東学農民革命
現場を訪ねて 2
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槐山にはかつて李憲表 接主が活動したが彼は両班身分だ。 李憲表は珍しく東学教団記録はもちろん官や日本記録にも言及されない人物だ。
彼は薪尼面仙堂里と陰城邑竜山里で居住地を移動しながら崔時亨の隠居地を周旋して,
東学教徒たちを戦闘に参加させる。 日本公使館記録には “槐山の東には外西村に辛在蓮,
清風の成斗漢,
槐山の洪在吉が活躍する”と報告されているだけ
李憲表 に対する言及はない。
私が槐山邑に立ち入った時は長い冬日照りを濡らす甘雨が降っていた。 水煙を立ててあげる槐江1(写真)に沿う槐山邑は濃い霧雨に濡れていた。 郡では ‘清浄地域唐辛子村’を誇って, ‘郡教育機関誘致’を希望するプラカードがあちこちに立っていた。
槐山の地に東学が流入された時期は忠清道のどの村より早いようだ。
東学教徒朴南の ‘日記’に
“辛未年(1871)に寧海接主(李弼濟이필제)が寧海県へ攻めこんだが失敗し聞慶天馬山城3(写真)で再起を模索する時槐山で 12人の教徒たちが軍糧をおさめて呼応した”と言う記録が残っていることから考えると
1870年代初期にもう東学が流入された可能性が高い。
最近になっても七星面一帯に子孫の東学教徒たちが確認されてもいる。
記録を総合すれば槐山・丹陽地方は 1970(1870の誤りか)年代山岳地帯に依存した秘密布教で早くから東学が流入されたし, 1880年代は東学勢力が平野地域へ拡張される, 言わば槐山は橋頭堡であった。
1885年に忠青観察使沈相薫と丹陽郡主崔僖珍が東学の組職拡張を見抜いて東学指導者逮捕令を下したし, 1889年 7月にまた弾圧が厳しくなると2代教主崔時亨は報恩張内里に設置した六任制4を廃止して槐山信陽洞に隠居する。 この時官員が踏み込んで東学の巨頭 姜武卿 方秉九丁永燮 趙尚甲 などがつかまり, 10月には徐仁周 (一名서장옥 ) 姜漢馨申正燁 などが逮捕された。
特に徐仁周は崔時亨がことさら惜しむ人物だったし, 湖南地方東学活動に影響を及ぼした強行派だ。 実際に서장옥は清州城戦闘と錦山珍山戦闘を主導したし, 申正燁はソウル居住者で後に(1895) 裁判を受けた人物だ。 信陽洞は槐山李憲表接主が住んだ仙堂里である可能性が大きい。 このころに近くにある陰城にある되자니(道晴里)に崔時亨が隠居したという記録が見える。
槐山邑には古い建物があまりない。
槐江の向こう西部里5に洪範式親里と郷校があるだけで,
町東部里には昔の槐山東軒建物が全部。
これは 1894年東学革命時期に二度戦乱で町の家並が全部燃えてしまったからだ。
槐山邑戦闘記録は当時日本軍側の記録に見える。。 “10月 15日原田少尉率いる日本軍 27人が槐山官衙に到着するやいなや急に出動した。 槐山で陰城方面に約 6Km くらい下がった唐洞(陰城郡遠南面上唐下唐里)に集結している敵軍(東学郡)と交戦をした。 約 3万人をかぞえる敵軍を手におえることができなくて槐山邑で後退しようと思ったがもう槐山邑が東学軍によって占領されて午後 4時 30分まで合戦をしたあげく辛うじて包囲網をくぐって屈峴(文光面と青川面境界である地境峠) 五里洞を経て翌日夜明けには忠州本隊(可興里)に帰って来た”と記録している。
日本軍の介入は槐山郡主이용석が忠州可興に駐屯している日本軍司令部に東学軍討伐要請したことで成り立った。 東学教壇記録にも “この日(10月 6日) 陰城方面で 2万名, 報恩方面で 3万人が襲撃した”と書いており当時の東学軍の威勢を想像することができる。 この戦闘で東学軍死傷者は 200余人で, 日本軍は 1人が即死して 4人が負傷を負った。 可興兵站司令部では山村忠正 中隊長に入れ替って, 先に到着していた飯森 少佐の指揮を受けるようにした。 飯森少佐は 10日夜東学軍が忠州と槐山の間に位置する남창と월두동に駐屯しているという偵察報告を受けて出動しその日東学軍 1人をつかまえて射殺して, 翌日は 10人をつかまえて 6人を打ち殺したという血なまぐさい記録が見える。
槐山戦闘は崔時亨の 9月起包令が下された後北接連合軍最初の大規模の戦闘であるわけだ。 この戦闘後に北接東学軍は報恩に移動, 論山に進出して湖南東学軍と大連合軍を形成する。
筆者が槐山邑を尋ねた日はちょうど市の日だったが霧雨に濡れていかにも物寂しかった。店の人たちと言葉を交わしながら清安行のバスを待っている間、霧雨が体を包んでいた。
1槐山郡を左右で割って悠悠と流れる。上流に槐山ダム。忠州の弾琴台まで流れて南漢江水系と会う。
2 경북 영덕군 영해 慶尚北道盈徳郡寧海
3 문경시 가은읍 민지리(泯池里)와 농암면 농암리(籠岩里)를 연결하는 천마산성이 있는데 일명 견훤산성(甄萱山城)이라고도 부른다。
4 84년 갑신정변(甲申政變) 후 탄압이 완화되자 육임제(六任制)를 확립하고 전국에 육임소(六任所)를 설치, 조직을 강화했다。
5 괴산군 괴산읍 서부리