東学農民革命現場を探して(4)



-泰安篇

防葛里の入り江は東学の巨大墓地 


▲写真 防葛里湾口の現在姿。防葛里は黄海に面する村。現在は海水浴場でも有名。


牙山湾口を出発した禮包※の東学革命軍を乗せた船が、泰安東軒(泰安邑城内 ???)に閉じ込められた東学指導者達を救出するために防葛里(泰安郡遠北面)湾口に到着した。右側下の写真は東学革命軍出身である???、 ???が記録した歴史文献。内浦(忠淸道 ?浦地域)東学の動きが詳しく含まれている。

※訳注 禮包は地名ではなく東学の組織名。「包」は東学組織の単位を指す用語。

泰安の東学史は慶州から直接的あるいは間接的に流入した東学布教史である。9月起包を前後した官衙襲撃、官軍と日本軍および儒会軍の東学革命軍に対する残酷な討伐戦に入る。






▲写真下 泰安の白華山校長岩(絞杖岩との説もある)の下に位置した
東学革命慰霊塔。全国で一番最初に建設された。         
血で染まった白華山校長岩                       


これは東学革命指導者の子孫でこの地域の東学革命史を研究してきた文苑徳氏の努力で裏づけされたもの。それほどに泰安地域の東学革命史は怨恨が心をうつのである。

後を受けついだムンヨンシク(52)氏がこの地域の東学革命史の研究と記念事業会の先頭に立っている。今回の現地調査では彼の援助を受けた。



全国でも最も残酷な歴史の現場

"泰安郡長作里に暮らす尹氏の夫人は夫が東学に参画した罪で邑北射亭????で銃殺されたとの消息に接する。尹氏は夫の死体を収めて下棺(埋葬のため棺を墓穴に下ろすこと)し終わると墓穴に飛び込み周りのものがとめる間も与えず自決した。"

これは東学の後身である天道教教員が書いた実話小説「東学軍の妻」の内容だ。実際の実地調査のとき泰安・瑞山地方では 「飼葉きり斬首(チャクトゥチャムス)」という全国で最も残酷な歴史の現場に会うことになる。

東学革命当時、洪城戦闘において官軍-日本軍に敗れた東学軍は西海岸側に追われて幾たびも虐殺に遭うことになる。泰安軍衙を中心に泰安女子高前の小川の ????での死体の山'だけでなく、セムゴル村、南門里川辺、井州内など色々な所で官・日本、儒會軍の殺戮放火、婦女子強姦など残酷な惨劇が起こったのである。


泰安地域の東学活動記録はチョソクホン、ムンジャンジュンが叙述した 「歴史」に比較的詳細に伝えられているが、当時官衙の東学教徒に対する弾圧はどの地方より苛酷だった。早くから東学教徒達の活発な動きを感知した泰安郡主申百煕は中央政府に軍事を要請していたし、巡撫使金景済が都からやってきて陣頭指揮して東学頭領級 30余名を獄に閉じ込めて苛酷な笞刑で生死をさまよわせていた。



▲写真
牧愛堂(???? ??? ??? ??? 300-7) 


▲左写真説明:牧愛堂は泰安邑内東軒にある建物で、東学革命の当時弾圧の中心地となった。


ここでの東学革命軍指導者の処刑が知らされるや危機におちいった東学教徒達は急いで救出作戦に出ることになる。
9月末日、牙山湾口を発った数十隻の船が防葛里湾口(鶴岩浦)に着岸して、あらかじめ待っていた防葛里近くのの東学徒達がこれに加勢した。旗手大将にアンヒョンムク、西部大将にパクチォンペク、北部大将にイチヨンと隊伍を編成するほど緻密だった。

東学革命軍は一晩中かけて五十余里離れた泰安の背後の白華山へ隠れた。



翌日、市場には、遠北面防葛里から来た東学革命軍だけでなく、梨園面蒲地里、近興面、???、南面、安眠島など四方から東学教徒達が集まってきた。怒った東学徒達がパクヒイン大接主の喊声を合図に軍衙に押しかけて、監獄につかまっている徒員を救出して郡主シンペクヒと巡撫使キムキョンジェ及び郡衙の下人の首を斬った。泰安東学革命軍の動きはこのように始まった。東学教徒は野火のように拡大していった。

防葛里湾口は、海水浴場を挟んだ入り江のあたりはすでにたくさんの家が立ち並び昔の姿を探すことができないほど変貌している。荒々しい3月の風をはらんだ波が荒く干潟を舐めていた。この地域の東学は??里の崔亨淳が慶州崔氏で、慶州に時祭で通いながら 1890年に崔時亨(チェシヒョン)ンから直接東学の伝授を受けて布徳(布教)したことがわかった。

崔亨淳大接主の布教で瑞山、泰安などに東学教徒の数が野火のように広まっていった。 30余名の東学頭領が泰安郡の監獄につかまっているときにも、 "防葛里の文章魯の家には接主チャンソングク、キムグンジップ、チェメンチュン、アンジェヨプ、ムンジャンジュン、ムンジャンヒョク都執が集まった"という記録が見える。接主級 6名が集まっていた事実はこの地域の東学教勢がとんでもなく盛んだったことを教えてくれる。

この地域の布教は崔亨淳大接主によって導かれたけれども惜しくも 1892年に病死、あくる日には禮山のパクヒインが皿売り商人に変装して防葛里に入って来て曺雲三、ムンジャンジュン、ムンジャンノ、ムングソクたちを入道させた。

それではこの地域に東学教徒が盛んになれた理由が何か。昔から広い野原を挟んで、豊富な漁場があり、中国の難破船や商売人や使臣達が頻繁に出入りした港であったので、人々の往来が多かったし、収奪もあれだけ深刻だったのである。

泰安郡衙を攻撃した日、瑞山でも官衙を攻撃して???と吏房の???を斬首して人夫を取り込んで文書を燃やし、軍旗と財物と穀物を接収して陣を張ったときこの地域はすでに東学の世界となった。



22日に至り、泰安東学革命軍は泰安邑を出発して瑞山を経由しながら次第に数が増え、海美面貴密里に陣を張りながら再び人数が増えて士気が雲を衝いていた。海美勝戰谷で官軍・日本軍・儒会軍連合軍と激しい接戦を繰り広げて大勝を収めて、新礼院観爵里(禮山北)戦闘においてまた大勝を収めた。内包の東学革命大軍は戦列を調えて洪州城を打つために出発した。

しかし洪州城には新式武器と武装した日本軍が待っていた。ここで大きく打撃を受けた東学革命軍は這いつくばって進むことになり、官軍日本軍儒会軍の戦功争いの追撃戦が展開される。

東学革命軍は海美??城から、瑞山梅?にかけて続けて敗れる。泰安へ帰ってきたが官・・儒会軍の襲撃を受けて数多くの東学革命軍が捕虜がされたし、白華山 '校長岩'では絞首刑、銃殺刑、打殺で岩は赤い血で染まった。この戦いの末に東学革命軍は四方に散らばり追撃された。


近興面 ??里土城山戦闘においては数多くの東学軍を虐殺し自分らの戦功を示すために飼葉きり(押し切り)で頭を切ってこの地域東学教徒の家に保管したという証言をこの村の東学子孫イテファ(75歳)老人が聞かされた。



当時ここから使用した飼葉きりは現在独立記念館に納められていると伝えられている。梨園面の社倉 3里 ???泉でも首のない死体を泉に永らく放置した。これより 2Kmぐらい離れた官里の?峠でも 78名の東学革命軍が官軍と儒会軍によって虐殺された。