東アジアにおける英露対立は必然>「我国の政略」は「朝鮮をして全く支那の関係を離れ自主独立の一邦国となし以て欧州の一強国事に乗じて之を略有するの憂なからしむる」こと。「(シベリア)鉄道竣工の日は、則ち露国が朝鮮を略有するの日」。日本は「兵備完整」を最大急務としなければならない。
1890年山縣有明『外交政略論』
「主権線」の外側に「利益線」を想定。「利益線(朝鮮)」を防護できなければ独立を維持できない。
<<「日清戦争の社会史」より


**********1884/08 ベトナムをめぐる仏・清対立のなか、清の敗色が濃くなると、日本は一挙に朝鮮を日本の勢力下におこうと朝鮮開化派(独立派)と結んで甲申事変を起こしたが、清国軍の進撃を受けて挫折。金玉均が日本へ亡命。このころから国権主義と脱亜主義が高揚し始める。(『日清・日露戦争』40p)
**********1883/ james Lorimer"The Institute of the Low of Nations"の19世紀「万国公法」の世界
トルコ、ペルシア、中国、シャム、日本は「野蛮人」の国。・文明国としての国内法がまだない。・部分的な政治的「承認」。・領事裁判権など不平等条約の対象となる。・「万国公法」適用には文明国の承認が必要。
文明国はヨーロッパ、北アメリカ。
残りが「未開人」の国=先占した文明国の領土とできる。
野蛮人の国から抜け出て、文明人の国の仲間に入ることが明治維新以来の日本のかかえた最大の課題のひとつであった。(『日清・日露戦争』2p)
**********1882年 参議・参謀本部長山縣有明、壬午事変直後『陸海軍拡張に関する財政上申』を行いこれを機に陸海軍大拡張が開始された(『日清・日露戦争』40p)
**********1882年7月23日 壬午事変 大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件 花房公使らはイギリス測量船で長崎へ避難。 (wikipediaより)  日本は済物浦条約を結んで日本公使館警護のため「兵員若干」を駐屯させる権利を得た。この駐兵権の規定が日清戦争の際の日本の出兵の法的根拠をされた。(『日清・日露戦争』51p)

**********1886(明治19)年11/30 徴兵令改正 1 2 3 4
**********1886(明治19)年4月20日 軍用電信妨害者処分の件 1 2 
**********1875/  明治政府は計画的挑発によって江華島事件を起こし、翌年(1896)二月二十六日、朝鮮川に不利な不平等条約である日朝修好条規を強制した。(『日清・日露戦争』51p)

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その他
2006年06月24日 任堂・安藤正楽年譜 完成
2006年03月28日
愛媛県と朝鮮
「愛媛百科大事典」(愛媛新聞社)の朝鮮関係の項目を洗い出したものです。