東学農民革命現場を探して(14)



-堤川(チェチョン)篇
丹陽(タニャン)、は忠清道東学布教活動の橋頭堡



▲写真:忠州湖に沈んだ신당리市場(シンダンリ市場 堤川郡清風面)。 1894年春にここに東学軍が集まってデモを繰り広げたという記録が伝えられる。
丹陽は 二世崔時亨(チェシヒョン)が太白山脈を出入りしながら潜行布徳したため東学は早い時期に流入し教徒活動が活発で、『竜潭遺詞』刊行の地でもあった。
堤川(チェチョン)郡の清風(チョンプン)は東学内の強硬派に属するソンドゥハン(成斗漢)大統領を中心に教徒活動が盛んに展開された地域であったので、甲午の年の春にも、신당리 장터(シンダンリ市場 今は忠州湖の湖底に沈んでしまった)で東学聚會があって、 9月には 6千余東学革命軍が北山(장자봉チャンジャボン)に陣を張って闘争活動を繰り広げた。


#샘골(セムゴル泉のある谷)は『竜潭遺詞』刊行地

1864年 3月、崔済愚(チェジェウ)が「惑世誣民」の罪で大邱で処刑されるや崔時亨(チェシヒョン)は弾圧を避けつつ小白山脈を出入りしながら教勢を拡張させて行く。

しかし、崔時亨(チェシヒョン)は 1871年に自らは承認を与えなかったにもかかわらず、李弼済(イピルジェ)によって引き起こされた蜂起(辛未事変)のために再び官衙の疑いを買い追跡される。

その年の8月李弼済(イピルジェ)は重ねて蜂起を謀議して聞慶邑を襲撃しようとしたが、事前に計画が漏れ官軍に捕まり処刑される。この事件で崔時亨(チェシヒョン)はまたまた官の追及を受け、丹陽郡丹陽邑佳山里の鄭錫鉉(チョンソクヒョン) の家で作男をする。

ここでも身に危険を感じて寧越(ヨンウォル 堤川の東)の정진일(チョンジンイル)の家に隠れながら小白山へ入る。このような逃避中にも丹陽の南面寺洞、ソンドドク(葛川)等で 홍순일ホンスンイル、、김연국(金演局) 等と 49日修練をして、説法祭を創設して道主人崔時亨(チェシヒョン)、次道主カンシウォン(강수)、道接主유시헌(유인상) 3人が改名しながら東学の指導体制を整備する。


▲写真:清風官衙に付設されている八詠樓(パルヨンル)。1892年に民乱が起きた所でもある。

この時期には 「各処道儒之来謁者不計其数(各所から数多くの教徒達が訪ねて来)」と言いソインジュ,ファンハイル,孫天民(ソンチョンミン), 孫秉煕(ソンビョンヒ),朴寅浩(パクインホ),アンギョソン,キムヨンシク,キムサンホ,金殷卿(キムウンギョン),ユンサンホ,余牛徳(ヨウドク),余牛新(ヨウシン)などの忠清道東学中心人物達が崔時亨(チェシヒョン)訪ねてくる。丹陽はいわば忠清道の東学布教の橋頭堡だった訳だ。

このような教勢を背景に、崔時亨(チェシヒョン)は 1881年に丹陽泉頭の呂圭徳(ヨギュドク)がで『竜潭遺詞』を刊行する。『水雲歌詞』とも呼ばれる『竜潭遺詞』は東学の経典である『東経大全』を民衆達が簡単に接するように歌詞で簡単に解いて書いた本だ。

甲午年に丹陽接主・閔士燁(ミンサヨプ)が率いる東学革命軍が丹陽軍衙へなだれ込んだ。郡主・정의동(チョンウイドン)を追放する計画があったが、郡主は前もって逃亡してしまい官衙の衙吏관속의(クワンソギ)の家を打ち壊したという記録に当時の東学教徒の活発な動きをのぞくことが出来る。

#清風・黃澗に民乱 -按覈使(アンヘクサ)派遣

壬辰(1892)年に忠清道には清風・黃澗2地域で民乱が起きて朝廷から按覈使(アンヘクサ)が派遣される。二つの村ともに県監の貪虐事実が明らかになって県監は免職で落着を見た。

