東学農民革命現場を探して(11) -



<沃川(オクチョン)編>
沃川・青山・門岩里は東学教徒 の「小さい長安」


▲写真:門岩側から見た青山面所在地ー。ここに青山官衙があるが東学教徒達が自由に出入りした所だ。
   訳注:川は錦江の源流「報青川」で報恩、青山を経て錦江になる。左が下流。

沃川の地方の東学は創道時期に流入し、帳内里集会(チャンネリ・チッペ)のとき青山・門岩(ムンアム 又 ムンバウィ)里は小さい長安と呼ばれる程、東学教徒達の出入が頻繁だった。

門岩は東学教壇の主要問題を決定した所であり、 九月再起包令を下した歴史の現場だ。

現在の東学革命史跡では青山・ムンバウィに崔時亨(チェシヒョン)が隠れ住んだ家の跡地、村貯水池の上に 九月再起包時期に東学革命軍が屯聚して出陣準備をしたという訓練場、崔時亨(チェシヒョン)の息子崔鳳株(チェボンジュ)の墓などが伝えられている。特に 九月再起包時期に沃川の地域あちこちでは官・日本軍あるいは儒学生勢力で構成された民堡軍ミンボグン)によって多くの東学指導者達が殺された。


#創道期流入した東学教徒の通路

東学創道時期に崔済愚(チェジェウ)が 「沃川隣り村である錦山(全北錦山邑)、珍山(全北錦山郡)、知禮()、金山()等地に直接布教」したし、創道期に尚州ワンシル村(尚州市功城面孝谷里)に避難した東学教徒達が尚州牟西(尚州郡牟西面)、八音山(青山東)を越えて青山に出入りする通路のために沃川と青山はかつて東学教徒達の往来がたびたびだった。

沃川は黃澗の趙在壁大接主の管轄地域だったのに、東学革命初期である四月には黃澗、永同、沃川地域の東学革命軍を率いて錦山へ進出して錦山・珍山戦闘を繰り広げるようになる。


▲東学記念碑より華麗な青山顕彰碑。

崔時亨(チェシヒョン)が清州の孫秉煕(ソンビョンヒ)と黃澗の趙在壁の斡旋で門岩里の金聖元(キムソンウオン)の家に入ってきた時期は 1893年なのに、三月崔済愚(チェジェウ)の遭難日を迎えて青山郡포전里(現・忠北沃川郡青山面)金演局(キムヨングク)の家で孫秉煕・이관영 권재조 권병덕 임정준 이원팔等と祭礼を過ごしたという記録から見てすでに門岩は報恩帳內里と一緒に東学教壇の中心地であったことを見せてくれる。

帳内里集会ときにも、ここ門岩里は全国の東学教徒達が出入がたびたびで水辺にヤナギ林は当時の全国各地から馬を引っぱって来た東学教徒達が手綱を結んだヤナギ棒ぐいが根付いて後日ヤナギ林になったと伝える。

1894年 3月武装起包が始まるや忠清道でも散発的に東学教徒達の活発な動きを見せた。

この時、門岩チャグンベム谷にも、東学教徒達が集まって騒ぎ始め、、岩に主導者のパクヒグン(朴晦根)キムチォンソブ(金定燮)パクメンホ(朴孟浩)キムヨンギュ(金永圭)キムゼソブ(金在燮)パクチャングン(朴昌根)シンプルウ(申弼雨) 7人が名前を陰刻して命がけの闘争を決意する。

これは丸く回って名前を書くことによって主導者を隠そうとした沙鉢通文(サバル・トンムン 写真下)とは比較も出来ないほど命がけの厳しい気概を見せている。


1894年 九月 十八日崔時亨(チェシヒョン)はついに門岩里に東学指導者達を集めて武力蜂起を宣言するや全国の東学革命軍が帳內里と青山ムンバウィ(門岩)へ集まってくる。

忠清・慶尚・京畿・江原地域からやってきた東学革命軍達は全羅道東学軍と論山から合流しにいくときまで門岩貯水池の上のゴマ畑で、訓練したと伝える。















▲写真下:門岩(ムンアム=ムンバウィ)へ行く道。この場所は崔時亨(チェシヒョン)が隠居しながら東学革命を指導した歴史の地だ。
  訳注:「東学遺跡地 ムンバウィまで4.2km」とある。


