東学農民革命現場を探して(23)
牙山・唐津篇




勝戦谷戦闘は
日本軍に勝利した唯一の記録

【梗概】牙山は内包地域に東学が根着いた所である。また唐津・勝戦谷戦闘は東学革命軍が新兵器と武装した日本軍を相手に勝利した唯一の戦闘としてに記録されている。牙山と唐津は内包・東学革命軍の主な活動舞台であって、 9月の第二次起包ときには泰安・瑞山地方の東学革命軍救出のために内包東学革命軍が船で牙山湾を発って泰安の防葛里海岸に触れたという証言が伝えられている。


▲内包(牙山湾の南一帯)の東学革命軍の主な舞台だった牙山・唐津地域には、今もその当時の痕跡を残している郷校がいくつも残っている。左側から順に温陽郷校大成殿、牙山郷校全景、新昌郷校大成殿だ。



● 牙山の安教善は東経大全刊行の主導者

「東経大全」慶州版(1883年 6月)跋文に従えば牙山の安教善(アンギョソン)が 公州の尹相鎬(ユンサンホ)とともに東学の実務を預かったと記録されている。すなわち、そもそも慶州版「東経大全」は公州接で資金を準備して東峡接(江原道:接は東学の組織)と 嶺南接が力をあわせて作ったものだと伝える。これは牙山地域に相当数の東学教徒がおり、相当の資金捻出が可能だったことだ。

「崔先生文集道源記書」 1878年 11月 條によれば「先生修単所」すなわち、「最善生文集桃源機序」刊行業務にも 安教一、安教常、安教伯、安教綱など牙山の安教善の親戚達が実務に 参与している。

また牙山教譜に従えば牙山・温陽面용화里(現・温陽五洞) 334番地李奎浩(李圭鎬)夫婦は 1884年 11月 16日に入道したことにされている。

「天道教会史草稿」布徳 24年(癸未) 2月 條にも、朴寅浩、安教善、安益明、尹相五などが 神師(教祖崔済愚))に拝謁した という記事があり、内包と 公州地域指導者達が丹陽南面にいる 崔時亨を訪ねて来たと記録している。

こうした情況から推量すると牙山地域には 1878年頃から多くの東学教徒を確保していたのである。

公州城布政門
公州での教祖伸寃運動(崔済愚の名誉回復運動)は二代教主崔時亨(チェシヒョン)の命によって 1892年10月 20日から 1千 余名の道人達が公州の 訟所に集まって断行された。

この日 東学教徒達は行列を揃えて 徐仁周と 徐丙鶴の指揮によって堂々とするように 公州 官衙として入って 創道主崔濟愚の伸寃を請願したが、この時期から 東学教徒が急激に増えることになる。

議送単子(訴文)を受けた忠清監査趙秉式(チョビョンシク)は色々と考えた末に、二日後の22日に題音(回答)を下し、24日には各邑の守令達に甘結(下級組織への公文)を示達した。

忠清監査の回答は、請願要旨の中から 、国で決めた東学禁断措置の解除だけは自身の権限外だとして回答から除外し、その他事項達は 東学の要求を受け入れよう、という内容だった。

公州・報恩聚会以後から内包一帯に東学教徒が集中したのだが、「大橋金氏家甲午避乱録」に当時この地域雰囲気をよく伝えられている。すなわち、、いわゆる 東学は 報恩都会以後日ごとに勢力を増し村ごとに 接(チョプ:東学の組織)が作られ、人々が東学の呪文を読む様子は、燃え上がる炎のようであったし波打つ 渦潮のようだったと書いている。

当時の内包地域の主要指導者としては徳包の朴道一( 寅浩 龍浩)と禮包の朴煕寅(徳七)、木包の李昌九(イチャング)、牙山包の 安教善(アンギョソン)、山川包の李東求(イドング)などの大接主がいた。


