東学農民革命現場を探して(18)



-舒川(ソチョン)篇

忠清 -全羅 両地域闘争の連結輪


舒川の地域東学革命史の特徴は、東学革命軍が舒川・韓山地方の官衙を占領し官軍がそれを奪還するために激しい攻防戦を展開する点だ。特に忠清南道・舒川地域には全羅北部地域の東学教徒達が合勢して忠清・全羅2地域の連結輪の役割をした。


しかし、こういう基礎資料を持って訪ねた瑞山郡庁の文化観光課の東学革命史についての理解はなさけないほどのものであった。一般郡誌の場合には、普通は東学革命史に対する一般的な内容を扱い、さらにその地域の東学革命史のいくつかの事項を記述しているものだけど、舒川郡誌には東学革命史についての記述がまったくない。来年 3月に発行されるという郡誌の原稿でも同じであった。

しかし舒川韓山地域の東学革命史はどの地域にも劣らず激しく展開されたのである。

#舒川戦闘などでの東学教徒の活躍

舒川地方では甲午年10月以後に東学教徒達が活躍が目立ってくる。

<巡撫先鋒陣胆録>の甲午11月22日の条によると、藍浦(ナンポ)駐防将崔在弘(チェジェホン)が湖右=忠清西南部地方に藍浦(ナンポ 保寧郡・大川市の南)・林川(イムチョン 扶余郡・錦江を臨む)・韓山(ハンサン 舒川郡・錦江を臨む)・舒川(舒川郡)から秋鏞声(チュヨンソン)・秋声在(チュソンジェ)・李友三(イウサム)・李性九(イソング)・金允善(キムユンソン)などの東学大接主達が数千名の東学軍を率いて蜂起した。

のみならず湖南の金堤(キムジェ 裡里市の南)の姜明善(ソンミョンソン)、臨陂(イムパ)、金海龍(キムヘリョン)などが率いる湖南東学軍が錦江を渡ってきてここで合流すると、その勢力は十分に湖右地方(忠清西南部)を一時掌握することができた。

そうして 11月 19日藍浦(ナンポ)では官軍が敗れ、洪州(ホンジュ)、保寧(ポニョン)、藍浦(ナンポ)、庇仁(ピイン 舒川邑の北西)の敗残軍達が逃亡して舒川へ帰ってきたが、その数が二千名だったと報告されており、この日、韓山と舒川がまた東学軍によって占領されたとの報告もあった。

当時の舒川戦闘に対して相当に具体的な状況記録がある。

東学軍は引続き舒川邑を襲撃した。そのとき韓山(ハンサン)・守城将の金錬(キムリョン)、戸長の金夏殷(きむはうん)は、守城軍数百名と鴻山(ホンサン 扶余郡)儒会の崔学来(チェハンネ)が率いる褓負商軍(行商人の軍隊)を引き連れて舒川邑に入ったのだが、邑はすでに炎上していた。

そのご東学軍は南北に分かれ、数千人が舒川・三水洞裏山へ集結して、また別の数千名は舒川邑の南海岸연포(ヨン浦)に集結したが、北の三水洞には旗幟が全山を覆い砲声が雷のように鳴り響いた。

そうして官軍隊官・尹泳成(ユンヨンソン)は北側の山路から攻撃し、戴冠・李相徳(イサンドク)は南の野路から攻撃し、上下から挟み撃ちしたため、この戦闘において東学軍は数百名が銃殺されて、数十名が官軍の捕虜となった。こうした記録から見て当時は屈強な東学革命軍を相手に官軍と地方の守城軍・儒会軍と行商人軍(褓負商隊)が連合して激しい攻防戦を繰り広げたと推察することが出来る。



#行商人軍(褓負商隊-ポブサンデ)連合部隊と激しい攻防戦

政府では公州戦闘後地方が騒然としてくると、11月 16日瑞山郡守・成夏泳(ソンハヨン)をして政府が派遣した經理廳軍(北漢山城守備郡)を率い、相変らず勢いがあった湖右(忠清西南部)地方の東学革命軍討伐のために舒川の韓山地方へ出動させた。

現在韓山面事務所の裏山に向かって伸びている土城の跡が百済時代に築かれた乾芝山城(コンチサンソン)だ。別名周留城ともいうこの山城は百済の首都(慰禮城)の外郭を守護する目的に築いた土城だ。高麗時代から韓山が大きな村として頭角を現したころ、放置されていた乾芝山城を母体に高さ16mもある石城として積み直して韓山邑城となった。

東学革命当時、この城を支配するために東学革命軍と官軍・地方守城軍・儒会軍・行商人連合軍は激しい攻防戦を繰り広げたのである。

しかし現在石城の跡はほとんど残っていない。ただ林で覆われた丘のような場所が乾芝山城の遺跡と確認できるのみである。


韓山地域ではやはり早くから東学革命軍の活動が見える。

甲午年の翌年である乙未年(1895年)に東学革命当時韓山郡守だった白楽亨(ペンナッキョン)が裁判を受けたのだが、6月 9日に下した「匪類・金善在(キムソンジェ)・徐可良(ソガヤン)が東学に先陣を切って参加し狼藉が頻繁であったが、西学(ソハク)を依籍すれば悪習が緩和するので郡獄にとじ込め・・・」とする判決文内容をみると、韓山地域はすでに 6月から東学教徒達の活動が活発に展開されたという事実を知ることができる。

全羅から移ってきた東学革命軍はこの地域の東学革命軍と連合し、11月 20日韓山邑と舒川邑を陥落させ、続いて鴻山(ホンサン 扶余郡)・藍浦(ナンポ 保寧郡)などに常に出没して(官側の)勢いを断ち切ると、今度は官軍が論山ほうからこの地域に出動することになる。

11月 20日に韓山に着いた官軍が、韓山守城軍、そして鴻山儒会所の崔學來(チェハクレ)が率いる行商人連合部隊と合勢して韓山の東学革命軍と一大戦闘を繰り広げた。

東学革命軍は官軍の攻撃で数百名の犠牲を出したまま退却してバラバラになってしまった。

11月 16日に官軍は日本軍と共に公州城を出発し東学革命軍を捜索して南下し始めた。

成夏永(ソンハヨン)は 11月19日扶余・鴻山を経て韓山邑城に到着したが、当時の韓山邑の状況を「当日(19日)午時に韓山邑に着くと城内の民家がすべて燃えてしまい、各官衙の建物も壁だけがやっと残っている状態であり、郷庁の官吏と人民たちが泣き叫んでおり、到底その惨状を直視出来ない状態だった」と記録していて、当時の韓山邑城の激しい戦闘状況を彷彿させるのである。



<韓山乾芝山城(コンチソン)全景。今は林に土城の痕跡をほとんど残さない。>




乾芝山城から見下ろした韓山邑。東学革命の当時この城を占領するために東学革命軍と官軍・地方守城軍・流会軍・行商人連合軍は激しい攻防戦を繰り広げた。



【下の写真】
▲郡庁の前にある郡守の功徳碑。
▼舒川郷校