東学農民革命現場を探して(8)


-天安篇-

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 細城山戦闘略図1
 細城山千等略図2

細城山(セソンサン)戦闘敗北は
東学革命の分水嶺


▲写真下木川「伏亀(복구)亭」の前に立った장성균氏。天安三老、김용희(金鏞熙)·김화성(金化城)·김성지(金成之)が活発に布徳活動を繰り広げた。


天安地域の東学革命史は

1。初期の布教活動と東経大全(崔済愚チェジェウが漢文で書いた東学の経典)刊行地
2。初期東学教徒の動き
3。細城山戦闘
4。東学革命軍討伐戦

と要約される。
昨年12月、全国農民会総連盟天安農民会(会長전수철)の主管でと細城山戦闘を記念する学術シンポジウムが開かれた。これを契機に天安地域の人々に東学革命史に対する認識を新たにさせた。長い間郷土史を研究してきた장성균(天安文化財研究所所長)氏は筆者に上機嫌でこの地域東学革命の現場を案内してくれた。
筆者が天安サムゴリ公園に到着したときは春雨が公園の見事な花々を濡らしていた。



#東経大全刊行地 東面 竹渓里

天安地域には 1882年から布徳活動が活発に進行されて三老と讃える김용희(金鏞熙)·김화성(金化城)·김성지(金成之)が活発に布徳活動を繰り広げ、1883年には東経大全を主導的に発刊する程度に教勢が成長した。

東経大全を刊行した場所は木川郡帳内里求内里の김은경(金殷卿)の家と記録されているのだが、さまざま状況から見て東面竹渓里で確認された。

東経大全が木川で刊行された理由としては、資金確保が円滑だったこと、紙生産地域、印刷技術が蓄積されていたこと、昔から象眼細工の技術者が多く、後日天安並川地域に印章業が発達した点をあげることが出来る。

#はかなく敗れた細城山戦闘

天安の木川・全義村の東学革命軍 1、500余名は 8月から起包し官衙を攻撃し武器を奪取して 9月 2日細城山に陣地を構築した。

戦闘準備は天安三老、金鏞熙・金福用・金成之が担当し、総指揮は金福用、中軍は金永祐、火砲隊長は원금옥(ウォングムオク)が預かった。

当時の細城山戦闘は、南北接大連合軍が公州城制圧を目前にして、官軍の軍事力を分散させるという非常に重要な役割を持っていた。細城山の高さが海抜 220mがちょっと越える比較的低い山であるが、形状があたかもライオンのようで万人を捕まえて食べる山だと伝えられていた。

山の中腹には三韓時代に作られた農城がある。細城山東学革命軍陣地を狙った鎮圧軍部隊は中部地域に下りてきたイドファン(李斗璜)軍と清州の側にから上ってきた官の討伐軍だった。

討伐隊にはすでに日本軍が加わっていた。討伐軍は細城山の北側に 二ヶ小隊を待ち伏せさせ、東北方に 一個小隊を、東南の側に一個小隊を配置して攻撃命令に待った。

やがて東学革命軍が深く眠った明け方 5時ごろ 、夜が明ける直前に官軍は一斉に攻撃を開始した。東学軍としては全く予想できない奇襲攻撃だった。

10月18日から 21日まで四日昼夜にかけて進行された戦闘は組織的な訓練を受けて新式武器に武装された官・日本軍による虐殺だった。

記録にまともに訓練を受けていない東学農民軍は竹槍죽창で対決したものの、烏合の衆となって退却したのだが、総指揮者の金福用は祈りの言葉を暗記する勧めた。


▲写真下:北面沙潭里入り口の木。北接の頭目李熙人(이희인)が処刑された。

銃弾が激しく飛び交う山頂で、チプシン(靴の形をした草鞋)を履いた東学農民軍は両方の目を閉じて祈りの言葉を暗記しながら一人二人と倒れていき、討伐軍の一方的な虐殺の中で細城山の戦闘は幕を下ろしたという当時惨憺な討伐情況を読むことができる。

また文化遺跡総覧には、激しい戦闘で血が城を洗いながら流れたというところからで洗城といい、また屍城山と呼んだという。

当時東学革命軍被害は死亡370人、重軽傷者 770人、捕虜 17人と記録している。細城山の戦闘が終わって総指揮者の金福用はその場で、김화성、나채익、홍치엽、이선일は 24日天安남소거리で、金鏞熙、김춘일は 27日、원전옥、中軍の金永佑は公州に連行されて各々処刑された。

当時鎮圧軍の戦利品としては小銃 140丁、ラッパ2個、槍 288本、長箭 3200個、清国製弾丸 2万6500発、大小旗 30本、白米 226石、玄米 367石、雑穀 13石で、より長い期間持ちこたえることができる大量の兵糧と武器が残っていた。

細城山戦闘敗北は、東学革命史の分水嶺とされた戦闘として、公州牛金峙(우금치)戦闘で敗北することになった原因のひとつであった。細城山で戦果を上げた官軍はまっすぐに公州で降りて行って公州官軍と合勢する事ができたのである。

#残酷だった討伐戦

地域別の捜索及び殺戮日誌を要約すればつぎのようになる。

①木川北面沙潭里(사기실) :細城山戦闘が終わった翌日の22日、頭目李熙人、한철영など 62人を砲殺し 50余名は訓戒を与へて放免した。

②並川面桃源里광터谷 :細城山戦闘の勇将金福用ほか20余名と姓名不詳の他地域出身東学革命軍が大規模に処刑した場所だ。

③並川面서원말(別名ケーモクコゲ=犬首峠) :細城山戦闘の指導者李熙人(イヒイン)が逮捕された村で、官軍と日本軍はこの村を焼き払った。

④広徳里댓거리 :김화성が暮らしている村で、この一帯の東学教徒10余名を逮捕して野山に목만남기고生き埋めにしてしまった。一部はそのまま死亡したが地域の住民達が彼らを救助し、また葬儀も行った。この事実を知った官・日本軍が村を襲撃した。

⑤東面求道1里(보평 마을) :ハンユギル(한유길、本名한치삼)は細城山戦闘の当時、補給を担当した人物で、村人達の怨みを買って打ち殺された。

#黄聖道ㆍ李千汝 稷山の大物級

稷山面(직산:成歓の南隣)で거명되는東学道人はファンソンド(黄聖道)、イチョンヨ(李千汝)、ソソンマン(徐成万)、キムソンポム(金成凡)などだ。

稷山馬井(마정)里に到着した別技軍部隊(日本人軍人の訓練をうけさせて編成した特別部隊:800名、倭別技とも)は김성범と신일성を逮捕後直ちに処刑し황성도については関連者を聞き出すために水原にある中軍営に連行させた。稷山邑内に到達してイチョンヨ(李千汝)を逮捕し家を捜索して総 17丁の槍、 89個の鉄丸 500余点の「東経大全」板刻を押収した。

10月 18日には황성도、이천여(李千汝)、서성만(徐成万)など 판정里前の입장川の川原で村の人民たちが見守っているなかで公開処刑した。