東学農民革命現場を探して(7)


-禮山篇



内浦東学(忠淸道 內内浦地域の東学)の初期流入地ー伝説的観爵里(クワンジャンニ)戦闘
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下の写真:禮山観爵(クァンジャク)戦闘址を指さすパクソンウク氏。 彼は郷土史学者で観爵戦闘址の状況通じていた

禮山地域は<「天道教会史-草稿」の布徳 24年(癸未-1883年 布徳元年は1860年、慶州出身の崔済愚が東学思想を起こした年) 2月の条に "・・・朴寅浩、安敎善、安益明、尹相五-などが順に神師=崔時亨(チェシヒョン)に拝謁した"という記録が見え、 "内浦と公州の地域指導者達が丹陽南面葛川(現・忠州湖北東)にいる崔時亨を訪ねた"とある。これはかつて内浦(瑞山、洪城、禮山)一帯に相当数の東学信者達の旺盛な活動を意味する。

また「洪陽紀事」の資料からもこの地域の東学教徒の具体的な動きを知ることが出来る。

まず 「洪州ではすでに 4月から東学教徒の騒擾があって、 7月に入ると忠清道全域にかけて東学教徒の活動が本格的に展開されてきていた」。また「徳山(禮山)郡・禮山・大興(禮山郡)・保寧・藍浦(ナムポ:保寧郡)・ 沔川(ミョンチョン:唐津郡)などに宣撫使の曉諭(説得)対象である東学巨魁が存在した」という記録から見て東学教徒の活動がはるかに以前から目立っていた。





9月教団の武力蜂起宣言のある前から朴寅浩が率いる禮山地域を中心に内浦(瑞山、洪城、禮山)地域が事実上の起包段階に入っていたを分かる。挿橋(サプキョ)下浦里(禮山郡)にある朴寅浩大接主の家の上側の木枾(モクシ:現在挿橋邑城里1)は当時市場が大規模に立った所で、早くから内浦の東学革命軍が起包し駐屯していた。

この状況は「東学革命軍鎮圧記録」に、「東匪攻撃に出たのは10月 8日だった。彼らは수영で軍旗を奪取した東匪を追いかけて廣川(洪城郡)に進出、廣川市場で戦闘を繰り広げ東匪数十名を殺し 9人を逮捕した。続いて 11日には中軍大将・金秉暾(キムピョンドン)が各陣から引き抜いた勇将 500人を引き連れてモクシへ出軍し東匪を撃破して軍旗と馬を取り返してきた」と記されている。それにより木枾(モクシ)に屯聚した禮山の地域東学教徒の核心根拠地が大きな打撃を受け、儒会軍(儒生たちが農民軍を当為罰するために組織した兵士 )にとっては東匪を討伐する絶好の機会となったようだ。   ▲右の写真:農民軍集結地 禮山郡新禮院

当時の「駐韓日本公使館記録」にも、「7-8月頃にすでに内浦の漁民農民によって海上が封鎖された」と記録されている。したがって官軍と日本軍は討伐初期から内浦東学軍が公州戦闘合流を遮断する作戦と対応する。内浦は禮山・洪州・瑞山・泰安を中心に屈強な東学軍勢力を形成していたのである。

▲下の写真:朴寅浩 유허비(記念碑)

10数年前の踏査の折、伝説のような興味ある観爵戦闘の話を聞いた。 「洪州牧使 李勝宇が率いる官軍が禮山목소리にある大都所を撃ったあと気を抜いて용골に陣を張り、夜酒を飲んで眠り込んだのだが、居酒屋の老婆が大砲に水を注いでそれを東学軍に知らせたため奇襲して大勝を収めた」ということだ。

※大都所:東学の教勢拡張のために設置された教団組織で、中央事務組織。 1894年の東学農民革命期には教団事務だけでなく執綱所の一般事務も総括した。


これは単に当時の民心を伝える一節と伝え聞いていたのだが、今回踏査でこの地域の郷土史学者パクソンムク氏は「朴寅浩を東学信者へ案内した居酒屋の老婆월화老人が実際の人物」だと主張した。

しかし当時を伝える記録は違う。

唐津・沔川(ミョンチョン:唐津郡)・ 勝戦목 戦闘において勝利した東学革命軍は気勢堂々と高徳九万浦まで進出し、留宿した翌日である 25日夕方に新禮院後坪にある観爵里一帯に留陣した。

「天道教会史ー草稿」記録にその威勢を「約 3Kmにかけて稲わらを利用した草幕が立てられ、、東学軍の軍勢が約 5万」とした。一方、洪州城で出発した 1千名の官・日本軍は事前に約束していた禮山郡大興地域で募集した儒会軍と合流して 4~5000名の大軍陣を形成していた。

26日朝から官・日本軍は新禮院前オルム(氷)峠상봉に大砲を設置して射撃を開始した。これに驚いた東学革命軍は四散したが、再び集まってくるなど半日の間激しい攻防戦を繰り広げた。

まず先に禮山儒会軍が崩壊し、これに驚いた官・日本が逃げ出して東学革命軍の勝利に終わった。李斗璜の 「양호 先鋒日誌」にも、当時「 -洪州官軍と接戦して官軍が惨敗し100余名が戦死し東学軍は海美へ向かったという。ーー川辺に洪州の人々が集まってきて死体を探そうとわめいていたがとても直視出来なかった"と当時の惨状を語っている。

内浦東学革命軍の最大勝利として評価されるている観爵里戦闘において、官軍の中軍隊長金秉暾、영관 이창욱、朱弘燮朱・昌燮兄弟、韓基慶、禮山儒生홍경후 30余名の指導者が一命を落としただけだけでなく禮山地域が東学革命軍に占領された。儒会軍を募集して追い出した大興と禮山の首領は洪州城と逃避した。

東学の巨頭・朴寅浩とは誰か?

内浦東学革命史の中では天道教 第四代教主朴寅浩が一つの章をを占める。朴寅浩は 29歳とき禮山邑オリ市場の居酒屋で東学に関した噂を聞き東学が時代民衆を率いる真の教理であることを悟って 1882年に東学に入道する。

1882年光化門伏閤上疏疏首の場所でいとこ박광호を立てて、翌年には報恩張内里集会では徳義大接主になり内浦東学の組織の土台を作り上げた。

朴寅浩は徳山하포里を中心に六任制の接組織方式で布徳(布教)に努力して、徳包という全国で最も大きな教団組織を生み出し、、内浦は勿論、京畿地域である振威、竹山、漣川(大韓民国京畿道の北部にある郡。郡の西部から北西部にかけて軍事境界線が通っている)まで領域を広めた。
9月末、朴寅浩は徳山包東学軍を引き連れ牙山湾を発って泰安防葛里가시내に上陸して泰安監獄につながれていたた東学信者 30余名を救出、さらに内浦東学革命軍 6万余名を率いて여미평戦闘、観爵戦闘、洪州城戦闘と参戦していった 。

日帝治下でも朴寅浩は 3-1運動と 6-10万歳運動を主導して甲午年以後の東学布徳と再組織はもちろん、李容九・崔麟(日本式名 佳山麟:1878~1958)のような親日派に反抗して闘争する波瀾万丈な荊棘の道を歩み、 1838年に日中戦争が起きると日本の敗戦を祈願する滅倭祈祷を主導する。360人が投獄されて 4人が打ち殺されという荊棘中に刑事達が押し寄せるや 85才の老駆の朴寅浩は気を失ったまま倒れて命を終える。