東学農民革命現場を探して(20)



- 扶余篇

民主的行政が階級間の葛藤を解消


扶余郡庁ホームページ


扶余 地方の 東学教徒達が 東学革命に積極的に加担したのは9月18日再起包の時期であった。

しかしながらそれよりも前、東学革命初期に、東学教徒達が「都所(トソ)」を整えて階級間の対立を解消する民主的な行政を展開したことは、ここ扶余地域だけの特徴だ。

【写真】扶余には 都所を整えて階級 間の 葛藤を民主的に運営した。 1895年 2月、 扶余軍窺岩面 羅福里乾芝マウルで李七年(イチルリョン) など数名が討伐軍に捕まって梟首されたという征討記録がある。



● 扶余地方の 東学革命初期の活動記録 「日記」

扶余 郡庁文化観光課もやはり 東学革命史に対して特別に知っていることはなかった 。知っていたのはただ全琫準(チョン・ボンジュン)が 軍士を率いてここを通過したくらいであった。

しかし扶余郡誌に目を通していると大変具体的な資料に会った。小亭・李復栄(イブンニョン)の「日記」がそれで、 扶余地方東学革命初期の活動が詳細に整理されていた。「日記」は李復栄が20歳のとき(1889)から 65歳(1934)までの毎日を記した平凡な日記だが、 東学革命時期の状況がとても具体的で、当時の東学教徒たちの活動を詳しく伝えていた。

● 東学教徒の 包接活動は民主行政の標本

日記には 東学革命当時の扶余邑、中井里、佳塔里、 陵山里、 塩倉里 一帯に 東学活動が 詳しく記録されている。

<日記>に従えば 扶余대방面地域に 東学革命軍が 包接(包接)組織を設立したことは 6月末から7月初旬ころであった。

6月 27日頃、全羅北道益山郡・咸悦(ハミョル)を経て、錦江を渡って北上した東学革命軍は 扶余・林川鴻山、石城 などから、その地域の東学勢力と一般農民達の呼応を受けつつ包接組織を拡大して行く。

扶余地方の包接組織の総本部は7月12日대방面중里(現在の扶余邑中井里・扶余市街の南東)の민참の家の裏庭に設置された。

当時 東学教徒達は山上に 天幕を張って 呪文を 通誦したり、あたかも軍隊のように号砲を打ったりしながら陣の暮らしに慣らすなど、威勢を誇示したという。

要するに、대방面 の東学革命軍は、軍衙を掌握しただけでなく、その地域の保守・儒学勢力を武力で制圧した状態であった。

言わば 扶余地域の包組織は政治の組織であると同時に 軍士組織であり、ここに장용한(チャンヨンハン)・崔天順(チェチョンスン)・宋川順(ソンチョンスン)などの接主の名前が記されている。

当時の接主達は대방面중里の人で、 東学教徒達は대방面の事情に明るかっただけでなく、高利貸問題は勿論、国典のさまざまな条項をうんぬんするくらい世間の物の理をよく知る人々だったと書いている。

대방面の包では各種紛争が発生するたびに全体の集会格である都会(トフェ)を開いて 包運営の基本方針を決定した。

例えば、東学接主との間で、接主が閔氏一族を不当に庇護した問題が発生すると、東学教徒達は都会(トフェ)を開いて대방面の接主の専横を批判したり、대방の包の位置を隣近の佳束市場通り(佳束가탑里内の自然村落名称)へ移すことを決議したりもした。

これを見ると、대방面の包接の権力構成は、接主と接司につながる実務執行機構と、東学教徒達の全体集会である都会という議決機構に二元化されていたという事実が知られる。

当時の佳束市場通りで開催された都会の主要構成員を見れば都会の性格を推察することが出来る。

すなわち、都会は、동里の常民、性満 (賎民を指す名前と思われる)、業成 (作男を指す名前と思われる)、較丁(駕籠かき)、奴隷 などで構成されているのである。これを見ると、都会はいわゆる怨民階層である賎民を中心に構成されて執行されていたことがわかる。

東学教徒支配に入った時期の 扶余社会は両班(ヤンバン)を頂点にして編制された既存の郷村秩序とは性格が大きく変わっていたのである。

例えばどんなに強力な権力を行使していた土豪両班でも、横暴な両班として指弾されれば他の地域へ逃避したり、あるいは一定の賦役を甘受して人生を維持するしかなかったし、奴隷と主人とは言え、互いに丁寧な言葉を使いながら同席対坐するしかなかった。

これは本質的な 東学理念の実践である訳なのだが、当時대방面の東学教徒達が追求したことは、 班族を 凌辱班族(?) 、財産没収 、奴隷を良人に身分変更すること 、山訟(墓地紛争)問題を解決すること、고대慣行、雇用慣行、小作慣行の改善 など、身分的特権を利用した封建支配層の横暴を打破する革命的な活動を展開した。

東学教徒達は紛争が発生する場合 国典、すなわち、国の法秩序をある程度参照するにはしたが 、掘塚(クルチョン 他人の墓を掘り出す行為)、高利貸の返済拒否、 地税及び小作料不納 など、国法を根本的に無視する活動までたじろがず実施した。

こうなると、東学教徒の威勢に押された両班達は、自分を守るために東学が決めた法をよく守っただけでなく、さらに東学に自ら財物を捧げて命を守ることもあった。

たとえ四ヶ月くらいの短い期間ではあったとしても、このような東学教徒の革命的な包接活動はこの地域だけの特徴だ。

● 東学教徒の残酷な討伐の記録

この時期に日本の朝鮮侵略政策が息苦しく進行していた。

1894年 5月日本軍が青島近海で清国 軍士を乗せた船に撃沈させ、 6月には大院君が日本軍にたよって景福宮を占拠する。

8月に至るや、日本は清軍との平壤戦闘において勝利し、朝鮮に親日内閣を樹立する など朝鮮侵略が一層具体的に進行される。

日本が 東学教徒を掃討するために 軍事行動を開始すると、2世教主・崔時亨(チェシヒョン)ンは 9月 18日再起包令を下すことになり、 扶余地域の東学教徒達も 軍事行動に乗り出る。

全琫準(チョン・ボンジュン)が率いる湖南の 東学軍が 参礼を発って徐々に北上しながら 扶余・林川・鴻山地域の 東学教徒達も徐々に 東学革命の台風 圏に巻き込まれようとする。

歴史記録が少なくて、扶余地方の後期 東学革命が事実が迷宮に入っているのだが、このような東学教徒中心の扶余社会は1894年 11月初め公州戦闘において東学革命軍が大敗すると同時に崩壊してしまった。

しかし 東学革命の翌年である1895年 2月 13日(陽暦)정산(チョンサン) 乾芝洞(コンジドン)(現:扶余郡 窺岩面羅福里 乾芝マウル)で李七年(イチルリョン)ほか数名が討伐軍に捕まって梟首されたという征討記録もある。