東学農民革命現場を探して(14)



<忠州編>
忠州の人々を中心に教祖伸寃運動


▲写真:南漢江可興(カフン)の日本軍兵站部跡。今は保健所の建物が入っている。

崔時亨(チェシヒョン)は丹陽を橋頭堡に南漢江の要旨忠州を頻繁に出入りして布徳(布教)に努力した。

崔時亨(チェシヒョン)は 1891年12月忠州外西村(ウェソチョン)辛在蓮(シンジェリョン)の家へ移住して翌年 1月鎮川부창리へ移住し東学の中心勢力が清州内陸と移動することになる。

さらに崔時亨(チェシヒョン)は 1892年 8月21日辛在蓮(シンジェリョン)にしっかりした人材を40名選び名簿を作成して 9月10日まで都所に送るように手紙を出す。

これは教祖伸寃運動のための準備と思われ、この地域の人士を中心に教祖伸寃運動(邪教で世の中を乱したという罪で死刑になった教祖崔済愚(チェジェウ)の汚名を挽回しようとした運動)を展開していく。


▲下の写真:東学革命当時において日本軍
東学討伐に功績があったことを讃えて建立され
た功績碑。現在は誰かが文字を削ってしまった。

日本軍は日清戦争が起きると兵站補給路確保と兵站調達のために後備歩兵第6連隊第10連隊及び後備歩兵第18大隊を韓半島に駐屯させることで本格的な大陸の侵略段階に入り込む。

釜山ー洛東(ナクトン)ー水安堡(スアンボ 温泉地)ー可興(カフン)ーソウルと続ける電線架設が 8月にすでに終っていたし、京釜東路に 21個の兵站部を設置する。

忠州地域には可興(カフン)、河潭(ハタム)、忠州(チュンジュ)、水安堡(スアンポ)地域に兵站部をおいて行軍する日本軍隊の指令地、朝鮮の人馬の雇用、食糧倉庫の設置、及び朝鮮貨幣の買収などの任務を遂行し、東学革命軍の活動が始まるとその鎮圧に注ぎ込まれる。

9月 21日には可興兵站部で朝鮮人人夫を募集したが、忠清道河潭(ハダム)可興(カフン)地方の東学教徒が日本軍隊の荷物を運搬する者はすべて殺すと脅迫し、忠州の牧使閔泳綺(ミンヨンギ)が乗り出して人民たちを曉諭するに至った。

東学革命軍勢力は、日本軍の景福宮占領の知らせと兵站部建設、軍用電信線建設の動きから日本の侵略野望を読み取り、日本兵站部を攻撃して電信線を破壊する。

これに対応し日本軍は兵站部の兵力を増強する。しかしこれに屈せず東学革命軍の活動は続く。

日本軍は可興に圧力を加えていた東学革命軍が북창渡しに駐屯しているという諜報を受け、忠州兵站司令部の酒井曹長を派遣したし、북창渡しの東学革命軍を攻撃して本拠地だとする天登山(チョンドンサン 807m 忠州市山尺面)ダリッ峠の東学革命軍陣地を攻撃する。

日本公使井上馨が東学党掃討をために本国広島の大本営に対して電報で兵力を要請したの 9月 28(陰暦)ことだ。 10月21日???に後備歩兵独立第19大隊が出動して仁川に上陸、前から入っていた忠州の可興駐屯軍と合流して東学革命軍せん滅作戦に突入する。

10月14日、この地域の東学革命軍から攻撃を受けていた忠州兵站部の日本軍は東学革命軍に攻撃を加え始める。

단월で東学革命軍首領 3人を逮捕し、 15日夜には清風(チョンプン)附近の東学革命軍を攻撃して 4人を逮捕して 30余名を殺害する。

この動きに対応して東学指導者・成斗漢(ソンドゥハン)は清風面西倉(ソチャン)里に東学革命軍勢力を駐屯させており、可興兵站部남소에도、東学革命軍が総結集して忠州と可興兵站部の攻撃を準備していた。

