東学農民革命現場を探して(22)
-鎮川篇

忠清西北部は京畿地域の東学革命の最大集結地





鎮川の主要東学史跡は、二世教主 崔時亨(チェシヒョン)の逃避先である금성洞と부창里、忠清西北部地域と 京畿地域、東学革命軍の最大 集結地だった鎮川の九万里市場、 9月 東学革命軍の鎮川官衙占領を挙げる事ができる。


▲ 【写真下】草坪(チョピョン)面 龍山里 금성マウル。崔時亨(チェシヒョン)が 隠れ住んだところで,通諭文10箇條項を 発表するなど東学精神の故郷である。

●금성洞は崔時亨(チェシヒョン)の逃避先であり通諭文を発表した場所

鎮川を中心にした忠州・陰城地域には、おおよそ三系統の東学組織が布教活動を繰り広げた。

1)辛在蓮(シンジェヨン)は忠州と隣近郡県に大きな勢力を持っており2世教主・崔時亨(チェシヒョン)の指針を従っていた。
2)許文淑(ホムンスク)は鎮川に勢力の拠点を置いたが 、教団の穏健方針を好まず剛健な活動を広げていた徐璋玉に近い人物だった。
3)孫秉煕は 清州出身で、一時は東学内でさしたる勢力ではなかったが鎮川부창里李鍾奭と忠州李容九を隷下に迎えることで大接主の列に加わることになる。

<天道教徒>によると崔時亨(チェシヒョン)は1891年2月以後清州금성洞(現・鎮川郡草坪面龍山里금성マウル)と清州・外西村(現・ 陰城郡大所面內山里) の辛在蓮の屋敷に数度滞在したと伝えられている。

崔時亨(チェシヒョン)はこの地域の代表的な 東学指導者である 米山・大接主辛在蓮、鎮川부창里(現 草坪面 龍亭里부창목マウル)の 李鍾奭、 清州金岩里(現 清原郡 北二面대주里)の孫秉煕等と緊密に交遊しながら、布教活動はもちろん、 東学教徒に通諭文の発表をはじめとしてさまざまな教訓を残した。

ここでは、第一に、夢の話を通した教訓で、夢の中に大神師(唱道主・崔濟愚)がタマゴ 500ヶをくださるので両手でうやうやしく押し頂いたところ、その卵がすべて孵化してひよこたちが一斉に鳴いたのだが、ただ2卵だけは腐っていて孵化できなかった。後日道を成し遂げる人々も当然これらのタマゴと同じなことだろうといって、いろんな教徒の中には成し遂げられない教徒も出てくることを警戒させたのだ。
第二に、通諭文 10ヶ条項を発表して教徒として怠けやすい倫理教育を強化し、第三には 修道に対する教訓として、道を学びそれを磨け、道はただ「誠」「敬」「信」の三字にあるのであり、ハンウルニム(天)を敬って仕えなければならないという教訓で、修道の重要性を教えた所だ。

当時 금성洞は 東学教徒の精神的なよりどころだったわけだ。

<写真説明=鎮川郷校。鎮川には保守両班が多く、それだけ怨民も多くて 東学教勢が盛んだった。>

●10月初、無極市場広恵院市場に数万の軍勢を形成

9月 18日 2世 教主 崔時亨(チェシヒョン)が 起包令を下すと各地の東学組織は即刻行動に入った。

鎮川の 東学指導者許文淑は日本兵站線の 要地だった忠州龍水浦に、忠州接主辛在蓮は鎮川 広恵院市場にそれぞれ一万に達する東学革命軍を集結させる。

京畿道の安城、利川などの地から車嶺山脈を越えて次々と合流する東学革命軍の軍勢はしだいに増え、10月初めまでに無極市場(金旺邑無極里) と 広恵院市場に数万の軍勢を形成していた。

竹山府使兼 壮衛営副領官李斗璜が入手した 24日付けの牒呈(첩정 下級官衙から上級官衙へ呈上する文書を牒呈という。)が、<許文淑と 徐章玉の軍勢 5万ないし 6万が 龍水浦に集結していて、 辛在蓮はそれより少し少ない4万ないし 5万を引き連れて鎮川広恵院に駐屯している>と報告していることからその軍勢が推察できる。

<写真説明=広恵院古市場 (広恵院面広恵院里)。 東学革命の当時この場所に競技忠清地域 東学革命軍が集結した。>



●鎮川官衙を襲撃して武器 奪取

無極市場と 広恵院市場に集結していた数万の 東学革命軍は槐山を経て報恩として向かおうとしていたが進路を鎮川に変える。

9月 29日午前10時ころ、 東学革命軍は鎮川 官衙を何十にも取り囲むことになる。

東軒に押し寄せ刀を抜いて戦い県監をはじめとして公兄と多くの官属達を縛り上げたのち、官衙の武器庫を破って兵器を全部 奪取した。

鎮川の県監アンチォンス(安鼎寿)は 東学軍が退いたあと、ハンヨンス(韓延洙)、チョハッキ(趙学煕)の二名の加担者捕え置き、日本軍に邑内を保護してもらいたいと 急伝を送る。

すでに官属達にとって、助けを要請する相手は日本軍しかなかったのである。



●鎮川の地域出身達の情報で 討伐戦展開

甲午年10月 6日付「 両湖先鋒日誌」に< 東学軍数万 名が忠州無極市場と鎮川の九万里市場2ヵ所に集まっているので、これを討伐するために臺官방영호,김진풍、別軍官이겸래 윤지영、교장 오순영などが 2隊の兵力を率いて鎮川 広恵院、九万里等地へ向かった>と記録するように、この地域の 東学討伐は比較的速く進行された。

鎮川梨谷面(訳注:梨谷面は現在は月村面などと合併して梨月面となっている)老院里出身の申正煕は早くから 東学の高位指導者のめぼしをつけて逮捕するのに 功を立ててきたし、 1983年 報恩集会を鎮圧する過程から 東学指導者達の動向に誰より明るかった。

そして從事官鄭寅杓も草坪面永九里出身なので、この地域の討伐戦はどの地域よりすばやく進められた。

甲午年 11月 25日条の「征討記録」に官別軍최일환が鎮川で入ってきて 東学接主朴明叔ほか一名を지석部落の川辺の林の中で銃殺したと記録している。

しかし今回の踏査の現場では김수진という東学頭領と 接主박관희と박주형などの人物が新たに言及された。官の「討伐記録」に知るされている朴明叔という人物は色々な情況からみて박주형と同一人物のようだ。

またほかの「討伐記録」には安城へ山越えする途中の新界里から当時 接主서상종, 이태흥と,정운화 정운목二兄弟が 東学のとき犠牲になったという事実も確認されている。



●今日まで続いている天道教信仰

鎮川地域には 東学教徒が多かっただけに最近まで天道教の脈が続いていることが確認できた。

特に聖石里には최종록氏が 6代目の天道教教徒であり、합목리(목골)に暮らす염상철氏も天道教人だった。

そして 1900年、 徐章玉と共に身を隠していた東学指導者孫天民が 逮捕され絞首刑に処せられたあと草坪面어댕(ママ) 里の谷間に埋められたという証言を得たのだがその地はすでに木が繁茂して墓を確認することはできなかった。




<写真説明=徳山面龍夢(ヨンモン)里。ここの出身の許文淑が 東学革命軍を率いて 龍水浦に陣を張った。>