忠清日報 連載記事 
東学農民革命軍現場を訪ねて(1
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朝鮮後期は百姓が民衆として眠りを覚まして行く時期だった。封建支配階級は壬辰矮乱
(1592~1597) と丙子胡乱(1637-1638) 、二度の外勢の侵略に苦められ 出でても民生を投出したまま、権力闘争にのみ汲々としていた。朝鮮後期社会はこのような 矛盾した体制に抵抗する民乱が頻繁に起きるほかなかった特に洪景来の乱(1811)から全国にひろがった壬戌一揆(1862)にいたるまで 勢道政権に対する抵抗が絶えず続いたしかし乱はその時ごとに失敗を繰り返えした 民衆は指導理念のない乱は失敗するしかないという事実も悟るようになった
 一方このように封建支配層が民衆勢力の挑戦に直面している時日本と西欧列強の侵略野望まで重なって民衆の暮らしは一層心細くなるばかりだった。1860年イギリス・フランスによって北京が陷落東洋の門戸が開放されることになり韓半島の国境開放を求めて強く迫って来るようになり韓半島は世界列強の角逐場になったその上大院君の政権を倒して登場した閔政権はいっそう腐敗して無能な政権だったし民衆の内部改革要求に怖じ気づいて外勢を引き入れてこれを弾圧するに至る結局日清戦争(1894)軍と日本軍をこの地に呼び込んだ

民族固有宗教東学登場

 この時期に沒落した両班出身知識人崔済愚(1824-1863)が長年の天下周遊を経て伝統的な民間信仰に道教と仏教甚だしくはカトリック的要素まで吸収して ここに朝鮮後期において何度も繰り返された民乱の失敗を通じて得られた現実改革の要素を加えて民族固有の宗教東学を唱道する

東学は沒落した知識層や政権から疎外された서얼(庶孼)階層が参加するようになることでその思想をもっと体系化させることができたすなわち東学は民草(民衆)たちの支配秩序に対する不満を総体的に結集してこれに抵抗することができる理念を提供することで民衆運動に新しい局面を迎えさせることになったのだ例えば当時支配階層に押えつけられていた民衆に東学の宗旨である ‘人がすなわち’という平等思想は優に革命的で救援の手助けのようなのだった

 
このようにして慶尚道慶州で出発した東学が江原忠青全羅道・京畿道地方へ野火のように広がりながら徐々に教祖支援運動と腐敗した封建政権外勢侵略に対する境界を立てた社会運動として自然に成長しながら民族抵抗運動の性格を持つようになったのだ

忠清道 東学革命の中心地

18643唱道崔済愚が惑世誣民の罪で大邱で処刑されると道統を受け継いだ 2歳教主崔時亨(1827-1898)に追い回されて江原道山岳地域に隠居するようになる崔時亨は監視を避けて小白山脈を出入りする潜行布徳で忠清道地域には早目に東学が流入された崔時亨は忠北地域を足場で京幾忠南全羅各地域で教勢を確張して行くこの過程で忠清地方は東学が流入されて拡大されていく通路だったまた忠清道は東学指導部が公州集会礼集会(1892)、光化門伏閤訴報恩聚會(1893)のような社会運動を展開して行きながら名実共に東学革命の中心地になる

1894全羅道で東学革命が起きると東学教団の指導部は展開過程を見詰めながら緊迫に対応していたその年 918遂に崔時亨が 2次一揆を宣言すると東学教徒たちは忠青江原慶尚各地で起包(教主の命令で蜂起すること)して報恩外帳內里3に集結する秉熙4率いる北接は論山に移動して、 1016日頃全羅道全琫準率いる南接軍と合流するこうして名実共に東学連合軍が形成される東学連合軍はソウルに上がる道の要所である公州を向けて大大的な攻撃を敢行した

私たち近現代史の分水嶺になった公州牛峙戦闘は 18941023日から 25、 118日から 11日まで 2次にわたって起るところが日本の新式武器で防御していた官軍と日本軍を相手で熾烈な激戦をしたあげく惜しくも公州監営が見下ろされる牛峙で敗れることで東学革命は大詰めの幕を閉じるようになる

公州で惨敗に喫した北接は南原セモクト5まで後退したあと小白山脈に沿って上って来ながら 大小18 回の戦闘をした後、報恩プクシル6で大虐殺の惨劇に見舞われることになる

のように忠清道は東学革命史の周辺ではなく中心に座を占めている。

著者の言葉> 

채길순(チェギルスン) 小説家소설가 · 明知専門大学 文芸創作科教授 명지전문대 문예창작과 교수

去年東学農民革命参加者に対する名誉回復が成り立ったその間、陰で苦痛を受けた参加者と子孫たちの名誉も正しく回復されなければならないだろうまた東学農民革命は今子孫たちに精神的遺産として長く保存される記念事業として推進されなければならないこのためには学界の研究が深められければならないしこれを土台として住民と 地方自治体が衆知を集めなければならないしかし  報恩郡で 2001年から報恩邑声足里一帯に莫大な予算を投入して推進している東学公園造成事業は実に慨嘆させられる事だが協力者がいない報恩郡は一方的に用役業社と契約を締結して東学記念公園造成基本計画を樹立して形式的な公聴会と諮問委員会を開いた後事業を強行したこれによりまともに造成されなければならない報恩郡の ‘東学公園造成事業’は公園内に国籍不明の性模様が立ち入るなど真実と違うように造成されている当時学者と住民たちが内里7を事業場所選定しないで予算がブクシル8に投入されることを問題視したが、郡はこれを黙殺した甚だしくは内里취회 場所は個人の畜舎と墓地が造成されるなど郡の関心と管理のいい加減差で深刻に毀損されつつある9学界から郷土史跡地と指定してくれ要求してきたが、これまた "歴史的考証が不十分だ"は途方もない理由で黙殺された忠清道の東学記念事業はまだ準備段階にある歴史の現場が名実共に精神遺産になるように開かれた事業で進行になるように期待して見る
 

【訳注】

1 조선사회를 지탱하고 있던 신분제도 조선사회는 종친, 국구, 부마, 양반, 중인, 서얼, 서리, 상민, 천민 등의 9등급의 사회계층이 존재하였다.

2 초목(草木)들의 생명력처럼 인간법이 아닌 자연법의 정신으로 살아가는 민중을 민초(民草)라 한다.

3 報恩郡外俗離面張内。外俗離とも。

4; 1862~1922

5鳥頂里 任実郡青雄面 玉石里 새목재(한문으로 조항치(鳥項峙) 라 표기함)

6 북실마을プンシル・マウル(報恩邑 鍾谷里,声足里, 누청리, 강신리)

7本文参照 東学農民革命軍の最初の集結地

8東学農民革命軍が壊滅的打撃を受けた場所

9 関連サイトhttp://cafe.naver.com/ArticleRead.nhn?clubid=11921027&articleid=21