東学農民革命現場を探して(9)


-清州・清原篇

※清州から清州市が独立し、残りが清原となった。

清州・清原地域
東学指導者達の活動中心地であった

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▲慕忠峠(モチュンコゲ)にある慕忠祠。

清州の清原地域は早くから孫秉煕(ソンビョンヒ)ㆍ徐璋玉ㆍ孫天民など多い東学指導者達を輩出し、、光化門伏閤上疏の総本部だった솔뫼(訳注:ソルメ 現・南一面新松里:清州市南)村、江外面(訳注:清州の西)の兵馬山戦闘、2度にかけて展開された清州城戦闘など多い史跡のある。
※訳注:兵馬山は燕岐郡鳥致院邑新安조형アパートの裏山
※訳注:解放後清州(チョンジュ)邑が清州府に昇格したのに伴って清州郡を清原郡に改名


#東学指導者12人の
活動地


特に孫秉煕生家のある대주里(訳注:現清原郡北二面대주里)を中心に多くの東学指導者達が輩出された。
第二代東学教主・崔時亨(チェシヒョン)も官衙の監視を避けて潜行の布教するときいつでもここにとまるなど、東学の大物指導者達が出入りした村だ。

12人の東学指導者中徐虞淳(ソウンスン) 徐璋玉(ソジャンウク)が先に入道して孫天民・孫秉煕が入道する。徐璋玉は南接東学指導者の師匠であり、強硬派に属した人物でありながらも崔時亨(チェシヒョン)の絶対の信任を受けた、 9月以後東学革命の暴風の中では急に跡を隠して 1900年につかまり絞首刑に処せられる。

孫秉煕は崔時亨(チェシヒョン)から道統を受け継いで 第三代教主になり東学の後身である天道教を再建して、 3・1運動を率いる。


▲下の写真:兵馬山戦闘において東学
革命軍によって全滅した 69名の営兵
将卒の心魂を称える碑石。

#光化門伏閤上疏の中心地 솔뫼(ソルメ)
(訳注:ソルメ 現・南一面新松里:清州市街南)

ソルメ・マウル (訳注:現 新松里)に先祖代々足場を固めて生きてきた東学の子孫강순원(カンスウオン)氏によると当時晋姜氏達は東学の家系をなしていた。東学教徒は貧困階層だという認識とは違い、姜氏の高祖父は五衛將の官職を過ごした両班出身だった。

姜氏一族は家産をはたいて武器を援助し 、三人の兄弟が死に遭う惨禍を着た。 1893年光化門伏閤上疏の総本部格である東学大都所は現在の新松教会の場所にあたり、孫天民、ソピョンハクなど指導者達が集まって上疏文を作り参加者を選抜する等、伏閤上疏活動の中心地となった。

姜氏一族は伏閤上疏と二度の清州城戦闘において主導的な役割をした。当時東学革命軍はソルメ村の後山새터(セト 新垈)で武器を製作して軍事訓練をした。

#清州営軍が全滅した兵馬山戦闘

江外面(清州の西)ピョンマサン(兵馬山)戦闘は清州城戦闘が終って10月 1日東学頭領の三人が無心川河畔で梟首された日の二日後、10月 3日に行われた。

清州領官염도희(廉道希 ヨムドヒ)と隊官の이종구(李鐘九 イジョング)、敎長박춘빈(朴春彬パクチュンピン)など 69名の清州営 将卒軍士は大田方面に集結していた東学革命軍を鎮圧する目的で大田地方を巡察して帰ってくる途中の江外面兵馬山で東学革命軍とぶつかった。

