東学農民革命現場を探して(10)



-報恩篇

報恩帳内里(チャンネリ・外俗離)は名実共に東学教壇の中心地

※忠北の地理

▲下の写真:プクシル東学公園鳥瞰図。公園造成工事は数次の設計変更をたどって不可解な事業として進行している。


報恩は東学布教の中心地であって報恩聚會と 9月再起包でプクシル(報恩邑鍾谷)での最終戦闘に至るまで東学革命史の嵐の中心に座っている。

創道主・崔済愚(チェジェウ)が宣傳官・鄭雲龜に捕まってソウルに押送されるとき、護送行列が尚州ファリョンを経て報恩(ポウン)官衙へ入ってきたとき、東学教徒の吏房(地方役人の職のひとつ)が崔済愚(チェジェウ)に礼物を捧げた、という記録から見て報恩地方に東学が流入した時期は唱導初期であるようだ。


これは慶州において圧迫を受けた東学教徒の相当数が尚州ワァンシル村(尚州郡功城面孝谷里)へと逃れたが、彼らは俗離山を越えてきて布教したと思われる。

報恩は尚州から八音山を越えて青山(沃川郡)へ通じる道や、秋風嶺(黄金面)を越えて黃澗(永同郡)、青山へ通じる道、永同、茂朱に通じる四通八逹の地理的な条件だから東学が活発に流通されたはずのことに見える。




#民衆の力量結集された報恩聚會

帳内里(外俗離 報恩郡外俗離面)は崔時亨(チェシヒョン)の逃避先で東学教壇の中心地となった。 1886年に六任制(ユギムジェ)を置き包(ポ)の組織強化とともに東学教勢が拡張されよう大都所のある報恩は公州集会と三礼集会、光化門伏閤上疏、報恩聚會を主導する教壇の中枢地となった。

1893年 3月、崔時亨(チェシヒョン)は唱導主・崔済愚(チェジェウ)の조난饗礼の日を迎えて決断を下し、報恩聚會通諭文を出す。

帳內里には忠清・全羅・慶尚・京畿・江原など全国各地から数万名の教徒が雲集したが、その勢いが隣り村青山面文岩里(ムンバウィ 訳注:青山面青山里の南)まで伸びた。

教徒達は半丈の高さの石城を積み上げ、各包には大接主が座り秩序整然と包を統率し、東学祈文を暗唱した。

それでは報恩聚會は今まで実施してきた参礼、公州集会とどんなに違っているのか。先ず、郡主に送る集会通文と忠清監使に送った방문内容がいままでの教祖伸寃運動とは違い「輔国安民」「斥洋斥倭」のような民衆の現実問題を扱っているという点だ。

すなわち、国内の腐敗した貪官汚吏に対する抵抗と外勢侵略に対する警戒を掲げた社会運動として発展しながら社会的である名分まで獲得することになった。

このように報恩聚會は支配秩序に対する民衆の不満を総体的に結集して封建支配階層に抵抗する理念を提供することによって民衆運動の転換期的局面を迎えるようにした事件だったのである。

#東学革命軍、公州城攻撃の準備

1894年 9月 18日、崔時亨(チェシヒョン)がついに、今や座して死ぬよりは立ち上がって力を合わせて争うときだ、と武力蜂起を宣言するや、京畿・忠清・江原地域から蜂起した東学革命軍が帳內里に集結する。

▲下の写真:報恩帳内里(チャンネリ)
1年 6ヶ月目に再び玉女峰(オンニョボン 訳注:忠北槐山郡七星面沙隠里갈론)の下の川辺に400余ヶ所の掘っ立て小屋を作って留宿するようになったのである。
玉女峰

ここに報恩、文義、清州の東学革命軍が合流して 2万余名に達し、永同の沃川、青山地域から 1万余名が青山작은 뱀골に集まった。

崔時亨(チェシヒョン)は孫秉煕(ソンビョンヒ)を統領に任命する。孫秉煕は 1万名の東学革命軍を率いて論山に向かって出発して湖南の全琫準(チョン・ボンジュン)軍と合流する。

沃川(訳注:忠清北道沃川邑)・黃澗(訳注:忠清北道永同郡黃澗)・永同(訳注:同郡永同邑)の東学革命軍は懐徳(訳注:大田市街北)芝明(チミョン)市場で官軍を蹴散らしたあと公州東北側の大橋へ進出して公州城を包囲攻撃する態勢を備える。