これは朝鮮末期に全国的に起きた<民乱>が決して<東学革命>と無関係ではないことを物語っている。

清風地域の東学教徒の活動はどの村より盛んだったが、ソドハンをはじめキムヨンリョム(金用濂)、ファンゴポク、キムヨンジン(金栄鎮)などが乙未年に東学乱裁判を受けた。

この中には吏房や使令の身分のものもいた。しかし、この地域の東学史跡は村全体が清風湖に沈んでしまった。
#이면재(イミョンジェ)の 『日記』を通して地域東学活動を確認

1895年 3月 29日、成斗漢は全琫準(チョンボンジュン)、孫化中(ソンファジュン)、崔景善(チェギョンソン)、金德明(キムトクミョン)とともに処刑されて東学革命の幕が降りる。

成斗漢は唯一忠清道清風の人間だと記録されていて多くの学者達が彼の行跡に関心を払ったけれども具体的な行跡を道がなかった。

1994年、筆者が東学革命百周年記念の企画取材中に、水没地域である月岳山(ウオルアクサン 丹陽郡寒水面 現在は月岳山国立公園内)のふもとにあった북노리出身の儒者이면재の 『日記』を発掘し、成斗漢の活動やこの地域東学活動がある程度明らかになった。


▲ 写真:1892年から閔妃の指示で始まった工事は東学革命で中断された。
月岳宮の場所はこの地域の東学革命勃発に重要な役割を果たしているの
で運動場の下に埋められているものを発掘すべきではないか。


『日記』の登場する主要な東学革命史跡としては
①月岳山(丹陽郡寒水面)の下にこの地域に対する収奪で作られた閔妃の避難宮工事の記録
② 1894年春、신당市場集会
③日清戦争で敗れた清軍の退却行路と収奪の蛮行
④甲午年 9月、成斗漢が東学教徒達を集めて장자봉(북산=北山)に民間砦を築いて日本軍に抵抗したという記録
、などがある。

特に月岳山(丹陽郡寒水面)のふもとには閔妃の指示で避難宮の大々的な普請が進められたのだが、その規模は月岳山(丹陽郡寒水面)の下송계 골짜기に工事人夫たちを相手にする大規模な広い市場ができたほどだったという。

そして南漢江(ナムハンガン=ソウルを流れる漢江の上流のひとつ)を通して入ってくる各種の木材や石材はそれこそ 돈덩어리であったということだ。その工事がどの規模で進められたか、あるいは、工事がどこまで進捗して中断されたのかはわかっていない。

それさえも송계初中学校建物を建てるとき月岳宮場の史跡をすべて運動場に埋没してしまったとということだ。現在の運動場のあたりに何個かの宮場礎石が置かれているでにこれを発掘することも考慮してみる値打ちがある。

そして 『日記』に、甲午年春には、송계(12신당리といわれる程広い自然部落)市場に東学教徒達の集会があった事実や、日清戦争において敗れた清国軍士たちが(平壌へ撤退するため)清州街道を経て忠州に入ってきて江原道へ移動するときにしでかした悪行がリアルに記録されている。

また『日記』にでてくる<この時田舎で暮らす百姓はほとんど皆が東学に入り、かってきままに仇も討ち金も徴発しているが、浅はかな百姓を扇動して・・・>などの記述に当時の民心を覗くことが出来る。


▲『竜潭遺詞』刊行地 丹陽샘골セムゴル略図。


『日記』は保守的な儒者の偏向的な視角ではあるが、成斗漢の行跡がよく現れており、 (成斗漢が)浅はかな人民たちを扇動し結果、山内山外(清風・丹陽・提川・영춘)に約六千人の兵が集まったという記録と、東学接主(成)斗漢は一人の浅はかな百姓にすぎないが、すべての百姓が彼を尊敬するところをみると、これはやはり天運なのかもしれない、という記述から、成斗漢が率いる軍事力と闘争、そして彼の人なりが推察されるのである。

特に、日本軍は韓半島に進出し、釜山ー洛東ー安東ー聞慶ー可興ー利川ー松坡とつながる電線を仮設したが、成斗漢が率いる東学教徒によって수안보水安堡附近で電線が切り落とされたという記録は注目に値する。

成斗漢は정선チョンソン地方で日本軍に逮捕され処刑された。