領官廉道希(ヨムドヒ)は綸音(国王の手紙)を持って東学革命軍をなだめようと接近したとき戦闘が起こって 69名の将卒が全滅した。

しかし野史ではこれとは違って、官軍達が酒に酔って眠りこけた状態で東学革命軍の攻撃を受けたと伝える。

事実の究明は難しいが、無心川河畔で頭領達が梟首されたとき、頭領たちに従った東学革命軍の報復である可能性が大きい。しかしそれがどの地域の東学革命軍勢力なのかは知り得ない。ただ営兵軍士の葬儀に香典を納めた清州、清安、文義など近くの村の両班士大夫の名前と物目が伝えられていて、いろいろ情況からみるとこの近くの東学勢力といえるだろう。
▲下の写真 無心川

#双橋戦闘 清州城戦闘と同時に

清州城戦闘は 9月 24日この地域の東学革命軍の攻撃、 11月 23日湖南の金開南将軍が率いる 5千余名の湖南東学革命軍の攻撃と二度にわたって起きた。

東学の革命軍側ではソウルを攻略する橋頭堡を確保するという点で清州城は重要な意味を担っていた。

第一回目の清州城戦闘は 9月 24日双橋市場(現 忠清北道道庁付近)戦闘と清州城攻撃が同時に起きたようだ。

9月 28日公式電報관보に清州邑城(現 道庁附近)を五日間連日攻撃したが 28日敗退した忠清道観察使の장계によると 9月24日東学教徒数万が清州を襲撃し、兵馬節度使이장회は自ら戦って数十人を殺害した。 9月 30日東学軍が清州城を襲撃したが成功では出来なかった。10月 1日兵馬節度使이장회、군관・이용정などが東学頭領이종묵 정필수 정석복を逮捕して無心川河畔で群衆の前で梟首して教誨したなどの記録がこれを裏付ける。

戦闘を繰り広げた主体も他の東学革命軍勢力と思われる。後日の尚州 화령(訳注:尚州市化西面)でつかまった김자선頭領が双橋戦闘について自白していて、대주里出身최동석将軍も双橋市場戦闘において活躍したという証言がこれを裏付ける。


▲清州東軒、二度の戦闘があったがよく保存されている。
※東軒=「朝鮮時代地方官署で政務を採った中心的建物。観察使、兵使、水使、守令たちの政廳として地方の一般行政業務と裁判などがここで行われた。地方官の生活の場所である內衙( 西軒ともいった)と区分して普通その東側に位置していたため東軒と呼ぶようになった。衙舍、郡衙、縣衙、視事廳などと呼ぶこともあった。」ネイト辞典

#湖南の金開南も 日本軍の新武器の前に参る

金開南将軍が率いる東学革命軍は錦山を迂回して公州城に入ろうとしたが、鎮岑(訳注:チンジャム:現在大田広域市鎮岑洞付近を指す地名.)にいるとき南北接連合軍が公州牛金峙(ウグムチ)で敗れたという電報(伝報か?)に接し清州城攻撃に目標を変えたものと見られる。

11月 13日の記録に "金開南が率いる 5千余も湖南東学軍が城外三里あたりまで進撃してきて清州営兵と日本軍が出動して100名を殺傷する戦果を挙げて追い払った "あるいは "金開南の主力は全部散らばって金開南は単身退却した"とありこれらの記録から推し量ると湖南東学軍は清州城で完全に戦闘力を喪失したと見える。

これは忠州(嘉興 カフン)と水安堡(忠州市街南東 上芼サンモ面にある )に駐屯していた新式武器で
武装した日本軍が清州城に集中的に投入されたためだ。

#東学精神の産室金岩里 孫秉煕(ソンビョンヒ)生家跡


※訳注:金岩里は忠清北道清原郡北二面

清州から曾坪(ジュンピョン)へ行く大きな通りに孫秉煕の生家跡の案内板がかろうじて目に入ってくる。

広い場所に東学第三代教主孫秉煕の生家と銅像をたてたけれどもさびしいところだ。

筆者は、記念館では崔時亨(チェシヒョン)の嫁が機を織るのではなく天の神が機を織る>という織布説法のような精神的遺産も一緒に込めなければならないと思う。さらに근동東学指導者達の行跡を連係させ豊富な歴史的意味を伝えることができてこそ生きている歴史となる。