東学農民革命現場を尋ねて(16)



- 公州編

近代史の分水嶺になった
公州城戦闘



公州城戦闘のもつ歴史的意義はすでによく知られた。 公州城戦闘状況も日本軍と官記録を土台で比較的詳細に解明されたし, 公州牛金峙(ウグムチ)には慰霊塔が建てられた。 しかし公州地域で活躍した金知沢(キムジテク), 張俊煥(チャンジュンファン), 裵成天(ベソンチョン), 薛長律(ソルチャンユル)などの指導者の業績や公州聚會(コンジュチュイフェ)についての探求は充分でない。

● 公州で『東經大典』刊行

1881年頃に忠清道東学リーダーたちが、当時丹陽で身を避けていた二世教主崔時亨(チェシヒョン)を訪ねていたが, 公州の尹相五(ユンサンオ)もこれに加わった。 このことから推測すると東学は公州地域には早目に流入されたようだ。

のみならず1883年公州の東学組織(接)の中で『東經大典』(癸未仲夏版:左の写真右上)が刊行されるほどに教勢が強化された。

また, 東学革命初期には公州達洞(コンジュ・タルドン)の接主・張俊煥(チャンジュンファン)の活動が目立つ。 そして初期から公州牧(地方行政単位の一つ。牧使が治めた)管轄地域の木洞(モクトン)、定安(チョンアン)、요랑(ヨラン)、利仁(イイン)などに執綱所が設置された。このように、東学革命軍は公州には一足も入れることができいなかったとする見解は事実と違う。

これらは初期から公州官営を占領しようとする猛烈な活動を見せた。ハゴゲ(ハ峠)事件で現われる商人はすなわちこの地の東学教徒であり,執綱所の間に起きた意味ある事件だ。

また公州戦闘の時も李유相(イユサン)のようなこの地域出身リーダーたちが多かった。

のみならず、この国最初民衆集会である公州聚會(コンジュチュイフェ)の場所や主導した人物についての探求も必要だ。論山の小土山(ソトサン)に指揮所を置いた忠清湖南東学連合軍は二つの部隊分がれて公州進撃を開始した(訳注:論山・公州間は約25キロ強)。 全琫準(チョンボンジュン)部隊は論山・草浦(チョポ:恒月ハンウォル一里)から魯城(ノソン)と敬天(キョンチョン)を経て公州東側を, 孫秉煕(ソンビョンヒ)部隊は利仁を経て公州西側へ進撃した。

これと同時に東北の方ハンダリ(公州郡長岐面大橋)に沃川東学革命軍が陣を張って呼応し、北西の側方維鳩(ユグ:公州郡維鳩面)では崔漢圭(チェハンギュ)の部隊が陣を張った。 こうして今こそ公州を包囲攻撃する形勢を完成していた。東学革命軍の公州城攻略が東学革命勝敗の分かれ道であり, 官軍や日本軍としてもソウルが脅威受けるという認識で背水の陣を張っていた。


●牛臥里(ウワリ 箕山里)前方の山で
第1次孝浦(ヒョポ)・ 能峙(ヌンチ峠)戦闘


※memo 10月24日の出来事
박봉양(朴鳳陽)이 남원에 입성
효포(孝浦), 능치(能峙) 싸움
회덕지명장(懷德芝明場) 싸움

魯城(ノソン)から月岩(ウォルアム=鶏龍)里、鳳鳴(ポンミョン)里、能峙(널치=웅치=峠の名)を経て、牛臥里(ウワリ)の前の山が当時の激戦の地だ。当時日本軍森尾雅一大尉の記録によれば御陵するの盛花山(ソンファサン380m:公州南東5キロ)、소학山(ソハクサン)につながる尾根と高い峰 20 里にわたって東学軍の旗とたいまつが日夜なしに掲げて公州城を圧迫した。その山越しに平い台地があるところが, 当時の東学革命軍の指揮所だったと言う。

ここを通って花隱里(ホアウンリ:盛花山の麓) の갈미峰に至った。 갈미峰は右側へは牛金峙(ウグム峠)につながり左側は能峙(ヌン峠)につながる。二筋(갈래)に分岐している(갈라지는)山なので갈미峰とよばれるところだけに,花隱里(ホアウンリ) は全体が戦場となった。孝浦(ヒョポ)能峙(ヌンチ)戦闘は 10月 24日と 25日両日に起った。

