日本とコリア 20091月号

セへ ボン マーニ パドゥセヨ

さっそく新年の行事をご案内します

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日本コリア協会・愛媛 2009年総会

28日(日)2時から

松山市北持田町 愛媛教育会館和室

【学習会】なお当日は愛媛大学伊地知紀子さんの講演「済州島のこと」が準備されています。済州島旅行の希望も出ていますがちょうどいいタイミングですね。(先月号で演題を「莞島」関連とご紹介したのは編者のミステイクでした。すみません。)

【新年会】また講演会の後、忘年会の時のリクエストにお応えして2009年新年会を開く予定です。会場などは、ちょっと準備不足で、総会当日にお知らせすることになります。

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後備歩兵第十九大隊兵の眠る墓地を発見

理事 佐々木泉


 年末のある日、「愛媛新聞」の前身紙である海南新聞の記事を手掛りに、愛媛県から東学農民戦争討伐作戦に動員され朝鮮で戦病死した二人の兵士のお墓を探しに、尾上事務局長と出かけました。

  私たちはまず、「風早郡粟井村」の河野十蔵さんのお墓を探しました。

 この方は、明治27(1894)年11月7日出征、翌28年7月11日仁川の兵站病院で脚気症で死去された方で、海南新聞には次のように書かれています

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風早郡粟井村大字久保後備輜重輸卒河野十蔵氏は渡韓の命を受け昨年十一月七日朝鮮国仁川に着し 東学党征討軍に加入し(筆者注:この記述でこの兵士が後備歩兵第十九大隊に所属していたことがわかります)龍山万里倉を出で所々転戦中 不幸にして脚気症に罹り 本年七月十一日朝鮮国南部仁川兵站病院に於て死去し 其遺髪故郷へ到着に付き 去る(筆者注:八月)三十一日午後二時出棺 同村同大字池田の墓地に於て仏式葬儀を執行せり 祭主は同村真福寺住職太田和瑞隆氏外七名、同郡地方各村長、村役場吏員、村会議員、駐在所巡査、在郷兵、休暇兵、赤十字社員、兵事会員、学校教員及び生徒、青年倶楽部員 其他有志等 会葬者五百余名にして在郷兵より「吊慰忠魂」と記せし赤旗 及び有志より「名誉義魂」 青年倶楽部より「忠魂輝天地」と記せし同品を贈り盛大なる葬儀なりしと云ふ」

-------------------------------------------------------以上が記事の全文です。

  まず手始めに、粟井の国道付近で墓地があるはずの「粟井村大字久保池田」を探し回ったのですが見つかりませんそこで次に葬儀の祭主となった「真福寺住職」をたよりに、国道筋にある一字違いの「蓮福寺」を訪ね、ご住職に話を伺ったところ、真福寺は現在存在せず、真福寺を含む3寺が統合されて現在の蓮福寺になったということがわかり、手応えを覚えました。

 ご住職はわざわざ過去帖を取り出して明治二十八年の項を繰っていただいたのですが残念ながら、河野十蔵の名はありません。こういった調査はなかなか一筋縄ではいかないものです。

 ご住職は、「大字久保」というのは上の「久保」と下の「久保」があって、この川筋を上ったあたり「上の久保」なので、そこにはちょうど市役所の支所もあることだし、そちらを尋ねてみたらよいのではと助言くださいました。

 さっそく「上の久保」にある市役所支所を訪ねると若い職員が相談にのってくれました。しかし、余りに昔のことであり、この辺は河野姓の家も多くて、特定できないという返事でした。「そりゃそうだろう」と当方も納得して、支所を後にしようとしていたとき念のため「この辺りに墓地はありませんか」と尋ねると、「小さい墓地ですが、すぐ近くにありますよ」と教えてくれました。

 あまり期待せずに「一期一会」という気分でその墓地に入ってみました。なるほどそれほど大きい墓地ではありませんが、河野姓の軍人墓がありました。そのなかの一つに、「沖縄の首里」で亡くなったことが判る墓標がありました。尾上事務局長は、「沖縄で亡くなった22連隊の兵士の墓を見るのは初めてだ」といたく感激して写真を取っていました。本命には至らぬまでも、大きな収穫でありました。

 愛媛の郷土部隊である22連隊は、日清戦争で初めて海外に派兵されて朝鮮に侵入し鴨緑江を越えて清国まで攻め入りました。その後日露戦争、シベリア出兵、日中戦争(第一次上海事件)と日本の侵略戦争には必ず動員され、最後は満州から沖縄に投入され激しい地上戦に参戦、沖縄南部糸満の近くで米軍によって全滅させられました。このお墓は沖縄で米軍に殺された兵士の墓なのでした。

 

ほかにも河野姓の墓はいくつかありましたが、文字がただちには判明せず、これでは確認ができん、首里で没した墓
を発見できたこだけでよしとしようと、引き上げにかかったところ

