東学農民革命現場を探して(21)



懐徳(フェドク)
鎮岑(チンジャム)
燕岐(ヨンギ)


忠清道で初めて '革命の炎'燃え広がった



午(1894)年春、全羅道 地方で東学革命の炎が燃え上がったが、これとほとんど同時に懐徳(フェトク) 鎮岑(チンジャム)でも火の手が上がった。当時指導者は 徐章玉(ソジャンオク 一名、徐仁周、 号 一海、1852~1900)であり、ここであがった東学革命の炎は 青山(チョンサン) 文義(ムヌィ)忠州(チュンジュ)신市場 等へ広まっていった。

【写真 金開南(キム・ゲナム)将軍】

学革命後期には地域の 東学革命軍の活動が本格的に展開され、全羅道の金開南将軍が率いる 1万余大部隊が懐徳(フェトク) 鎮岑(チンジャム)二村を襲って過ぎ去った。この地域の東学革命史研究は比較的早くから始まったのだが研究はあまり深められていない。

● 東学教徒が錦山(沃川の南)などへ進出して戦闘を主導

忠清道 東学革命史で早くから名を知られた人物が徐璋玉(ソジャンオク)だ。徐璋玉は 東学革命史で大きな比重を占める人物で、全琫準(チョン・ボンジュン)・金徳明(キムトンミョン)崔景善(チェギョンソン) 等湖南地方の東学頭領の精神的指導者として知られている。
※ 全琫準以下の三人は1895年 3月29日絞首刑に処せられた。

徐璋玉は特に布教初期から崔時亨(チェシヒョン)の側近参謀役割をした。己丑(1889)年に 徐璋玉が 官衙に 逮捕されると崔時亨は全教団の力を傾けて釈放運動を繰り広げた。それだけ重要な人物であり、清州・栗峰洞(現・청주시 上党区 栗陽洞율량동 )の陰善長(ウムソンジャン)の婿となり、崔時亨(チェシヒョン)とは姻戚関係になる。

徐璋玉は釈放がされたあとにも、忠清道と全羅道の広い地域に対する布教活動は勿論、東学革命時期には常に強硬派として活躍した人物だ。

懐徳(フェトク およそ現在の大田市大徳区) 鎮岑(チンジャム およそ現在の大田市儒城区)二村は徐璋玉接主の影響の下、全羅道・高廠の起包に合せて決起し懐徳官衙を占領する。この戦いについては、文錫鳳(ムンソクポン)が記録した「義山遺稿」に主導者名前が挙げられているだけで 詳細な記録は伝わっていない。

しかし、このような歴史的事実を証明する東学教団記録がある。

3月下旬、東学教徒達が全羅道 一帯を襲うと、崔時亨(チェシヒョン)門下にいた参謀たちは崔時亨を起包に向けて動かすのに成功、 4月 2日各接主に「通文」が出され、 4月7日を期して 青山県小蛇里(チョンサンヒョン・ソサリ)に 東学教徒達が集まった。

彼らは 青山を発って 公州牧と 鎮岑(チンジャム)県の境界である 星田里(ソンジョンニ 現・大田ー儒城)を占拠し、懐徳(大田ー大徳)を襲撃して続いて 鎮岑へ集中した。

すなわち、二村で全羅道東学とときを合せて蜂起したということだ。

彼らは 公州牧に進もうとして星田に陣を張った。

文錫鳳の文献に従えば <金在徳(キムジェトク)、金成奉(キムソンボン)、李洪伊(イホンイ)たちが 錦山・永同 ・黄澗の官衙を占領するとき先頭に立った>と記録されている主導者の名前と、<4月以来の懐徳 鎮岑 青山 報恩 沃川 文義に暴徒(乱民)が出没した>という記述からこの地域の東学活動を推し量ることができよう。

懐徳で武装した東学教徒たちは、鎮岑、錦山、珍山と進出して行き戦闘を主導した。

しかし 沃川、黄澗、永同地方から影響力を発揮した趙在壁(チョ・ジェビョク)との関連性などまだ解明すべき歴史的課題が多い。

いずれにせよ、 徐璋玉はその年九月雙橋市場(現在の大田市新灘津区三政洞での戦闘を主導したあと約五5年間ゆくえをくらまし1900年に京軍に 逮捕されて絞首刑に処せられた。

●懐徳の近郊 芝明市場 戦闘

上の二地域は全羅道地方と同じように日清戦争勃発と共に活動が静まって 9月18日 再起泡と一緒に活動が再開される。

特に懐徳近郊の芝明市場(現大田市新灘津区三政洞) 戦闘が口伝や記録を通して確認される。

現在 芝明市場は大清ダムの湖底に沈んだが、三政洞に子孫 姜봉식氏が 東学革命当時の活動の様子を聞かせてくれる。

子孫 姜봉식氏が、曽祖父の代に姜豊柱、彼の息子の姜禹卿、また従兄弟の姜徳柱の三人が捕まって 文義南市場で銃殺された、と証言しているが、これは当時の官軍討伐日誌の記録と一致する。

色々な記録に懐徳 接主 박성엽(パクソンヨブ)の名前がしばしばあげられているが彼の活動の実態は確認できなかった。

●湖南 東学軍がまた占領

鎮岑(チンジャム)官衙は 金開南将軍が率いる東学革命軍から二度攻撃された事実が確認されたのだが、 鎮岑県監の最初の장계に南原に雄拠した金開南将軍率いる 一万の東学革命軍が清州城を向かって進撃する過程で鎮岑官衙を攻撃し、次の장계では金開南軍が敗れて連山側(訳注:鎭岑(チンジャムの南十数キロ)に逃亡したという。この記録は金開南が清州城で完全に戦闘力を喪失したという状況を髣髴させる。

上の事実を総合すれば、 鎮岑は 金開南軍が清州城を攻撃するときと敗退するときと二度たどって行ったことになるが、これは錦山を迂回して 公州 城として入ろうとしたが 、鎮岑に至ったとき、全琫準、孫秉煕が引率する東学大連合軍が公州牛金峙戦闘において敗れたという伝報に接し、急遽攻撃目標を清州 城に変えたと思われる。

この他招討使たちによって多くの東学教徒達が犠牲になった場所である포사배미が確かめられ、官軍が乙未1895年まで東学教徒達を討伐した事実が記録と証言を通して確認された。

鎮岑東軒(現在の鎮岑小学校のある場所)前に立てられていた東学革命当時首領だった鄭郡守の頌徳碑が畑に埋められて今は田に変わりその跡を隠したとのことだ。

●燕岐(ヨンギ)の東学八漢

燕岐の全義(チョンウィ)は 東学八漢がいたという程、東学教徒達の活動が盛んだった。

燕岐鳳岩洞(訳注:西面 鳥致院からすぐ南)には斗璜(イドゥファン 官軍壯衛營領官)が入ってきて陣を張り、ここで高亭里(現在・忠南燕岐郡南面高亭里)出身の李鎮漢接主を捕らえて砲殺した、という記録がある。

全義邑内で 東学革命当時多くの東学革命軍が捕らえられ砲殺されたという証言を確認することができるが、これは当時記録と一致する。しかし記録で知らされた 東学 接主は최명규(チェミョンギュ)だけだ。

全義の東学革命軍は主に公州戦闘と 木川・天安のすぐ東にある細城山での戦闘に参与したようである。


<写真説明=大田広域市大徳区宋村洞にある朝鮮中期建築物。>