●食糧の確保のために官衙を占領

9月 18日 起包令が下されるや、ここ牙山の東学教徒達が銃器を発砲して邑に突入し、公館を襲い官吏を脅迫して軍器庫から兵器を奪取した。また民家の財産も掠奪した。

翌朝に 新昌に向かって出発し 地楼洞に屯聚した。すなわち、、徳砲大接主・朴寅浩は牙山、 新昌、禮山、唐津、 沔川(ミョンチョン:唐津郡)一帯を掌握したのである。

金允植(訳注:甲午1894年以降外務大臣)は日本公使に送った10月 25日付の文書のなかで、<内包 一帯が 東学軍の手中に入ったから攻撃してもらいたい>と要請している。さらにまた、「内包の 賊・李昌九(イチャング)は多くの賊徒達を配下において崇鶴山の民堡(訳注:ミンボ 民間で築いた砦)を奪取したため、内包の邑がすべてその 害毒をこうむるようになっりました。内包といえば 大量の穀物を生産する場所で、冬と春の間の春窮のころに京城と食糧を供給してきました。しかし 賊徒達がここに駐在したので京城への船便が不通になっています」と言って当時のこの地域の緊迫した情勢をよく示している。

東学革命軍が内包を速く掌握した理由も食糧確保のためにからであった。10月 7~8日頃には内包の重要な 地点にはほとんど 東学都所を設置してそこで准行政権と 准司法権を行使した。

● 勝戦谷で日本軍撃退
勝戦谷 (唐津新聞ホームページから)







忠清道西部地域が 東学革命軍によって掌握されるや、政府と日本軍は10月 10日部場本格的な 東学討伐に入った。(訳注:後備歩兵第19大隊が龍山の駐屯地を出発したのは11 12 日でありこのときはまだ参戦していない。)

日本軍と 京軍が出動して南下している情報を得て徳包、禮包及び牙山の安敎善大接主は泰安(テアン)に集まって対策を協議することになった。

この時、全羅道の全琫準(チョンボンジュン)と忠清道の孫秉煕(ソンビョンヒ)は論山で合流、公州城攻略のために北上していた。

新昌・牙山をはじめとする忠清西部地域の東学革命軍は海美(ヘミ)に集結した。そして日本軍。京軍を迎え撃つために北上を試みるが、徳山方向よりリスクが少なくて三軍が糾合しやすい沔川(ミョンチョン:唐津郡)方向への進路を選択する。

(訳注:海美から唐津邑を経て沔川に入る途中、唐津邑の南端・九龍里と沔川面の西端・沙器所里との間に、軍事上の要地・勝戦谷(スンジョンゴル・スンジョンモク)がある。:「勝戦谷」はこの戦いにぴったりの地名だが、実は昔からの地名)峡谷である勝戦谷は日本軍を迎え撃つには非常に有利な地形であり、東学革命軍はまずここに陣を構築した。

瑞山接主・洪鍾植と 禮山接主・曹錫憲が残した文書にも、 勝戦谷戦闘において日本軍が大敗した状況が記録してあるが、戦闘状況の報告は詳細ではない。

禮山接主・曹錫憲の記録と日本軍の記録を総合すればつぎと次のようだ。

山上に布陣していた 2万余の東学革命軍と、渓谷を進んで攻撃してきた80余名程度の日本軍は、12時半から 3時半まで約 3時間にわたって攻防を繰り返した。この戦闘で、新式武器で武装した日本軍は東学軍の戦闘力を軽く見て狭く深い渓谷道を進軍してきた。

日本軍は渓谷の下のほうにいた東学革命軍は簡単に打ち破ることができたが山上に配置された東学革命軍を打ち負かすことはできなかった。そのうち日本軍のほうが集中攻撃を食らうようになり、日本軍の兵士は装備を捨てたまま引き返し沔川邑へ逃げ去った。

東学革命軍が激しく追撃すると、日本軍は沔川の東隣の合徳へ逃げ、26日(陽 22日)にはついに南のかた洪州城へと後退した。

勝戦谷戦闘は 東学革命軍が知略で日本軍を打ち負かした、初めてでしかも最後の戦闘だったのである。

東学軍は 25日に勇敢に 禮山郡古徳面九万里まで進出して、夕方には新礼院の後ろの野原に陣を張る。