東学農民革命現場を探して(12)



ー永同編ー
傑出した東学指導者達の活躍と犠牲



▲東学革命当時龍山(ヨンサン)市場があった龍門中学校(忠北永同郡龍山面 青山と永同
の中間地域)。北接東学軍最後の勝利の戦場であるわけだ。

永同地域(忠清北道永同郡)の東学は創道初期に流入しており教徒活動が盛んだった。ここは全羅・慶尚・忠清三道に接する地域で、ここの東学指導者達が他地域に進出し活躍する例が目立っている。青山の沃川・珍山地域を中心に活動した黃澗(ファンガン 忠清北道永同郡黃澗面)の趙在壁(チョジェビョク)大接主がその例だ。

東学革命翌年である乙未年の東学乱裁判で、宋一会(ソンイルヘ)孫海昌(ソンヘチャン)などが頭領級として裁判を受けたし、白鶴吉(ペクハクキル)接主が報恩において梟首されたという記録が見えるが、彼らは永同出身という事実の他に具体的な活動は知り得ない。

永同地域の東学革命史では黃澗地域の東学教徒達が秋風嶺を越えて金泉等へ進出して活躍したという記録と、第二次蜂起の時の永同・黃澗官衙占領や、龍山市場戦闘を上げることが出来る。


黃澗は唱道初期に東学が流入した。唱道主・崔済愚(チェジェウ)が宣伝官・鄭雲龜(チョンウング)に捕まってソウルに連行されるとき、秋風嶺下に至ったとき「(崔濟愚への)弾圧に不満を抱いた東学教徒達が集まっている」という噂を聞いた鄭雲龜(チョンウング)は報恩側に方向を変えたという記録が語ってくれるように、初期から黃澗地域に教徒の活動が際立っていた。

のみならず三政紊亂で民衆蜂起が絶えず続いていた壬辰年(1892) 8月に黃澗の怨民たちが立ち上がり県衙を襲撃した。

朝廷において按覈使(アンヘクサ 訳注:紊乱収拾のため遣わされる役人)を派遣して黃澗県監민영후の貪虐事実が明らかになって민영후は免職される。民乱が東学革命と脈を通じているという事実を見せる例だ。

かつて黃澗地域は趙在壁(チョジェビョク)接主が布教を主導したと思われるが、 1894年春には沃川の錦山・珍山等で活躍して、 9月起包以後には黃澗の東学教徒達が金山(訳注:現在の慶尚北道金泉市、金陵郡あたり)・尚州など慶尚道で繰り越し活躍したという記録が見える。

#永同・黄澗の官衙を占領


▲写真:黃澗駕鶴楼。あたかも鶴が風に
乗って漂いそうだして付けられた。両班
達の集会場所で使われた。

公州戦闘で敗れたあと南原まで後退した北接東学革命軍が南原새목터(セモクト)で崔時亨(チェシヒョン)と合流、官・日本軍が追撃する平野地帯を避けて、小白山脈に沿って北上しながら 18回にわたって大小の戦闘を重ねた。

彼らは長水(チャンス 全北長水郡)と茂朱(ムジュ 全北)官衙を占領して、永同の関門である달밭재(タルバルジェ=タルバル峠 월전리)から官軍との戦闘を繰り広げる。

この時期に尚州召募領将金奭中は茂朱と 10余里離れた永同고관리(コグァンリ)で東学の頭領정윤서(チョンウンソ)を逮捕して銃殺したが、 7000余の北接東学革命軍が報復に押し寄せるという急報を受けて急いで撤退する。

金奭中は当時永同の地へ入ってきて数多くの東学教徒達を捜索して銃殺したのだが 、これは二世教主崔時亨(チェシヒョン)がここに隠れているという密告が入ってきたのためだった。

当時捕まって銃殺された永同地域の頭領級人物にはイパンソク(李判石 西済村接主)、キムチョルズン(金哲中 接司)キムテピョン(金太平)キムゴミ(金古味)ペアンジュン(裵安順 三室村接司)イグァンポン(李寛奉)パクチュホ(朴秋浩)などがいる。

