東学農民革命現場を探して(6)


-<洪城編>
洪州城戦闘敗北は戦略上の後退と推定
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忠清地域が大体そうであったのように、洪城地方でも東学革命初期から東学教徒達が優勢であった。記録によると、「7月に入って東学軍が再蜂起し、邑内は勿論近隣地域が東学の呪文を暗記する声で溢れただけではなく、吏校や奴令達も東学に加入した」と言い、この地域東学教勢を推察するに十分だ。

忠清監使趙秉鎬も官軍を必要な地域に急派しようとしたけれども監営軍充員が思う進まず放置していた。

▲下の絵:洪州城戦闘図。左側に見えることが洪州城朝陽門だ。

こうなると「洪州牧使 李勝宇は 7月 13日から管内の治安秩序を復旧して東学軍を解散する計画で洪州及び隣近地域の東学接主達を呼び集め解散を説得しようとしたけれども思うようにはならなかった。 8月19日までも城内は東学軍達でいっぱいで、接主達は馬に乗って遠慮なく通った」と言って 7〜8月の洪州は城内の支配層と城外の東学教徒間に緊張感が高まっていた。洪城地域の指導者には金永弼、キムドヨル、ハンギュハなどがいた。





洪州城内外に銃声 天地を震わせて

10月 27日、朴寅浩大接主が率いる東学軍は新礼院観爵(禮山北)戦闘と徳山(禮山の西、洪城の北)で続いて勝利したあと、洪州城(洪城)に向かって進軍した。当時洪州城は東学革命軍、官軍の側双方にとって重要な意味があった。

東学革命軍側で見れば、公州城を防御しようと下りてきた官・日本軍戦力の一部を洪州へ分散させることができ、洪州を占拠すれば将来南接・北接連合軍がソウルに向かって進軍する橋頭堡を確保する重要な戦闘であった。

孫秉熙(1919年独立宣言民族代表33人の筆頭署名者)率いる京畿・忠清北接軍、全?準が率いる湖南の南接軍が論山で合流し大連合軍を形成し公州城を圧迫してくる緊迫した状況だった。

※参考サイト 孫秉熙
http://cein21.net/donghak/su4/su4_8.htm

官・日本軍は10月21日、木川(天安郡木川面。現在すぐ近くに独立記念館がある)・細城山(天安郡城南面)で撃破した東学革命軍を追撃し始めた。敗北した東学革命軍は内包(瑞山、洪城、禮山)のジムン東学革命軍に合流した。

一方日本討伐隊は、内包(瑞山、洪城、禮山)の東学革命軍が公州城へ向かうのをとめることが焦眉の課題であり、洪州城の守備が思い通りにならない場合は長期戦に突入する作戦を繰り広げていた。

朴寅浩大接主は、禮山・観爵戦闘で官軍の戦力が大きな打撃を受け、洪州城の戦力が大きく弱まったと報告と見て、直ちに洪州城攻撃を試みた。10月 28日、東学革命軍は洪州城門外郷校村後方に陣を張って敵軍から鹵獲した新武器を使って総攻撃を開始した。しかし、官・行商人隊・日本軍などの連合勢力が頑強に抗戦することによって彼我間の攻防戦が続いた。

このように城内城外で互いが浴びせる銃や砲弾の音が天地を立ち込め、火薬においが鼻を刺した。このように激しく攻防戦が続く間東学革命軍から数十名の死傷者が出るや、次第に士気が落ちていった。東学革命軍側では戦略上後退を考慮しないわけにはいかなかった。

当時の日本記録によると「・・・10月28日午後 4時東学農民軍は徳山(洪城の北、現在徳山道立公園)街道左側の高地を占領して 4時 25分にはその一つの部隊が氷庫峙(現洪城面にある峠)を向かって前進していた。 400m手前の畦に至ったとき氷庫峙上の日本軍が数次にわたって集中射撃を加えるたところ敵数名が倒れた。敵軍はややためらっていたが再び前進してきた。

氷庫峙の日本軍は衆寡敵せずと西門左側に後退して接近してくる的に向かって射撃を加えた。北門の日本軍は徳山街道左側からで接近してくる高地の敵を3度にわたって集中射撃を加えた。敵が驚いて 2隊に分けて道路東側の林の中で入ったが、この時北門の洪州官軍が大砲を撃っともに東北の側にから集中射撃を加えると敵軍の攻撃はぴたっと止んだ。

ところが敵軍の一つの部隊が東門の前方 600mぐらい離れた林の中から前進してきて放火すると、火柱が上がり城外(の敵は) 100mまで接近して総攻撃を加えてきた。そうして全兵力を東門へ集結してこれに応戦した。夜になると敵軍はさらに激しく城外 40mまで大砲を引いてきて東門に乱射して激戦が続いたが 7時 30分ころ砲声が止んだ。


東学革命軍としては兵力数や戦闘経験は揃えていたけれども、新武器を備えて体系的に訓練された日本軍に敗れたのである。実際に、東学革命史で日本軍に抵抗した戦闘は大部分敗れた。

洪州義士塚は `東学革命軍塚`

洪州城戦闘から東学革命軍側の死傷者もたくさん発生して東門外と林の中に死体が積み上げられたという。

ここに洪州城戦闘において生け捕りされた東学革命軍数百名が北門である望華門で処刑されたのだが、この死体をどこへ片付けただろうか。日本側記録に「洪州城に参加した東学農民軍は約 3万ないし 5万名であり、戦死者は 200余名だった」とあり比較的詳細だ。何人かの学者は当時に記録された戦闘状況をみて現在洪州川辺にある `義士塚`は(後の義兵の塚ではなく)当時に犠牲となった東学革命軍の塚である可能性が大きいと主張する。

当時の官・日本軍は東学革命軍の家族まで捜索して惨殺したときであり、遺族が遺骸を探して葬式をすることなど考えられないまま放置されたのに対し、1906年義兵戦闘犠牲者の場合は遺族が家族の遺体を探したという点がこの見解の根拠である。子孫達は実証的な史料をもとに歴史的真実を明らかにするべく糾明しなければならない。

洪州城から身を引いた内包(瑞山、洪城、禮山)の東学革命軍は潰滅されて退いたのではない。現代式訓練を受けた日本軍の新武器の前に敗北したという見解が支配的だけれど、、東学革命軍は依然として天恵の要地である海美城を守り抜く余力があったようだ。

海美の東方、伽耶山日落峙(日落峠)から奇襲してきた官・日本軍と一日続いた戦闘の末に敗れはしたけれども当時奪われた武器類を見れば十分な戦闘能力を揃えていたからだ。

官軍に鹵獲した武器類は フランキ砲(仏狼機砲) 11台、大砲 4問、子砲銃 22丁、千歩銃 10丁、鳥銃 43丁、槍 85本、刀 9本、大鉦 3個、小錚 3個、大鼓 2個、砲丸 130発、長箭) 4個、鉛丸 6サルジャ、(陥硝火薬 500斤、侵水器 8個、水煙桶 4個、馬 8頭、ロバ 5頭、牛 52匹'などで、相変わらず戦闘能力を身に付けていた。指導者達はこれらの戦闘装備を放置したまま撤退したことを悔しがり悲しんだのだった。

※参考サイト フランキ砲
http://www.geocities.jp/cont_sonde/webs/kunikuzusi/kousatsu.htm