東学農民革命現場を探して(19)



論山(ノンサン)編

湖南-湖西大連合の軍陣が形成された要衝地


論山は東学革命史で全琫準(チョン・ボンジュン)が率いる湖南東学革命軍と、孫秉煕(ソンビョンヒ)が率いる湖西・畿湖地方の東学革命軍が大連合軍を形成した所だ。

※訳注:論山(現・大田市の南西、公州の南)
※訳注:湖西(忠清南道・忠清北道の別称)
※訳注:湖南(錦江=湖江以南の地、すなわち全羅道。)なお李盛泳氏は「호남(湖南)은 김제 벽골제(碧骨堤) 남쪽 지방 지금의 전라 남,북도를 말하고, 호서(湖西)는 제천의 의림지(義林池) 서쪽지방 지금의 충청 남,북도를 말한다. 」と主張している。제천は忠北堤川である。
※訳注:畿湖(仁川・ソウル・水原・平澤・天安などの都市を含む朝鮮半島中部地方・太白山脈西斜面までを含む)

しかし論山はこういう単純な意義よりは、東学革命を準備した「民乱」が深く根を下ろした地域だ。

● 1893年県監・ 黄厚淵(ファンフヨン)を追い出した魯城(ノソン 論山の北)の「民乱」

東学革命の前年1893年12月に魯城民乱が発生した。

前魯城県監が転運所で運送するときに残った米穀 400石中 200石を着服したのだが、新任県監・黄厚淵(ファンフヨン)が その200石をこともあろうに農民達に負担させた。とどまることを知らないの貪虐(貪欲でむごい)行為に激憤した農民達が蜂起して官衙を占領して県監・黄厚淵を追い出した事件だ。

当時この事件で状頭(筆頭署名者)は유치복(ユチボク)であり、最初に蜂起を主張した人々は尹相建・朴寛和・李成五・尹相執・尹成七・尹滋馨などであった。

しかし彼らはすべて逃亡して処罰出来なかったので、代わりに白化西(ペクファソ)だけを、主動者に付和雷同して参加した罪を問い3回にわたって厳しく懲らしめたあと遠悪島(ウォナクト 普通名詞か 済州島のようにソウルから遠く離れた島)への流刑を科した。


●民乱の余震で魯城地方で起包(東学の決起)

12月に発生した民乱の余韻が残っていたはずの1894年 8月、魯城地方の名家である坡平・尹氏(パピョンユンシ)と特別な関係を持っていた송정섭は東学教徒達が活発に活動する魯城に、윤자신に渡す密旨(国王からの密書)を持ってきた。

송정섭は彼らと共に起包としようとしていた。

송정섭は尹氏の斎宮である静修庵を拠点と活動を展開していたが、 9月初め静修庵に寄った勉庵・崔益鉉に、国王から倡義せよ(国難に当たって義兵を起こせ)との密旨が降りたという事実を知らせ、崔益鉉の参与を頼んで義兵を構成した。

義兵指揮は高山(コサン)の 윤진사とし、종사관達はすべて一万石の米を産するほどの大富豪たちだった。

一方崔益鉉が帰ったあと송정섭は倡義(義兵決起)を薦める綸音を持って東学12包を巡視し、これを契機に各地の東学組織と儒林間に連係が成り立った。

また坡平尹氏たちと隣近の士大夫(サデブ 訳注:家柄の高い人)達も静修庵に頻繁に出入し、富豪たち糧食を援助した。

のみならず、密旨の本物であることを確認した魯城県監김정규も米を出して義兵の便宜を図った。

このように魯城近辺の保守儒林、守令(役人)、東学革命軍が連合して倡義を準備して行ったわけで、これは当時外勢に抵抗する合理的な対応だった。

結局起包の成果を収められなく四散してしまったが、互いを認め合いにくい勢力たちが民族的危機をともに克服しようと連合し義兵を結成しようとした試みは、この地域だけの特徴と見ることが出来る。



● 8月魯城の恩津県衙を攻撃して武器奪取

論山地域東学革命軍は、第二次再起包される以前の1894年 8月に、利仁(イイン)の東学・都執綱(トジプカン)の金唱順(キムチャンスン)が魯城県の東学教徒達を率いて魯城県衙を撃って武器を奪取する。

