東学農民革命現場を探して(5)



-瑞山(ソサン)篇
革命の松明が消えた

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▲写真:瑞山市の海美邑内にある海美邑城。 1894年瑞山郡庁を襲撃して官衙を燃やすなど士気が揚がった東学軍が海美邑城で集結していた。忠清監使は林川 (現 扶余林川面)郡主イドファン(李斗?)を使って真夜中にこれを襲撃、東学徒達を射殺した。

瑞山の東学革命史は軍衙占領、「海美勝戦谷(スンジョンゴル)」戦闘、海美城戦闘、メーボンジェ(梅?)戦闘を含む。瑞山地域から名簿で確認された東学革命軍死亡者数は 77人と集計されることを見れば、瑞山地域は泰安地域と共に東学教徒活動が盛んだという事実を知ることができる。






軍衙占領、郡主と吏房の処刑

瑞山でも泰安と同じ日の10月1日に郡衙を襲撃して郡主パクチォンギ(朴鉦基)、吏房ソンポンフン(宋鳳勳)をユルジャン村で斬首した。東学革命軍は倉庫を開いて収奪した食糧を貧民達にまんべんなく分けてやった。

このように東学革命軍は瑞山と泰安それぞれで勝利して意気があがり、東学に入道する人が爆発的だったと記録している。この事実によってだけでも当時東学革命軍が立ち上がらないといけない切迫した民心を読むことができる。

一方、東学革命軍が勝利感に陶酔している頃、洪城郡主イ・スンウが官軍と儒会軍数千名と新武器で武装した日本軍 30余名を率いて10月 11日夜明けに禮山にある禮包大都所を突然攻撃した。



▲写真下:筆者が海美邑城下で碑文を調べている。


東学革命軍は抗戦する余裕も無く敗戦してバラバラになってしまった。このように東学革命軍の勢力が劣勢に陥るとこんどは儒会軍に加入する人々が増えるようになり、官軍と日本軍が連合して東学教徒は勿論家族まで無慈悲に処刑するのにやっきとなった。

このようになると敗走した東学革命軍がもう一度終結して彼らと争うほか生きる道のなかったし、朝鮮が日本の手中に入るだろうといういう危機感に総蹶起することになる。

勝戦谷戦闘において 倭軍相手に勝利

10月 22日、瑞山・泰安地方の東学革命軍が集結して 23日には海美面貴密里で陣を張った。

そうするとそこへ海美地域の東学革命軍が合流し、24日午後 5時頃海美勝戦谷に至ったとき、あらかじめ潜伏中であった官軍 500人、儒会軍数千名、日本軍 400人が現れて激戦を繰り広げて大勝を収めることになる。

これは東学革命史のなかで新武器に武装した日本軍を相手にした戦闘における唯一の勝利だ。当時の忠清道内包の戦闘を陣頭指揮した代表的な人物はつぎのとおり。泰安キムピョンド(金秉斗)、安眠島朱炳道、崔東彬、瑞山張世華、唐津朴容台、金顕玖、洪城金周烈、韓圭復、李昌九、南浦秋縺A新窓金敬三、郭元、丁泰栄、李鐘浩、崔秉憲など。



▲写真右:瑞山郡衙跡。当時東学軍によって占領された。


士気が揚がった東学革命軍は強行軍して 25日には唐津のミョンチョン邑、ヨミピョンと移動して、 26日には禮山新礼院、観爵に陣を張るようになったのだが、当時東学革命軍の人数は数万命に至ったと記録している。

官爵戦闘において大勝し勢いを増した東学革命軍は洪州城を撃つために出発する。

洪州城と海美城戦闘での敗北は
東学革命史の分水嶺


洪州城で敗北は内包東学革命軍への致命的な打撃となった。(洪城編参照)
洪州城戦闘において敗れた東学革命軍は 11月 5日海美城へ入ってきたが 11月7日夜明けに林川郡主李斗?は日落峙(イルラク峠)側から夜明けに奇襲して来て戦闘が起きる。天涯の要地である海美城で一進一退の激戦が終日続いた。

東学革命軍は死傷者が続出して作戦上後退をしないわけにはいかなかった。海美城戦闘において東学革命軍は持っていた武器もまともに運べないまま逃走した。当時の緊迫した情況を語ってくれることがらだ。

ここで官軍は北に敗走する東学農民軍を追撃して 40余名を射殺して 10余名を生け捕りにした。また 5百余名にものぼる他の部隊は南に 10余里後退して猪城里に集結した。

暫時休息をとり隊伍を点検しているとき、追撃してきた官軍とまた戦闘が起こった。東学革命軍は状況が不利だとさらに梅?へ後退した。

海美城戦闘敗北は東学史の分水嶺

11月 8日夕方 8時、東学革命軍は梅?で陣を張っていた。
この時林川郡主李斗?が率いる官軍がまた襲撃してきた。襲撃を受けた東学革命軍は死力を尽くして抗戦に臨んだ。

このように2、3時間ぐらい戦闘が続いたのだが、東学革命軍側の態勢が非常に不利に傾いた。

まさにこの時、東学革命軍の陣中で火薬が爆発して天地を振動させ火薬の煙が目の前を覆い一寸先を見分けることができなかった。それにより両者ともうろたえたが、東学革命軍は煙幕を利用して四方に逃走した。

当時梅?戦闘において官軍に奪われた東学革命軍の武器は大砲 1門、千歩銃(射程距離が千歩) 7丁、鳥銃 7丁、槍 16丁、光劒 1丁、刀 1丁袋、砲卵 1升、錚 4個などだった。

瑞山梅?で敗北することによって内包(瑞山、伽耶山を中心にする一帯)東学の最後の松明が消える。梅?戦闘地は仁旨面花秀里(瑞山西3kmほど)と推定される。メーボンジェ戦闘に対する官の記録に "海美で敗れた東学軍数百名がノジ面スヒョン厘に集結したが敗れた"という記述と "夕食時に戦闘が始まり宵の口に東学軍が完全敗れた"という記録があるのだが、当時のメーボンジェ戦闘を証言したキムヒョンウク翁(当時 84歳)の話の内容がほとんど一致していた。