東学農民革命現場を探して(15)



-錦山篇
忠清-全羅道をつなぐ
東学革命史の連結環


錦山(クムサン:忠清南道錦山郡錦山邑)は東学革命の最初の起包地域であり、東学革命軍と保守勢力との攻防戦はどの地域より厳しかった。

そしてこの地の東学革命軍は翌年1895年1月下旬まで日本軍と粘り強く抗戦した。

錦山地方の東学史跡は、①初期の東学流入、 ②1894年 3月 8日錦山제원と珍山방축리蜂起、 ③9月再蜂起のときの攻防戦、④公州戦闘敗北後、大芚山(テドゥンサン)で繰り広げられた最後の抗争と⑤日本軍の残酷な討伐戦などに要約される。

特に、別々に扱われた全羅・忠清の東学革命史が、錦山地域の東学史跡を見れば互いに連結された活動であることがわかる。



▲ 1894年 3月 8日済原(チェウォン:全北錦山郡済原面)
市場で蜂起して東学革命のたいまつが上がった。

● 1862年上半期に
東学が流入


<梧下記聞>(朝鮮末期黃玹が著した野史 )に慶州の崔済愚(チェジェウ)が지례、金山及び湖南の珍山(チンサン)、錦山(クムサン)の山奥を往来したと記している。

これからみて錦山地域には1862年上半期に東学が流入していたことになる。

1887年に至りに黃澗(ファンガン)の趙在壁(チョジェビョク)が入道、布徳を始めて沃川(オクチョン)の嶺東青山(チョンサン)地域から布教活動をすすめたが、1890年頃からは錦山(クムサン)珍山(チンサン)高山(コサン)竜潭(ヨンダム)地域に範囲を広めていった。

1892年 11月に삼례教祖伸寃運動(死刑に処せられた教祖崔済愚の名誉回復運動)が始まり民心が東学に傾き始め趙在壁は屈強な指導者として登場する。

1893年 2月光化門教祖伸寃運動のときには多くの道人を率いて参加し、1893年 3月報恩帳內里(ポウン・チャンネリ)と全院坪(ウォンピョン:全羅北道金堤郡金溝面)で開かれた集会にも、多くの道人を率いて参加した。

<錦山郡誌>にこの年の3月 8日武装した東学軍が済原駅(チェウォン:全羅北道錦山郡済原面)に集まり李也勉(イ・ヤミョン)を先鋒将として 5千余名が竹槍と農器具を持って大挙して錦山邑に入り官衙を襲撃し文書と各種器物を燃やして書吏達の家屋を破壊したという記録と、 <梧下記聞>にある今月(3月)12日に東学道数千名が棒で武装、白い手拭いを巻いて邑に集まってきて官吏達の家を燃やした、とする2記録からみて、錦山地域の最初の起包日付は 3月 8日あるいは12日ということになる。

全琫準(チョンポンジュン)と孫化中(ソンファジュン)が高敞(コチャン 全羅北道 高敞郡 高敞邑)において起包した日付を 3月 18日とみなすのなら、錦山の地域の起包の日付はこれ 6日ないし10日程度早かった。

したがって最初の起包場所は高敞(コチャン)ではなく錦山・済原(チェウォン)市場と珍山・防築里(忠南珍山邑)である訳だ。

済原(チェウォン:全北錦山郡)市場の東学革命軍は李也勉(イ・ヤミョン)が統率し、防築里(忠南珍山邑)に集まった東学革命軍は趙在壁(チョジェビョク)と崔公雨接主が 、そして錦山東学革命軍は朴能善(パクヌンソン)接主が指揮した。

東学革命軍は錦山の東軒(役所の建物)を占領して悪質官吏達を懲らしめることに成功したがと十日あまりが過ぎると保守勢力達が珍山防築里(パンチュクリ)を占拠していた東学革命軍を反撃する。

<수록> 영기조に 4月2日錦山の行商人金致洪(キムチホン)と任漢錫(イムハンソク)は邑民と行商千余名を率いて珍山防築里(忠南珍山邑)東学徒達を攻撃、 114人を殺したと記す。

錦山では 6月中旬になって執綱業務が始まったのだが、最初に執綱に差任された東学徒は龍潭県(全北鎮安郡)に住む金己祚(キムギジョ)であり、その後任は錦山邑に生きる趙東賢(チョドンヒョン)であったという。