#両班支配勢力 と東学教の対立深刻

東学の革命軍主力が公州での大会戦中であった 11月 8日には陽山市場での戦闘が、 11月 5日には青山석성里戦闘が起こってこの一帯は戦禍に巻き込まれた。

当時の尚州召募営将김석중は探偵から川고관里等に崔時亨(チェシヒョン)隠れ住んでいるという報告が入ってくるや大功を立てようとこの一帯に対する討伐戦に打って出る。

これと同時に沃川地域儒林で構成された民堡軍の十二名の指導者(김재빈、 박주양、 김규항、 김재소、 김중현、 송병기、 전맹호、 김영희、 민치용、 유형로、 박성환、 박정빈)が討伐戦に出る。

このような史実は沃川の村両班の支配勢力と東学の教徒間の対立の溝が深かったという事実を見せる。

以下は、政府から派遣した 경리청군(経理庁軍?)、김석중が率いる尚州召募営軍、日本の後備歩兵第十九大隊兵力、民堡軍が繰り広げた征討記録だ。

① 1894年11月18日、花序垈谷で清州大接主金子先(キムチャソン)、接司徐致大(ソチデ)、接主鄭項汝(チョンハンヨ)を逮捕、翌日화령で銃殺。

② 1894年11月19日、報恩帳内里の後ろの村で巨魁・金民伊(キムミンイ)、元性八(ウォンソンパル)を逮捕

③ 1894年11月20日、広周院(全北長水郡長水里 訳注:場所未確認)で金達文(キムダルムン)・金哲命(キムチョルミョン)銃殺。鳳岩洞(燕岐郡西面)で김민이(キムミンイ)銃殺

④ 1894年11月23日、青山の朴富万(パクプマン)、李致五(イチオ)、金順天(キムスンチョン)の三人を青山において銃殺

⑤ 1894年11月24日、駕項(カハン 訳注:報恩郡内俗離三街か)で金項羽(キムハンウ)、朴始昌(パクヨチャン)を逮捕、墓幕(ミョマク 訳注:墓守の小屋か)で鄭汗(チョンハン)を逮捕

⑥ 1894年11月27日、瓦池(ワジ 青山面大成里)で接司呂聖度(ヨソンド)逮捕 参考電報

⑦ 1894年11月28日、南進甲(ナムジンガプ)を月南店(ウォルナムジョム 訳注:場所未確認)で銃殺

⑧1894年11月30日、팔로도성찰(訳注:八路都省察?)姜敬重(カンギョンジュン)、副省察・許用(ホヨン)を青山・東市(青山面法化里?)で銃殺

⑨ 1894年12月2日、車南里(チャナムニ)(訳注:青城面三南里?)で隊長 徐五徳(ソオドク)を逮捕、前日生け捕りにしたキムギョンヨンとソオドクを小巳洞(ソサドン・チャグンペムティ=小蛇峙)で銃殺

⑩ 1894年1月9日 沃川(オクチョン)の李大哲(イデチョル)利原驛(咸鏡南道?)省察、張命用(チャンミョンヨン) 、李五龍(イオリョン)、高德賢(コドクヒョン  梧井洞接司 訳注:梧井洞は大田・東区)、 高遠行(コウォンヘン)接司、高敬一(コギョンイル)を茂朱で銃殺

こういうわけでこの近隣一帯には東学の子孫が多い。大蛇峙(クンペムティ 青城・三南里)で徐五徳(ソオドク)隊長の子孫ソチォンヒ氏と会い曽祖父(徐五徳)が東学軍での苦労の末、銃で撃たれて亡くなったと話した。

#息を潜めて生きた東学の子孫達

徐氏族譜の徐錫奎(ソソッキュ 字=あざな 元瑞1856-1894)」の死亡日時は12月 1日となっており尚州召募営の銃殺記録と一致する。おそらく徐五徳は東学の革命軍主力が公州で移動して出たあと地域防御の任務に当たったものと思われる。

서제村、숯먹이(수묵이)、 삼실(麻谷)等にも裵安順(ペアンジュン)、李判石(イパンソク)接司たちを処刑した、という官の記録と一致する東学遺族らが生きていたが、自分が東学の子孫だと乗り出したのは最近のことだ。