23日夕刻東学軍が砲を鳴らし続けると、 24日夜明けに孝浦(ヒョポ)を守っていた官軍が退却, この隙に東学革命軍が能峙(ヌンチ)を過ぎるために攻撃を開始した。 この時官軍は … 包囲網は山道 40 里にわたって人の屏風を張り巡らせたようであった。また, 鉄砲と矛が森を成して、旗は能峙(ヌンチ)から금가(クムガ)に至る広い庭をいちめんに覆ったと書いた。

しかし日本軍の新式武器に武装した成夏永(ソンハヨン)、尹泳成(ユンヨンソン) 白樂浣(ペンナクワン)의은は抜けなかった。 雨を降りしきり日が薄暗いころやっと戦闘が止んだ。25日の戦闘も能峙で続いた。 早朝全琫準(チョン・ボンジュン)は紅色覆いの大きい御輿に立ち上がって、五色旗を振って東学革命軍を指揮した。しかし東学革命軍は森尾大尉が指揮する日本軍に, 前日大橋里から 5千名の東学軍を撃破した洪運燮(ホンウンソプ)軍が加勢して一層補強された火力をくぐることができなかった。結局東学革命軍は敬天(キョンチョン)へ退いた。 この戦闘で死骸が山と谷をうずめた言うからその日の惨状がどれほどのものか想像できる。

● 熾烈だった 2次牛金峙(ウグムチ)戦闘

11月8日, 戦列を整えた東学革命軍が再び進撃した。主な攻撃路は한마루(한尾根)→대실→삿대울( 盤松里パンソンニ)→발양→옥고개→오설→막골(マク谷)→牛金峠(ウグムチ)だった。 当時の戦況記録に東学革命軍は山上の各要塞に砲台を設置して全面攻撃に出た。敬天・ムノミ峠で守備した官軍の具相祖(クサンジョ)部隊を撃破して能峙(ヌンチ)へ後退させた。利仁(イイン)の方では成夏永(ソンハヨン)、白樂浣(ペンナクワン)部隊を包囲攻撃して牛金峙(ウグムチ)に追いやった。

【下写真:牛金峠から公州を望む】
初日、東学革命軍の攻撃は주미山の下오실(オシル)・막(マク)谷まで攻めこんで陣を張った。 ひといきに公州城を攻略するに値する勢いだった。初日の革命軍の攻撃で押しこまれた官・日本軍の最後の防御線を牛金峙(ウグムチ)・진막골(金鶴洞)・곰티(コム峠)・孝浦(ヒョポ)・烽燧臺、犬浬山(キョンジュンサン)
、監営後方の山である두리(トゥリ)峰(主峰)につながる切れ目のない防御線を構築した。一方一日晩中山の上でたいまつを灯して対峙した東学革命軍は 11月 9日夜が明けるや一斉に攻撃を開始した。

初めには東学革命軍が勝機をつかんでいるように見えた。しかし日本軍の新武器である回旋砲(機関銃)を 10余所に配置して無慈悲な虐殺が始まり戦勢は反転した。巳時(午前9時) くらいから始まった戦闘は未時(午後3時)まで 6時間位死骸が積み重なっていった。全琫準(チョン・ボンジュン)は供草(裁判記録)で 第2次合戦の後、1万名余の軍兵を点呼すると残った者がわずか 3千名であり, 2次合戦後もう一度点呼するとわずか 5百人に過ぎなかったと語られておりその犠牲の惨状を推量することができる。

回旋砲:昔使われていた大砲の一種

※日本軍後備歩兵第十九大隊が率いた日官連合軍兵力は2700余名だった。

● 独裁政権の歪曲された歴史象徴物

私たちの近代史の分水嶺になった公州の最後の戦闘は、東学革命軍の夢と恨(ハン)が交錯した意味ある場所だ。日本軍の新式兵装機によって勝敗は予見された事だった。

公州監営裏山である한산소(ハン山所=墓地)と박산소(パク山所)송장배미(ソンジャン一枚田)
なども皆東学革命軍の墓だ。東学革命軍の寃魂をなぐさめて一揆の大義を記念するための記念塔建立は 1973年に日の目を見た。しかしその記念塔も、祖父が東学革命軍だったという朴正煕の配慮で, 5 16軍事クーデターを美化する口実で記念塔(右写真)が立てられたのであるから、これは軍事独裁政権の歪曲された歴史の象徴物だ。

それでも東学革命百周年を過ぎた今日も碌な記念物一つ立てることができないでいる。