東学革命軍は先に電信線を切断して忠州、可興・聞慶との連絡を途絶させた後、忠州・聞慶間にある安堡(アンポ 水安堡面安堡里)兵站部を攻撃して壊滅させた。

▲최병터(チェピョント)。可興に駐屯した
日本軍の兵営があったので付けられ
た名前だ。
可興兵站部が急いで要請した増援軍が、利川を経て 27日に到着。東学革命軍の攻撃を防ぐ一方電信線を復旧したのだがこれが結局東学指導部の 9月再起包の引き金となった。

9月 18日、東学教団の再蜂起宣言によって東学革命軍の動きが活発になる。용수포では허문숙ホムンスク、徐璋玉(ソジャンオク)が率いる強硬派と、穏健派に属する辛在蓮(シンジェリョン)の東学革命軍が対峙したとはいうがこの問題ははっきりと解明出来なかった。

徐璋玉(ソジャンオク)は北接東学革命軍勢力の中で強硬派で知られたが、全羅道の全琫準(チョンボンジュン)孫化中(ソンファジュン)崔景善(チェギョンソン)などの精神的な師として知られている。

徐璋玉は清州人で、行跡がよく知らされない神秘の人物で 1900年に捕まって絞首刑に処せられる。

용수포(ヨンスンポ)に集まった北接東学軍は老隠(ノウン 忠州市老隠面)신의실(シンウイシル)を経て龍院里(ヨンウオンニ 忠州市薪尼面)へと移動していった。ここで京幾道東学軍と合流し北接主力の戦略にしたがって鎮川、槐山、清州、報恩などへと移動する。

事情がこうなると忠州に駐屯した日本軍は一層切羽詰る。

11月 2日槐山官衙が攻撃に遭うと遠藤(원전)少尉が配下の 2個分隊兵力を率いて槐山へ出動して交戦たが日本軍側の 1人が即死 3名が負傷するとういう損害をこうむる(槐山編参照)。兵站司令部は指揮官を山村충정中隊長に替えて、`飯森(반삼)小佐の指揮を受けるようにした。
忠南禮山郡徳山での山村中隊長の報告

11月 10日夜、日本軍は忠州で槐山へ通じる街道の남창(ナムチャン)と월두동(ウオルドゥドン)附近に東学革命軍のいるという急報を受けて出動、12日오리동(オリドン)で東学革命軍 10余名を逮捕して 6人を打殺する。

14日にも、いくつかの面で東学革命軍を逮捕したが、槐山郡主朴容奭(パクヨンソク)が東学革命軍 2人を槐山の市の日に打殺するように日本軍に要請し2人が打殺される。

11月中旬になると日本軍は槐山の忠州清州附近の東学革命軍をはさみ撃ちするために作戦を立てる。

日本軍は大砲などの新武器を先行させてなんなく東学革命軍を鎮圧したが、忠清道東北部地域である提川(チェチョン)、寧越(ヨンウォル)に入った第2中隊は、革命軍の山岳を利用した抵抗に押されて苦戦することになる。

それは成斗漢(ソンドゥハン)大頭領が率いる東学革命軍の軍勢であった。酷寒期にさしかかるころ指導者達が捕らえられたりあるいは潜伏したりしながら闘争の幕が降ろされることになる。

1894年12月末報恩プクシルで敗れた北接東学革命軍は忠州外西村堤晴里(テジャニ 陰城地域金旺邑)で再び敗れたあとはそれぞれが散らばっていくことになる。このあと生き残った東学革命軍の人生に苦労は絶えなかった。

彼らは`십가통규(十街通規?)`という両班士大夫層からの監視を受けるようになって、生きる道を探して帰順したり東学を捨て同志に隠れて過ごすことになる。

しかしそれでも許されず地方民堡軍によってむごたらしく殺される場合もある。当時の薪尼面院坪里내포に住むあるおばあさんの証言によれば、東学に加担した多くの東学革命軍が迦葉山(710m)도둑谷に隠れていたが民堡軍の襲撃を受けて惨殺されたと証言する。

東学革命が幕を下ろしたあと本格的に展開されることなった日本の侵略政策に抵抗して起きた義兵は、지각の兵である訳だ。当時日本の新聞の記事に<忠清道の敵(義兵)は東学党が混ざっていて、軍勢が盛んで忠州を陥落させたので郡守が逃亡した>という報道でみると東学革命軍がほかに方法がなく義兵に転換した事例もあるようだがこれもやはり究明しなければならない部分だ。