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実は先ほどから、墓地をうろつく私たち二人組を遠くからいぶかしんで眺めておられた女性がお二人おられたのですが、帰り道に尾上事務局長が、そのお一人に「たぶんおわかりにならんだろうとは思いますが、河野十蔵さんという人のお墓を探しています、ごぞんじないですよね」とたずねたとたんに、なんと、もう一人の女性人が「うちのおじいさんよ」と声を上げたのです。

 このシーンを思い出すと、「エーッ」とか「ウッソ−」と言いたくなるほどのタイミングで、安手のテレビ・ドキュメンタリーみたいですが、本当です。

 その女性も曽祖父が戦死ではなく病死であったことはご存知でしたが、脚気が死因だった事までは知らなかったとのこと、また葬儀に五百名もの会葬者があったことなどまったくご存じなかったそうです。ご子孫にそんなことをお伝えできたこともうれしいことでした。

 この女性の、正確には曽祖父に当たるのが、いまから103年前、およそ30歳前後で亡くなった河野十蔵さんだったのです。 そのお墓には代々墓のほかに四、五基の古い墓石があり、そのなかのどれかが河野十蔵さんのものらしいのですが、その女性にもどれが十蔵さんのものかはわからないとのこと。不在のご主人ならわかりそうということで別に機会のもう一度お訪ねし十蔵さんのお墓を教えてもらうことにしました。私たちは墓群の前に持参してきた線香を上げこの墓地を辞しました。

 それにしても、蓮福寺のご住職が「上の久保」のことを教えていただいたから、また、支所の方が近くの墓を教えていただいたから、またまた、尾上事務局長がダメモトあの女性に声を掛けたから、という偶然があってやっとたどり着いたのだなあと感慨を持ちました。

 もうお一人の鵜高春吉さんについては、調査継続中ですが、太山寺ご住職に大変お世話になりました。(おわり)


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後備歩兵第十九大隊の愛媛県出身兵士の墓としてはもう一基確認されています。それは、吉田町(現・
宇和島市)のJR吉田駅の裏山にある法華宗一乗寺の墓地にあるものです(上の写真)。この兵士も死因は病死です。粟井の河野十蔵さんと同じ時期に韓国で病死して遺骨(または遺髪)が故郷に帰ってきたのですが、墓標は大変立派なものです。

下の写真は、墓標に礼拝される東学農民革命軍研究家・朴孟洙先生、後ろのセーター姿は元北海道大学教授・井上勝生先生。



朴孟洙先生は「「東学農民革命軍の参加者たちは朝鮮のもっとも貧しい人々でした。日本の兵士たちはその貧しい朝鮮人たちを殺したのですが、この日本の兵士たちもこの地域のもっとも貧しい農民たちでした。好き好んで人殺しをしたわけではないでしょう。貧乏であるがゆえに国家の企てた戦争に巻き込まれたのですから、かれらも被害者と見るべきでしょう。そんな気持ちで拝みました。」と語っておられました。

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解説】日清戦争の脚気

 太平洋戦争でも病死・餓死した兵士の多さが指摘されていますが、日本の最初の侵略戦争であった日清戦争ですでに同様の事態を呈していました。『日清戦争の社会史』大谷正・原田敬一編・フォーラム・A)所載の関連論考から要約紹介してみましょう。

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 本書によれば、1894(明治27)年7月の豊島沖開戦から1895(明治28)年11月の台湾戦争終了までの間の戦死が1417人であるのに対し、同期間の病死は1万1894人で、死亡した兵士の88%が病死者だったそうです。

 また松山部隊である歩兵二十二連隊の場合も本来の日清戦争(台湾出兵中を含まず)では戦死者36名に対し病死者196名、台湾出兵中は、戦死者6名に対し病死者は26名で、第5師団傘下の7連隊のなかでも広島の歩兵第十一連隊と並んで病死者がダントツに多い連隊でした。

 こうした戦地における病死のうち最大の病因が脚気でした。そうなった原因は、ご承知のように当時日本軍隊が精白米を常食していたからでした。一方、「軍隊に入れば白い飯が食える」というのは貧乏な青年たちにとって大変な魅力でした。

 海軍では脚気の原因が精白米の常食と関係があることを、軍艦「筑波」(この軍艦は後に後備歩兵第十九大隊の東学農民革命軍弾圧作戦に海から支援することになります)での食事実験を経て確信し、パン食、麦飯支給にふみきり大きな成果をあげますが、陸軍は、軍医部長の一人森鴎外などが海軍の主張には科学的根拠がない(実際ビタミンB1はまだ発見されていなかった)として、麦飯の支給に強硬に反対しました。日清戦争で陸軍が多量の脚気患者を生んだ背景にはそんな事情もありました。脚気の完全根絶は1952年武田薬品工業による体内に吸収された後、ビタミンB1に復元されるビタミンB1誘導体『アリナミン』の工業生産成功によって実現しました。