特に魯城県は1年前にあった民乱の余波のため東学教徒達がたやすく武器を奪取する事ができた。

論山は湖南-湖西大連合の軍陣が形成された要衝地 全琫準・孫秉煕合流ーーー小土山に大本営設置ーーー公州牛金峙戦闘 東学連合軍大敗 悲憤慷慨 9月起包以後の論山の地域東学革命軍闘争は大組織による戦闘よりは小規模活動を主としたが、戦闘は 6~7名の教徒を引き連れた接主が頭領となったり、時には数十名の義東学教徒で構成されたりした。

特に論山郡連山面の朴永采(パクヨンチェ)接主と恩津の廉相元(ヨムサンウォン)接主の活躍が目立った。

9月再起包時期になるや恩津(論山市恩津面)地域では恩津県衙を襲撃して県監권종익を逮捕した。


● 9月再起包と論山の連合軍形成

1894年 9月 13日、全羅道参禮において再蜂起した全琫準(チョン・ボンジュン)率いる東学革命軍は忠清地域の東学革命軍と連合するために参禮に約 1月を駐屯していた。

9月 18日再起包が宣言されると全琫準(チョン・ボンジュン)は10月 11日参禮を出発して北上を開始する。

全琫準は論山連合地域を保護するために、10月 6日頃先鋒隊を派遣して先の恩津県を占領して、한밭(ハンパッ)まで進出して忠清監営兵80余名を撃破する戦果をあげる。

意気天を衝く全琫準は 4千余名の東学革命軍を率いて10月12日には論山に到着した。
全琫準は先に国文檄書(ハングルで書かれた檄文)を通して京軍(政府軍)と忠清道監営軍に日本によって国土が蹂躙されている国家的危機を知らせて、人民たちにもこれを知らせる告示を発表する。

告示文では、東学軍と政府軍は、互いに道は違うが、日本侵略軍に反対する「斥倭」と中国人に反対する「斥華」はその意味は同じで、朝鮮人どうしが争うのではなく、東学革命軍と政府軍が連合して一緒に「斥倭」「斥華」して朝鮮が日本のに侵略遭わないように一緒に抗日闘争を展開しようと訴えたのである。

一方、忠清湖西地方の東学革命軍は 二世教主崔時亨(チェシヒョン)の命によって京畿道・忠清道・江原道の各地で蜂起し、報恩帳內里の東学大都所に集結したあと、孫秉煕の引率で論山に向かって出発する。

全琫準と孫秉煕が論山で合流し、兄弟の契りを結び全琫準を総大将に推戴して論山・小土山に大本営を設置する。

小土山の位置については、異見があるものの、「小土山」は平野地帯の論山のどれか特定の山を指すというより「小さい土山」という普通名詞と思われ、状況から見て天主教会が建っている당재(タンジェ 재は峠)が有力だが、これも確実ではない。

当時連合軍の軍勢は 10万あるいは 20万という記録もあるが、いろいろの状況から見て約 2万名説が有力だ。

10月 17日、全軍の頭領達を集めて作戦計画を立て、東学連合軍は 20日未明を期して公州を撃つために北の敬天方面へ進出する。

驪山接主崔蘭善(チェナンソン)は、小土山で公州・牛金峙戦闘において東学連合軍が大敗したという消息に接して悲憤慷慨し、配下の兵士と敗残兵たちを集めて 황화대(ファンファデ 論山皇華山城か)に陣を張って追撃してくる官・日本軍を迎えて最後の一戦を準備する。

この戦闘で '近くの畑に転がる戦死者の胴体と頭が目障りで足で蹴る'といった残酷な敗北を喫する。



【写真】論山市街全景。全琫準と孫秉煕はここで合流し、兄弟の契りを交わし全琫準を総大将に推戴し論山・小土山に大本営を設置する。


【左側写真】は坡平・尹氏종학당。民乱期と東学革命期に坡平・尹氏たちのの活躍が目立った。
【右側写真】連山衙門。