しかし執行所が錦山邑どこへ設置されたのかは知る由もない。

観察使の命令で東学軍執行所が設立されると保守勢力の抵抗は弱まった。

錦山民堡軍数千名と東学革命軍数千名は10月22日に珍山郡と錦山郡の境にある소리니재で対陣する。

22日午後から激しい攻防戦が起こったが勝敗は決まらなかった。

二日間も対峙した戦闘は 24日午前 10時に東学革命軍が総攻撃を敢行すると、民堡軍は 64名の戦死者と多くの負傷者を出して四散した。

このように幅を利かせていた珍山、錦山、沃川地域の東学革命軍は、11月 11日と13日に公州戦闘と清州城戦闘において全琫準(チョン・ボンジュン)と金開南(キム・ゲナム)が意外にも大敗してしまったという消息が飛び込むと士気が地に落ちた。

しかし趙在壁(チョ・ジェビョク)と崔士文(チェ・サムン)、崔公雨(チェ・ゴンウ)父子が率いる東学革命軍はあくまでも抵抗する態勢を備えた。


▲写真下:甲午年 3月弊政改革を要求した
民乱(民擾)の記録 錦山と龍潭の二村に
かけて起きた。東学革命と連関性がもう少
し研究されなければならない。


●東学革命軍ゲリラ戦法を駆使


白木(訳注:白木中尉)が指揮する日本軍が 11月 6日に沃川を経て錦山へ向い済原(チェウォン:全北錦山郡済原面)駅東方 10kmの地点である陽山(忠北永同郡)村へ来て留宿することになった。

東学革命軍千余名が 11月 8日夜に彼らを包囲夜襲した。

激しい交戦が野原御旨者200m前方の民家に東学革命軍が火をつけた。

周辺が明るくなると日本軍は東学革命軍の動きを捕らえ集中射撃を加えた。

1時間あまりの交戦の末に東学革命軍は錦山方面と退却した。


数的に優越な東学革命軍だったが日本軍の連発銃をかなわなかったのである。

錦山邑へ入ってきて東学革命軍を制圧すると保守勢力達が暴れ始めたが、日本軍が退くと、東学革命軍がまた現れて活動した。

東学革命軍は官軍が入ってくれば隠れ、立ち去ると再び現れるゲリラ戦法を駆使したのであった。抵抗を続けるためには安全な根拠地が必要だった。根拠地にふさわしい場所をあちこち物色した結果、全羅北道完州郡雲州面の山北里(サンプンニ)北西側、석도谷の大芚山(テドンサン)弥勒岩に草で葺いた小屋を作って抗争に入る。

1895年 1月 9日(陽暦 2月 3日)に入ると忠清監営は兵力を出動させて大芚山(テドン山)の東学革命軍を攻撃したが二日の間滞留したものの対応できず珍山へ撤退する。

錦山の義兵将金振容(キム・ジニョン)が 300人を率いてやってきたが彼もやはりお手上げだった。それどころかかえって東学革命軍は錦山(クムサン)邑を攻撃して営軍を呼び込んだ珍山の軍官河景奭(ハギョンソク)を処断して多くの兵士を射殺する。

監営軍はこの便りを聞いて召募使文錫鳳(ムンソクポン)を出動させたがこれも対策を立てることが出来ず珍山邑に退く。



▲写真:この村には東学革命の当時錦山市場で
3名の東学革命軍が処刑されて同じ日に
祭祀を営んだ

●大芚山(テドゥンサン)山での完敗 -大芚山の北・廉貞洞(ヨムジョンドン)へ後退

1895年 1月 23日に新式武器と武装した壯衛營兵と日本軍 3ヶ分隊が大芚山に着くと事態は急転する。

日本軍は 24日明け方攻撃を開始した。東学革命軍は険しい崖だけ信じて背後は無警戒のまま前方のチ壯衛營軍に向かって発砲し続けた。

その合間に日本軍は後ろ側へ潜伏して不意に突撃した。


東学革命軍はうろたえてあるものは千尋(ヒロ 訳注:一尋は成人の身長程度)もある渓谷に飛び降りたしあるものは岩の穴の中に隠れた。

生き残ったものはすべて捕縛しようとしたが壯衛營軍兵士たちがすべて射殺し、やっと一人の少年だけが生き残った。29歳位の妊産婦も銃に撃たれて死んていた。

※大芚山  

接主金石醇(キムソクスン)は1歳ほどの女児を抱いて千丈の崖を駆け下りたが岩にぶつかって即死した。日本軍によって大芚山(テドン山)で完敗した東学指導部は廉貞洞(ヨムジョンドン)へと後退する。

崔士文(チェ・サムン)と崔公雨(チェゴンウ)は数百名の東学革命軍をもう一度集めて抗争を試みたすえついに討伐された。