東学農民革命現場を探して(24)
総合篇

忠清道、は東学革命史の中心



東学革命史に対する歴史研究や評価は、日帝強占期(植民地期)と軍部独裁政権の影響下から長い歳月の間制限されてきた。なぜなら彼らは歴史が民衆闘争史的視角で把握されることを警戒したからだ。 このような環境で進められてきた東学革命史研究は、官記録に依存して、一般的で観念的な歴史研究にとどまってしまった。すなわち、、 東学革命史が全羅道の地域の全琫準(チョン・ボンジュン)を中心として起きた事件という制限されたカテゴリーに閉じ込められるようになったことである。このような制限結局、忠清道の東学革命史が私達のすぐ近くに生きている歴史として理解されることを妨げる要素となった。

#小白山脈の中心は忠南・京畿地方への布教の橋頭堡

忠清(北)道は丹陽、槐山、報恩、青山、永同、黄澗 等小白山脈を中心に崔時亨(チェシヒョン)がもっとも早く潜行布徳(秘密裡の布教)した場所であり、また 忠清南道、 京畿、湖南地方へ 東学を布教する橋頭堡の役割をしたところでもある。

忠清道の東学は明確な境界を持たず、西へは泰安、南へは舒川まで野火のように速く広まっていったのである(泰安、舒川はいずれも忠清南道)。 このような民衆の力量は忠清道を東学布教の中心地に押し上げて行き、 東学指導部によって 公州集会、参礼集会 (1892)、光化門伏閤上疏、報恩聚会 (1893)など活発な東学活動が展開されていく。

この力量は東学革命時期に至り、京畿、江原、忠清、慶尚地域東学軍すなわち北接東学軍が報恩・帳内里(ポウンチャンネリ)大都所に集結する原動力となった。

任實・セモクト(全州韓屋村ホームページから)

2世教主崔時亨(チェシヒョン)は孫秉煕(ソンビョンヒ)を北接東学革命軍の 統領に任命して論山へ移動、湖南の全琫準(チョン・ボンジュン)軍と合流して大連合軍を形成し、公州攻略にとりかかることになる。東学連合軍は公州城攻略のために牛金峙(ウグムチ)を向かって進撃するが日本軍の新式武器の前ではかなく崩れてしまう。北接の東学革命軍は全羅道の任實(イムシル)セモクトまで避難して崔時亨(チェシヒョン)に会い、小白山脈に沿って移動を始める。 18回にも及ぶ戦闘を繰り返した北接東学革命軍は報恩邑プクシル(鍾谷)で殲滅されてしまう。

このように忠清道は東学の歴史の中心地だったのである。にもかかわらず忠清道の地域歴史研究は不充分であり、東学記念事業も他の地方に比べてきわめて微々たる水準にとどまっているのが実情だ。



# 全羅地方 活発な東学革命記念事業

筆者はさる 8月 23日から 26日まで東学民族統一会(常任議長パクナムス)主催の第一回東学巡礼行事で、全羅道南海 地方の 東学革命史跡地を案内した。

スケジュールは霊岩、珍島、康津、兵営、長興、南原をたどって長水、茂朱、永同、 黄澗、龍山をあまねく経て 青山門岩頭 報恩 帳内里とプクシルをまわる長い旅程だった。

ここで最も大きく感じた点は、全羅道地域では住民達の東学革命史に対する愛情が格別だということだった。すでに各種の東学記念事業を繰り広げていたり、記念事業が進行中である地域が多かった。

例えば、 珍島地方東学革命記念事業会では毎年 <珍島平和祭>を通して 1000余年 前から無念を残して死んた寃魂を慰める行事を行なっていた。

それだけではない、 この地方の東学革命史研究のための学術大会を毎年開催し、日本の少数民族であるアイヌ族を招いて交流し、東学史を生きている現在の歴史として扱っていた。

長興地域の東学記念事業会(会長キムドンチョル)の場合、郡と道議会の全幅的支持によって記念事業が活発に取り組まれており、また新たな計画が準備されていた。

道では長興東学農民革命記念事業の敷地収用令を制定しているが、さらにもっと広い敷地を確保するために、事業を再検討していた。


2008年11月 南原パンアチ戦闘戦場跡記念事業
南原東学農民革命記念事業会(会長ハンピョンウク)ではすでにこの地方の東学革命史研究と記念事業がすでに進行されただけだけでなく、 <パンアチ戦闘>記念事業のために予算を確保しておいていた。

これに比べれば忠清道の東学記念事業問題は相変わらず伸び悩んでおり、具体化が遅れている。

全羅道での取り組みは、この間忠清地域に東学革命記念事業に対する必要性を力説してきた筆者としては大変羨ましかった。

現在筆者は文化観光部と文化財庁、忠清北道と 報恩郡に 報恩 帳内里(チャンネリ)とプクシル(鍾谷里)に対する史跡地の指定を要求しているが何ヶ月たっても<史跡に指定する歴史的根拠がない>という回答のみだった(現在再申請をして返答を待っている)。

残念なことに帳内里はすでに最近の何年かの間に取り返しのつかないほど歴史の現場が壊されているし、やっとのこと鍾谷里一帯(プクシル)に進められている <東学公園事業>はかえって突拍子もない事業に変質させられ、忠清北道市民連帯としては異議を提出し是正を要求している状態だ。


#地域の歴史発掘研究に乗り出してこそ

今から 100年前、この地の民衆は、このままでは生きてはいけない緊迫した状況に追いこまれ素手で戦って散華した。これらの民衆は今日まで取るに足りない、 物悲しい姿として糾弾されただけで、今日の民衆は彼らの子孫として先祖の精神や先祖の行跡のなかに自らの未来の展望を見出すことができなかった。未来の展望のない歴史はただ空虚な観念であるだけだ

このために草の根の地域歴史を掘り起こし 住民たちとの歴史共有過程を通して、東学革命史を今日的意義をもって私たちの傍らで息づかせなければならない。

それは記念事業で塔を立てて記念館を建てることだけで解決される問題ではない。学界は地域歴史を発掘研究して、 地方自治団体は教育や体験学習を通して底辺を拡大して行きながら次第に共感の帯を形成して行かなければならない。

東学史を、大昔の全羅道古阜の地の全琫準(チョン・ボンジュン)の話としてではなく、見回せば私たち曽祖父、高祖父が東学軍であり、彼らが全羅道でないこの地のあの裏山で戦ったという歴史的事実を理解して行く過程が必要だ。記念事業はここから出発しなければならない。そして記念事業ははじめから正しく住民たちのものでなければならない。