#報恩一帯 残酷な戦争


主力が報恩帳内里を発ったあと、 11月 5日には青山里석성리で、 11月 8日には梁山市場での戦闘が起ころ官・儒會軍の討伐戦が起こって報恩一帯は残酷な戦禍に巻き込まれることになる。

一方、公州で合流した南北接東学連合軍は公州城を目前に控えた牛金峙で敗れてしまう。

南接軍は、金溝(クムグ 訳注:全北金堤キムジェ郡金溝面・全州南西)・院坪(ウォンピョン 訳注:金溝東南)戦闘を最後にして算を乱し、孫秉煕(ソンビョンヒ)が率いる北接軍は、任實(イムシル 訳注:全北任實郡)새목터(セモクト 訳注:全北任實郡青雄面)まで後退する。

ここで崔時亨(チェシヒョン)と合流して根拠地である忠清道に向かって小白山脈に従って北上する。

12月 9日長水(全北長水郡)、茂朱(忠北茂朱邑)を経て永同(忠北永同邑)まで上がってくる間に十八回の戦闘を重ね疲労の極にあった。

彼らは十三日に青山(忠北沃川郡青山面)へ入ってここで十五日までとどまったが、官・日本軍が追撃してくるという消息に接して十七日夕刻には悲運の地プクシル(報恩邑鍾谷)に帰ってくる。

寒さと飢えに疲れきった東学革命軍は官・日本軍の襲撃を受けて悲惨な殺戮に遭う。

東学革命軍は翌朝まで抵抗したが銃弾が尽きついに戦闘力を喪失した。日本軍の記録は、戦闘が終わったあと日本軍の目に映った惨状を「死体は雪で覆われたプクシルのあちこちにお互いを枕にするように重なって谷間を埋め何百名死んでいるのかその数を数えることもできななかった」と記録している。

それでは東学革命軍犠牲者はどれほどになるのだろうか。日本軍の記録は戦闘の中に銃に撃たれて死んた数を 300人とし、 <梳毛糸室>では 395人、 <討匪大略>(訳注:김석중キムソクチュンが1894年慶尚道 尚州と忠清道報恩などの地を中心にして展開された、保守両班側の東学革命軍針圧関連記録<한국민족문화대백과より> )には「為乱砲所斃者二千二百余人夜戦所殺為三百九十三人(乱胞で殺された数が 2、200余名であり、夜間の戦闘において殺された数は 393人」だった明らかにしている。彼らの死体はプクシル(報恩邑鍾谷)あちこちに集団埋められた。

▲写真左 <討匪大略>









#歴史のないプクシル(報恩邑鍾谷)東学公園


▲写真左:帳内里史跡地毀損現場。

報恩郡は、このような悲運の地プクシル(報恩邑鍾谷)に 2003年から現在まで公園造成費 70億余ウォンを投入して、歴史とは距離が遠い変な東学公園造成事業を進めている。

国籍不明の石城の築き、耐久性のない木階段を作るなど、むしろ自然をひどく破壊してしまった。

これについて昨年 四月「忠清地域市民連帯」において疑惑を提出して、郡に事業中断を要求しがそれを黙殺したまま現在も事業が進行している。

最近「忠北地域東学革命記念事業会」が発足したので、報恩郡に帳内里聚會(チャンネリ・チュイフェ)とプクシル(報恩邑鍾谷)東学軍集団埋葬地が国家及び道史跡地として指定されることを目指して、これに必要な行政手順に推し進めるよう促してきたけれども郡からは資料で史跡指定はできないといった根拠のない回答がきた。

学界はすでに2地域に対する史蹟はもちろん、歴史的意義を評価している。

すでに、公州集会、三禮集会は報恩聚會前史として史跡地に指定されていることはもちろん、記念事業もすでに行われた。

その間帳内里は個人用墓地造成事業、牛舎建築、個人住宅建設に至るまで歴史現場がひどく壊され、プクシル(報恩邑鍾谷)東学軍集団埋葬地では開墾事業が進められたり養豚舎が作られたりしている。

帳內里とプクシルは史跡地として指定されなければならない。そしてこの地域の歴史的特性を生かし、社会団体はもちろん住民の意見が総体的に結集された記念事業が進められなければならない。

▲写真右 報恩プクシル(鍾谷)