東学農民革命現場を尋ねて(17) -



懐仁(フェイン)・文義(ムヌイ)


隣村である懐仁・文義は
初期から東学教徒活動が熾烈



# 懐仁地域は民乱東学革命連結の輪


<写真:懐仁県衙>


姜炳雷(カンビョンネ 73才)翁の証言によれば、1893年民乱の時、貪欲で住民をむごく扱っていた郡守様(원님ウォンニム)が縛りあげられて多くの村に引き回されたが清宮里で解放されたという。
清宮里
http://www。encyber。com/comm/board/bl_view。php?tid=travelkorea&division=&p=1&schf=&schv=&lskin=list&range=&del_gubun=&modiidxNo=&sOption1=&sOption2=&sOption3=&sOption4=&idxNo=30302&order=2

また曽祖父が懐北面(フェブンミョン)・龍谷里(ヨンゴンニ)の人なのだが、 甲午年東学の時戦闘をしたと言うのに常にすらりとした馬に乗って通ったという話を聞いたと証言する。

この以外にも懐仁に東学接主は박만갑将軍だった。유한동がお爺さんも東学革命軍に参加して死んだなどの証言で朝鮮後期の民乱と東学革命の連結の輪をうかがうことができる。

清州(チョンジュ)から険しい皮盤嶺(ピバンニョン)越えればすぐ懐仁(フェイン)だ。深い谷間の下の平野が広くて肥沃で昔から両班土豪たちが住み着いていた。それで両班土豪勢力の収奪があったため 怨民も多く民乱も起き、 この土台にして東学の根付きやすかったの推測できる。

懐仁(フェイン)で東学の勢力が活発だったことは東学大都所があった報恩(ポウン)の隣り村であるという点でも想像できることだ。-

# 両班(ヤンバン)・土豪勢力と東学教徒の間に深刻な対立

文義(ムニ)地方での東学教徒の活動の記録としては、報恩聚會(ポウン・チュイフェ)後の 1893年 10月頃、教壇組職を大々的に改編した時期の記録のなかに文義の任貞宰(イムジョンジェ)・任貞準(イムジョンジュン)包(ポ=包は東学の基本組職) が登場する。

これは忠清・湖南・江原十六地域の中の一つであり、 それほど文義地域東学教勢が大きかったということである。

彼らは報恩聚會に主導的な活動をしたことを伝える記録がある。 <東匪討録>と <在韓日本公使館記録>によると、小巳田(ソサジョン 青山작은뱀谷)に集結した東学教徒たちが 4月8日には懐徳(フェトク=大田市北部)官衙を攻撃して武器を奪い、 4月9日には鎭岑(チンジャム)に向かった。

4月 10日懐徳・鎭岑(大田市儒城区地域の古名)一帯に泊まった東学教徒たちは清州・鎮南の営兵と沃川の兵丁(兵士)の攻撃を受けて撃破された。

しかしこれら東学教徒たちが4月 13〜15日にも沃川・懐徳・鎭岑(大田・儒城区)・文義・青山・報恩・木川一帯を集団で移動していたという記録からみて、文義地域東学教徒たちはこの一帯の東学教徒たちと連携して活動した事実を見せてくれる。

また、 文義は昔から両班官僚の収奪をたくさん受けて恨みが累積して来た村だから、甲午年 4月28日に青山・報恩・沃川・懐仁・鎭岑・木川地域と官衙と両班・土豪の家を襲って、 あるいは銭穀(チョンゴル)を奪い農民たちに分けてやったという記録も見える。

このように甲午(カボ1894年)の春から、文義の東学教徒たちは官衙を占領して両班土豪たちを攻撃するなど活動が熾烈だったのである。

この外にも甲午(1894年)の初期の具体的な活動記録も残っている。

甲午年 4月に作成した文献には、東学徒たちに襲撃を受けた両班土豪たちが東学討伐隊を組織するのに協力した文義서면登洞(トゥンドン)・新垈(シンデ))・黔沼(コムソ)、牛母実(ウモシル) などの呉氏、崔氏などが糧穀を調逹したとあり、花山(ファサン)の申参判宅が協力したという記録もあって、文義地域の両班土豪勢力と東学教徒の激しい対決の局面をうかがいしることができる。

このような甲午年春の忠清道東学活動は学界にまだよく知られない事実だ。これについての一層の研究が必要だ。

文義地域には東学革命後期にも血なまぐさい討伐戦が起る。すなわち、 東学軍討伐戦に出た日本軍は 11月10日青山で東学軍と戦闘を起こしたし、 12日には文義に入って来た。

当時文義地方には数多くの東学軍が集結していたが、 遂に 13日朝に戦闘が起こった。当時の文義戦闘の具体的な状況はわからないが、 日本軍の報告によると、 20余名の東学軍戦死者と無数の負傷者を出し、大砲 2門、 火繩銃 40余丁、 その他に火薬と矛などを捕獲したという記録からみると、東学革命軍は官衙で奪取した武器で武装しており戦闘がどのくらい激しかった想像することはできる。

文義は大清ダムで暮らしの拠りどころ水に浸かった村だ。当時の官衙と郷校が山の下の方へ移して復元されているが東学革命史蹟はまだ復元されることができないでいる。

# 残忍に血なまぐさく断行された官軍討伐戦

二つの地域の東学教徒活動が熾烈だっただけに官軍の討伐戦も血なまぐさく断行される。

李斗璜(イドゥファン)の초토記録によれば 10月 13日懐仁で柳鴻九(ユホング)、尹敬善(ユンギョンソン)、李承一(イスンイル)、禹範孫(ウボムソン) 接主を捕縛し、 翌日の 14日には報恩大嶺と風吹店(プンチュイジョム)で銃殺する。

15日には報恩・東学徒崔允伯(チェユンベク)・ 崔明伯(チェミョンベク)を、 16日にはまた懐仁へ入って来て報恩新村の方甲俊(パンガプチュン)・権亡児之(クォンマンアジ)・李光直(イグァンジク)、利川老谷の洪卜用(ホンボクヨン)、 安城基佐村の申悳甫(シントクポ)、 忠州毛豆院(モドゥウォン)の安在用(アンジェヨン)、 17日には龍仁接主李青学(イチョンハク) など多くの東学指導者ーたちをつかまえて虐殺する。

この時期は主力の北接東学革命軍が論山に移動して全羅道から上って来た全琫準(チョンボンジュン)軍と連合して公州大戦闘を繰り広げた。こうしてみると東学革命軍の一部は地域に残って防御任務を遂行したようだ。

当時、李斗璜(イドゥファン)が指揮する官軍は討伐戦初期の一ヶ月間はのろのろ動いていたが、日本軍の新兵器支援を受けてからは素早くなり残忍な虐殺をほしいままにしたのだった。