金奭中は後日の討伐の功を認められて安東郡主として赴任するがが翌年(1895)に義兵이강년(イカンニョン)に捕まって농암(ノンアム)市場の群衆の前で梟首される。

金奭中はいそいで尚州へ撤退しながら、수석리(スソンニ)で東学の頭領チョンヨジン(鄭汝振)を銃殺し세작を送って龍山市場戦闘に備える。

一方、茂朱を発って永同に入ってきた北接東学革命軍は、永同と黃澗の二つの官衙を占領する。北接東学革命軍は、忠清道と慶尚道の二つの進出方向を想定し検討していたが、桑原栄次郎が指揮する洛東兵站部から日本軍が出動したという報告を聞いて慶尚道の道をあきらめて忠清道報恩へ方向を定める。

北接東学軍は수석리(スソンニ)を経て龍山市場に入って戦闘に入る。수석리(スソンニ)は報恩と尚州へ入る要所で、ここにはかつて慶尚監使によって貪虐事実が明らかになって流刑を処せられた高宗の六寸兄이용석イ・ヨンソク:イヨンガンとも)の流刑地であった。

はじめに慶尚道칠곡(チルゴク)で流刑に処せられていたが、永同밀골(ミルゴル)に居所を移して수석리(スソンニ)に入ってきた。이용석(イ・ヨンソク)がどんなに暴悪がひどかったか、甲午年(1894)を前後してこの地域の東学徒たちから数回にわたって強奪したという記録が見える。

彼が死亡したとき高宗が王族喪輿(葬儀に使う輿)を下賜したが、その喪輿さえ怨民の攻撃を受けた。現在当時の王族喪輿が龍山面新項里(シンハンニ)に伝えられている。

#熾烈だった龍山市場戦闘

現在龍山市場入口にオヨングン郡守の善政碑が立っているのだが、これは甲午年以後多くの東学教徒を懐柔して犠牲を出さなかった功績によるという。10年前の踏査のとき会った정태선翁(故人)の話によると、<報恩官衙に政府軍が入ってきていたのだが、永同のオヨングン郡守は夜昼官衙の庭に伏して、捕まってきた永同村の東学教徒達を生かしてもらいたいと、あごひげに白霜が宿るほど懇請して、多くの人命を救った>と証言した。

しかしどこまで真実であったのかは確認する道がない。

龍山市場戦闘が起こった所は現在龍門中学校の場所なのだが、丙子年の梅雨の際、市場が押し流されたため現在位置へ移した。


▲写真:東学革命体験学習の実例。

当時の龍山市場戦闘状況は、尚州召募営長金奭中(キムソクチュン)の<召募日記>と <討匪大略)>に比較的詳しく記録されている。以下その記録である。

1894年12月 11日朝、清州営軍使と龍山市場に陣を張っていた北接東学革命軍とが先に激しい戦闘を繰り広げる。

尚州召募営遊撃兵隊・召募営長・金奭中は세작を送って戦闘状況を報告をやり取りし龍山後谷(ヨンサン・フゴク)へ入ってはさみ撃ちした。

山上まで陣を張っていた北接東学革命軍は、尚州遊撃兵が四方が山で囲まれた谷間を攻撃してくると反撃を開始した。

北接東学革命軍軍の攻撃が元々組織的で屈強であり、隊列を乱さないでゆっくり後退して再び官軍を包囲攻撃する作戦をとって大勝した。

早くも翌日(12日)朝には、前郡守박정빈(パクチョンビン)が率いる沃川の民堡軍と清州兵が再び攻撃してき尚州召募営軍がはさみ撃ちしてきた。北接東学革命軍が彼らを近づけて戦おうとためらっていたすきにつけこみ、清州兵と沃川民堡軍兵がパムジェ(蛇峠)を越えて青山方面に逃げ始めた。

北接東学革命軍はこれらを追撃、門岩(ムンパウィ)と閑谷里(ハンゴンニ)を経て青山官衙を占領、、金奭中が率いた尚州遊撃兵隊までもさらに後退して日本軍と合流した。

記録から見て龍山市場戦闘はどちら側の勝利だったのかはっきりしない、彼我間の犠牲が大きかったことだけは事実であるようだ。

北接東学革命軍は、 14、15日二日の間青山邑内にとどまり、報恩プクシル(鍾谷)に入って惨殺されることになる。